11・顔のない悪意


 星宇はその後、三日と空けずに菫花殿に通ってくるようになった。

 二度目に来たとき、星宇は双六を持ってきた。「おまえはガキだから喜ぶかと思って」と言って。

 夜鈴は喜んだ。「こういうのやったことないんですよー!」と、夢中になってやった。まともな子供時代を送ってこなかったのだ。星宇が帰ってからは香月とやった。「夜鈴様、妃嬪のお役目は主上の双六の相手ではございません……」とため息をつかれたが。


 何度目かのお渡りで、碁石と碁盤をもらった。双六よりぐっと大人の遊びだ。奥が深い。

 星宇がくれた図入りの初歩的な碁の教本を見ながら、きょうの夜鈴はひとり、窓辺でぱちりぱちりと碁石を打つ。


 なんだろう、このおだやかな日々は。

 周家で擦り切れ果てた心身が蘇るようだ。

 七歳で凍ってしまった心が、日ごとに溶けだしてみずみずしく再生していくようだ。


(後宮、嫉妬さえなければ最高なのでは……)


 ずっとここで飼われたい。飼ってくれるだろうか。星宇は飼ってくれそうな気がする。

 平穏な日常に静かに感動していると、香月が「星照殿から桃が届きましたよ」と剥いた桃を持ってきてくれた。


「わー……。おいしそう……」


 桃はうれしかったが、星照殿から贈り物がある日は星宇が来ない日だ。つい、がっかりが顔に出た。


「夜鈴様、すっかり主上が大好きにおなりになって」

「うん」


 少し前の香月なら「ね、恋に落ちましたでしょう?」と目をキラキラさせて訊いてきたところだ。最近は半分あきらめられている。星宇と夜鈴の関係は、飼い主と子犬みたいなものだから。


(おだやかな毎日なんだけどね……)


 星宇と男女の関係はない。いまだもってまったくない。めんどうごとは御免なので、そのことに不満はない。


 しかし菫花殿にお渡りがなかった晩、皇帝陛下は藤花殿にお渡りになったと噂できくと、夜鈴の胸は錘を飲み込んだように重くなった。幾夜もの添い寝で、だいぶ妖の力を吸い取っただろうから、星宇はもう人間の女を抱けるかもしれない。できるとなったら、真っ先に向かうのは馴染みのある芳静のところだろう。


 星宇の後宮ができた最初から相談役として、星宇を支え続けている美しく賢い方士の妃。

 妖の分際で勝てるわけがない。

 そもそも勝負する気もない。なかったはずだ。なかったはずなのだが――。


(こういうのほんといや!)


「桃たべようっと」

「たくさんいただいたので、蜜に漬けて桃露冰とうろびんもつくりました。白玉や寒天と合わせていただくとおいしいですよ」

「すごい。たのしみ」


 皇帝の訪いを待つ日々は嫌だ。喰呪鬼として後宮で飼われるのはいいが、夜鈴は妃嬪には向いていないと思った。


 菫花殿に仕掛けられた呪物を毎日探している。星宇が通うようになってから呪符が六枚、人型が藁三つに紙十二枚、見つかっている。ほうっておいても喰呪鬼の力で無効化するし、怖がらせたくないから香月には黙っている。巫毒は下準備に時間がかかるから、壺が見つかるならこれからだろう。


 見知らぬ妃嬪たちの中に、自分に対してこれだけの怨念が渦巻いているのだ――。

 呪いそのものは効かずとも、この悪意の数だけでしんどくなってくる。峰華と麗霞の悪意には顔があった。ここでの悪意は顔がまるで見えない。


(呪いだけで済めばいいけど)


 夜鈴は左目に手を当てた。

 麗霞に錐でざっくり傷つけられた瞼と頬。

 傷はきれいに消えたとはいえ、錐を振り上げた麗霞の憤怒の形相は、夜鈴の脳裏から消え去ることはなかった。


 誰かに傷つけられるのはもう嫌だ。

 自分の存在が誰かにあんな顔をさせるのももう嫌だ。

 見知らぬ誰かが物陰からあんな顔で見ているかもしれないと思うと、今ここでのおだやかな時間も、たちどころに暗雲の影に入ってしまうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る