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外に出ると、すでに辺りは薄暗くなっていた。雪がちらほらと降る街の中を、僕は駆けだす。一刻も早く凛花のところへ向かわなければという思いで身体が動いたが、元々体力に自信がないうえに、全速力で走るのが高校の体育の授業以来とあっては、当然、目的地のN産婦人科クリニックに着くころには、僕の心臓は暴れまわっていた。
院内に入る前に、入口前で膝に手を置き、荒くなった呼吸を二分くらいかけて整える。出産というビッグイベントではあったが、落ち着かなければいけない。それは凛花を安心させるということはもちろん、周囲の人に対して余裕のある夫を演出したいという思いもあった。
意を決して入口の自動ドアを抜けると、眼鏡が一気に曇る。冷気によってぎりぎりと締められていた顔中の筋肉が、暖気によって弛緩する。僕は寒暖差の恐怖にぎゅっと目を瞑った。昔から怖いものなどあまりなく、夏の心霊番組とかも平気なのだが、寒暖差だけはどうしても駄目だった。心臓が寒暖差に負けてしまったら。そう思うと、朝風呂にも入れない。
以前、その恐怖心を凛花に伝えたことがある。付き合って初めての冬のことだ。雪の降る夜に二人で転がり込んだラブホテルの部屋は、暖房が効いてぬるっとしていた。
寒暖差を恐れて顔が強張る僕を、凛花は怪訝そうに見ていた。僕が一世一代の告白のつもりで、「ヒートショック」とつぶやくと、「まだ若いんだから大丈夫でしょ。ジジくさい」と凛花は呆れていた。そんなことよりシャワーを浴びてこいといわれ、僕は慌ててバスルームに逃げ込んだ。
それを言われたときは気にしていないつもりだったが、交じり合っている最中、ふと自分の動きがいつもより激しいことに気がついた。「ジジくさい」と言われたことにひっそりと傷ついていた僕は、それを挽回しようと腰を振っていたのだ。ジジイにこんな動きはできないだろう、と。今思うと、本当に馬鹿だなと思うが、でもたしかに、激しいセックスをして、心臓に負担をかけた後でも、僕は変わらずに生きて何事もなく、乾いた喉をコーラで潤していた。きっと凜花は正しかったのだ。今でも恐怖心は拭いきれていないが、僕は寒暖差で死ぬことはないのだろう。少なくとも、今はまだ。
院内に入った僕は受付の女性に向かって名前を告げた。
「お待ちしておりました」
女性のかけるシルバーフレームの眼鏡と、左手の薬指に光るシルバーリングが、知的な雰囲気と冷静さを醸し出すのに一役買っていた。電話で話した佐藤が随分と慌てていた分、僕は却って面食らってしまった。
「ご案内します」
女性はロビーに出て、受付に向かって左の階段から分娩室のある二階にスタスタと進んでいこうとする。その足取りを見て、この人の子供は、きっと道を迷わないだろうなと思った。
「どうされました?」
女性は階段を三段登ったところで振り返る。僕はまだロビーに佇んでいた。女性が落ち着きすぎて、足が止まっていた。
「あの、あの」
「はい」
「あの、連絡をくださった方は、随分と慌てていたようでしたので。もしかして、一大事かなと思って、慌ててきたんですが」
すでに、余裕のある夫を演出したいという僕の思惑は崩れていた。
「電話……ああ、佐藤ですね」
「あ、はい。佐藤です」
名前を呼ばれたので返事をしたのだが、女性は不思議な顔で僕を見ていた。会話が噛み合っていない。女性はすぐにその原因に気がつき、「いえ、あなたのことではなく、電話をした看護師のことです」といった。
僕はそこで初めて、「そういえば僕と名字が同じだな」と意識した。佐藤という人間に会ったことはこれまでにももちろんあるが、佐藤なんてありふれすぎていて、同じ佐藤を見る度に「同じ名字だ」なんて感動していたら、同じ車種で同じ色の車が二台並んで駐車していた日には、きっと昇天してしまうだろう。
「とにかくこちらへ」
女性に促されて、僕はようやく階段を登り始めた。
「佐藤は四月に入った新人でして」歩きながら、女性が口を開く。「慌てるなといつも言われているのですが」
女性がため息をついた。それすらも、とても絵になっていた。
「あなたが教育係なんですか?」
僕が訊ねると、「いえ。私は医療事務ですので」と女性はいった。
「それにしても、もう十二月ですからね。何回か出産にも立ち会ってはいるはずですが、どうにも慣れないようでして。そろそろ落ち着いてほしいものです。もっとも、生命が一つ産み落とされるわけですから、一大事には違いありませんが」
「さあ、こちらです」と僕の目の前に分娩室の扉が現れる。役目を終えた女性は、一礼して、受付に戻ろうと踵を返した。
「あの、ありがとうございました」
僕の言葉に女性は振り返る。
「あなたがすごく落ち着いていたおかげで安心できました」
言い終わってから、僕は「あれ?」と心の中で首を傾げた。最初こそ、受付女性の落ち着きぶりに僕は慌てたが、結局、今の僕は大分平時に近い精神状態に戻っている。だとすれば、僕の空想上の厚生労働省のマニュアルは間違っていたことになる。いや、間違っていたというよりも、
「結局、人それぞれ。状況によりけり、ってことか」
一人納得した僕を見て、女性は眉をひそめたが、何も言わずに再び歩き出した。
僕は冷静さを取り戻していた。今ならきっと、しっかりと凛花を支えられる。深めた自信を胸に、僕は分娩室の扉に手をかけた。
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