そして、父がくる

井崎弘大

1

 A信用金庫T支店の電話が鳴ったのは夕方の四時頃だった。

「佐藤くん、電話! N産婦人科クリニックだって!」

電話を取った窓口係の三木美紀子みきみきこさんは、どこか興奮している様子で、僕が受話器を取り、保留ボタンを解除するのを見ていた。気にしない、気にしない、と僕は必死に自分に言い聞かせる。

 電話の向こうの女は佐藤と名乗った。

「旦那さん! もうすぐです!」

「もうすぐ……」

 僕は少し考えた。いや、考えるふりをして、間を取った。「産婦人科」から「もうすぐ」と言われたら、それは赤ん坊が産まれるということだろう。考える必要などない。

 僕が間を取りたくなったのは、まだ予定日より二週間も早かったからだ。予定日には休みをとろうと思っていたが、この日に産まれるなんて思ってもいない僕は、妻の凛花を家に一人残して仕事にきた。

「産まれるんですか?」

 平静を装って訊くと、佐藤は「そうです」といった。何故だ。何故こんなに早いのだ。初産は相場が予定日より遅くなると、どこかで聞いたのは嘘だったのか。

 僕はパニックになりそうだったが、そうはならなかった。それはほかでもない、佐藤のおかげだった。電話越しの佐藤は、僕よりもパニックになっていた。

「家から電話がきました。いえ、家というのは私の家ではなく奥さまの家です。あ、奥さまの家、ということは旦那さんの家でもありますね。申し訳ありません」

 おおむね、このようなことを佐藤は言っていた。若そうな声色だったし、まだ出産に立ち会った経験があまりないのかもしれないと思った。僕は「今から行きます」と言って、電話を切った。

 支店長に凛花が産気づいたことを伝えると、僕よりも慌てた様子で「早く行け」と言った。早退届を書こうとすると「そんなものいいから! 早く!」と怒鳴られた。「そんなもの」の雛形を作っている総務部が、少し可哀想に思えた。

 それにしても、だ。佐藤にしても、支店長にしても、何故僕より慌てるのだろう。おかげで、僕は慌てられなかった。初めての出産だし(僕が産むわけじゃないけど)、少しくらい慌てさせてほしかった。

 そう思ったところで、もしかしたら、僕が知らないだけで、世の中には「周りに出産を控える妻を持つ夫がいた場合の対応マニュアル」みたいなのがあるのかもしれないと思い至った。例えば、


 ◯ 当事者を落ち着かせるために、あなたはできるだけ慌てなければいけません。


 というようなことがつらつらと書いてある、厚生労働省あたりで作成したものだ。

 もし、本当にそんなものが存在するとしたら、きっと、そのマニュアルは正しい、と僕は思った。証拠は僕だ。慌てた佐藤と支店長のおかげで、僕はとても落ち着いていた。今度、厚生労働省のホームページでも見に行ってみよう、と思ったけれど、同時に、たぶん見には行かないな、とも思った。

 落ち着いていたのは三木さんだった。三木さんは「ちゃんと凛花ちゃんのこと、支えるのよ」と僕の机に座ると、処理の途中だった事務仕事を変わりにやってくれた。僕はとても恵まれた環境で仕事をしているのだと、三木さんに感謝の念を抱きながら、営業室を後にした。

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