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 けたたましい音が鳴り響いて、僕は目を覚ました。凛花の隣にそびえる大仰な機械が、狂ったように鳴いていた。この機械がどういう役割を担っているのかはわからないが、緊急事態だということはなんとなくわかった。複数の看護師が凛花のところに集まり、やがて医師もやってきた。

「限界ですよ!」

 佐藤ではないベテラン風の女看護師が怒声をあげる。佐藤はただおろおろしているだけだ。しかし、それを見ても、今の僕は落ち着けなかった。

「もう少し待てるんじゃないか?」と医師がいう。それに対して先ほどのベテラン看護師はさらに語気を強めた。

「躊躇しては駄目です! このままだと母子ともに危険です!」

 僕は耳を疑った。この看護師は今、「危険」といったのか。「母子ともに」は「健康です」の枕詞ではないのだと、僕は初めて知った。

 嫌な光景が脳裏に浮かぶ。叫び続ける機械の電子音。焦る医師。血の気がなくなっていく凛花。

 嫌だ。そんなこと、あってはならない。

「あの━━」

 妻を助けてください。最悪、赤ん坊は諦めるので。喉元から出かかった僕の言葉を遮ったのは、医師だった。医師は意を決したように一つ頷き、僕の方を向いた。

「ご主人」

「はい」

「赤ちゃんなんですが、もうすぐなんです。もう、すぐそこまできてます。でも、後少しのところでなかなか出てこなくて」

 まさか、この期に及んで「ママのお腹は居心地が良い」などと微笑ましいことを言うつもりなのか。そんな言葉は絶対に聞きたくない。

「危険な状況なんでしょう?」

 僕は口を挟んだ。医師はその質問を想定していたと言わんばかりに、すぐさま首を横に振る。

「大丈夫です。ただ、帝王切開に切り替えたいと思います」

「え? テイオーセッカイ?」

 焦りで頭が回っていない僕は、それが競走馬の名前ではないと気がつくのに、少し時間がかかった。

 帝王切開。凛花の腹を切り、赤ん坊を取り上げるのだ。

「手術にはご主人の同意が必要です。よろしいですか?」

 初めて医師を見たときの柔らかい表情は消えていた。

「よろしいですかって……」

「どうしますか?」

 医師の語気が強くなる。それだけ、切羽詰まった状況なのだろう。しかし、よろしいですかも何も、腹を切らなきゃ凛花は死ぬのではないのか。ならば、選択肢などないではないか。許可なんていらないから、さっさと切れよ、と僕は腹が立った。

 しかし、結局こうなるのであれば、何故今まで決断しなかったのか。まさか、経験がなくてビビって、今の今まで無駄に粘ったのではないか。凛花は無駄に苦しめられたのではないか。もっと早くに帝王切開に踏み切っていれば、今頃すでに赤ん坊と対面していて、僕の手が傷を負うこともなかったのだ。

 全部、吐き出してやろう。誰かに負の感情をぶつけることなんてそうはないが、今は凛花の命がかかっている。良い人になる必要なんかない。

 そう思ったとき、医師と目があった。その鋭い眼差しに、僕はふと、我に返る。

 胸に手を当て、息を吸い、吐く。落ち着け。頭に血がのぼり、沸騰している。冷静になれ。手術に同意を求めるのは当然だし、医師だって可能な限り凛花の体に傷をつけず、お産を終えたかったのだ。医師が、佐藤が、ベテラン看護師が、そして何より凛花が、新たなひとつの命と真剣に向き合っている。

 僕はもう一度深呼吸をし、頷いた。

「お願いします」

 そこからは早かった。

「ご主人は外で待っていてください」と佐藤に追い出された。妊娠がわかってから今日まで、短くない時間を凛花とともに戦ってきたつもりだったが、僕はそこで退場だった。ご主人の手はもう必要ではなくなった。

 僕は凛花が出産後に入院することになる病室で待機することになった。狭かったが、一人で過ごすには十分そうだ。そう考えてすぐに、一人で過ごすのではないことを思い出した。このベッドで、凛花と赤ん坊は一緒に寝るのだろうか。だとすると、柵がない。これでは赤ん坊が落ちてしまう。どういうつもりなのだろう、と僕は腹が立った。そして、一丁前に父親気分であることが可笑しくて、一人で笑った。


 病室に入ってから二十分ほどが経過した頃、部屋の外から、かすかに赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。僕は座っていた椅子から反射的に立ち上がる。自分の子だ。そう直感した。

 やがて、病室のドアが開いた。

「産まれましたよ、男の子です!」

 入ってきたのは目を赤くした佐藤と、白いタオルにくるまれ、彼女の腕に抱かれた赤ん坊だった。

「あの、妻は?」

 その時の僕はすでに落ち着いていて、院内に入る前の「余裕のある夫を演出したい」という気持ちを取り戻していた。子どものことよりも、凛花のことを心配しているという風に見せたかったし、実際、心配もしていた。

「今は眠っています、起きたらお会いになれますよ」と佐藤はいった。「抱っこ、してみてください」

 佐藤は赤ん坊を僕に渡そうとした。僕は吸い寄せられるように、赤ん坊に近づく。

「片方の腕で首を支えて、もう片方でお尻を」

 佐藤の言いつけを守り、赤ん坊を腕に乗せる。

 軽かった。まるで発砲スチロールを抱えているような量感。それでも、これが、命なのだ。この軽い物質はたしかに生きていて、僕はたった今、それを命をかけて守るという、重い、重い使命を授かったのだ。

 そこで、僕はようやく赤ん坊の顔を見て、そして、息をのんだ。誰に似ているか、すぐにわかった。

「ママ似ですかね?」

 佐藤がいった。

 違う。凛花ではない。たしかに、僕よりは凛花に似ている気がしなくもないが、もっと似ているのがいる。

 赤ん坊は父にそっくりだった。

 しばらくの間、無言で赤ん坊を睨んでいると、佐藤は「緊張してますね」と笑ったが、そうではない。初めて見るはずの顔が、二度と見たくないと思っていた顔だったことに、僕は戸惑っていたのだ。

 これは、どう見ても、父だ。間違いない。何度見ても、父だった。

 何年も会っていない父。どこにいるかもわからない、もしかしたら、すでに死んでいるのかもしれない父。そうだ。奴はすでに死んでいるのだ。だからこうして、凛花の腹を巣食って、生まれ変わったのだ。

「どういうお子さんに育つでしょうね」

 佐藤が感慨深そうにいった。僕は適当に「どう、でしょうね」と返事をしたが、内心は違った。

 どういうお子さんに育つかもクソもないのだ。何故なら、これは父なのだから。父は何度生まれ変わっても、父になるしかない。

 嫌味で、僕には何の愛情もなくて、不倫して母さんを傷つけて、そして、人を殺す。

 どういうお子さんに育つかもクソもない。またそういう人生を送るだけだ。

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