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「あー、旦那さん来ましたよ!」
僕が分娩室に入ると、若い女性看護師がパタパタと近寄ってくる。この看護師が佐藤だと、僕に確信させるほどの、見事な慌てぶりだった。
「お待ちしておりました! 奥さんの手、握ってあげてください」
佐藤は僕の手を取る。じっとりと、汗ばんでいた。僕は凛花と、母の手しか知らないが、どちらもこんなにじっとりしてはいなかった。一般的に女性は、みんなこんなにじっとりしているのだろうかと思ったが、そんなことはないだろう。
「奥さん、旦那さんですよ!」
佐藤は救世主が来たとばかりに、僕を分娩台の近くに連れて行ったが、凛花は僕のことなど見もしなかった。苦しそうに顔を歪めている凛花の額には、玉のような汗が浮かんでいて、髪がべっとりと張り付いている。鼻の頭に皺が寄っている。まさしく、苦悶の表情。いつも気が強く、他人に弱っているところを見られないように振る舞っている凛花のそれは、とても貴重だった。滅多に見られないような、オーロラを見たような特別感があった。
「旦那さん、手を」
佐藤に言われるまま手を差し出すと、凛花は僕の顔には見向きもせず、勢い良く手を握ってきた。僕は驚いた。それは佐藤以上に凜花の手が汗ばんでいたことに対して、ではなく、握力に対してだ。骨が砕かれるのではないか。そう恐怖心を抱かせるほどの、力強さだった。僕が手を離そうとすると、逃さないとばかりに、凜花はさらに力を込める。
「着信、気がつかなくてごめん。仕事が手を離せなくて」
僕は手の痛みに頬を引きつらせながら、謝罪だと受け取ってもらえるように言い訳した。これは会社を出たときに気がついたことだが、僕の携帯には凛花からの着信が鬼のように届いていた。
直後「あぁ!」と突然凛花が叫んだ。僕の手の肉に凛花の爪が食い込む。僕も思わず「あぁ」と悲鳴をあげる。
電話に出なかったことの仕返しをされたのかと思ったが、そうではないだろう。きっと、今となっては僕が電話に出なかったことも、それに対する僕の言葉が謝罪でも言い訳でも、凛花にはどうでも良かったに違いない。凛花は出産の痛みで、それどころではないのだ。
一緒に戦わなければ。僕は気持ちを強く持った。しかし、それとは裏腹に、右手は凛花から距離を置こうとしている。痛みでヒリついた手を、逆の手で擦りたかった。もちろん、凛花は離してくれない。
しばらくすると、分娩室に恰幅の良い、禿げた男の医師が入ってきた。この人が我が子を取り上げてくれるのだろう。僕が軽く頭を下げると、医師は優しそうに微笑み、同じように軽く頭を下げた。
僕は不安になった。凛花が苦しみ、佐藤が慌て、僕ですら手の痛みに涙が出そうな、そんな状況の空間に、医師の柔和な表情は異物だった。この医師は、僕を落ち着かせようとして落ち着いている。それは、意識的に自らを落ち着かせなければ落ち着いていられないことの証拠であり、それに気がついた僕は落ち着いていられなかった。
医師は笑みを湛えたまま僕の後ろを通り、凜花の足の近くに立つ。すると、おもむろに股間に手を突っ込んだ。凛花が「あぁ!」と叫ぶ。爪が食い込み、僕も「あぁー!!」となる。
「うーん。まだだね」
医師は吐き捨てるように言って、笑みを湛えたまま、分娩室を出ていった。
僕は恐ろしかった。こんなに苦しんでいるのに「まだだね」ならば、いざ産まれる時はどうなってしまうのだろう。その瞬間、僕の右手は破壊されるのだろうか。
「旦那さん、手を」僕の心配をよそに、佐藤は追い打ちをかける。「今、奥さまが必要としているのは、旦那さんのその手です」
どうも佐藤は「旦那の手」に対して幻想を抱いていたが、凛花が必要としているのは「握りごたえのある何か」であることに、僕は気がついていた。オリンピックに握力競技があったら、会場は分娩室が良いだろう。
日付が変わっても、我が子は産まれてこなかった。時折、例の医師が入ってきては、凛花の股間に手を突っ込み、「まだだねー。ママのお腹が居心地良いのかな?」と言って出ていった。
出不精の僕に似たのかもしれない。何故、僕はもう少し活発な青春時代を送らなかったのか。
「旦那さん、そちらで横になっても構いませんよ」何回目かに医師が出ていった後、佐藤は分娩室の脇にある小さなソファに僕を促した。その目はいやに優しく、落ち着いていた。「私たちがついています。何かあったら起こしますから」
場にそぐわないガッツポーズではあったが、佐藤もこの出産に立ち会い成長したのだと僕は思った。
このタイミングで休むことに対して後ろめたさはあったが、事実、僕の体力も限界だった。幸いにも、少し前から凛花は僕の手を離していたし、こちらには目もくれていない。
「それじゃ、少しだけ」
僕は分娩台を離れてソファに向かう。
横になり、ふと凛花の方を見ると、佐藤が何やらお手玉のような柔らかそうな球体を凛花に手渡していた。そうか。佐藤も一皮むけたな。
僕は分不相応な幻想から解き放たれた我が右手で、そっと目を覆った。
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