10・追っかけ宮女
朝、星照殿へ帰る星宇を夜鈴はねぼけたまま見送った。星宇は苦笑して、「またくる」と言って夜鈴の頭をくしゃっとなでた。
夜鈴が居間に移ってぼんやりしていると、香月がにこにこしながら朝餉の粥を運んできた。生姜のよい香りが部屋に漂う。
「よかった。夜鈴様がお元気に朝を迎えられて」
「うん」
「もし差支えがなかったら、後で昨晩のご様子を話していただけると助かります。今後の心構えがありますし」
「うん」
「もちろん話せる範囲内でよいので」
「うん」
「……なんですか、夜鈴様。さっきからわたくしの顔をじっとご覧になって。なにかついていますか」
「ううん。別に。お粥おいしい」
「それはよかったです。――へんな夜鈴様」
よかった。本当によかった。
香月がやさしいままで。あの夢みたいなのではなくて。
うれしくて、夜鈴はなんだか泣きたいような気持ちになった。こんな気持ちは感じたことがなかった。周家にいたころは、よろこびも悲しみもなかった。心が乾ききって何も思わなかった。ほんの数日前までのことなのに、何があったか思い出すのが難しいほど、周家の夜鈴は心が死んでいた。
(心がよみがえったのは、主上がとなりで寝てくれたから――?)
夜鈴をなでてくれる大きな手。
夜鈴を囲い込んでくれるたくましい腕と胸板。
夜鈴を落ち着かせてくれる低くおだやかな声。
「で、陛下は、そのう、おやさしかったですか?」
おずおずと、香月が尋ねてきた。
「うん。やさしかったよ。すごく」
「よかったです……!」
「なにもしてないけどね」
「えっ待ってください。なにもしてない? なにもしてないって?」
香月にどこまでなら話していいかわからなかったので、夜鈴は粥をたいらげると、逃げるように居間を去った。
初夏の朝日がまぶしい園林に出る。木々の枝を透かす日の光を浴び、大きく伸びをしながら、夜鈴は呪詛の気配を探った。
(どうせ主上が菫花殿にお渡りになったことは、すぐ知れ渡るんでしょ)
きっと呪われる。ほかの妃嬪に呪われまくる。
(効かないけどね!)
夜鈴は腰に手を当て、きりっと園林を見回した。
ふと、こちらを見る目に焦点が合う。
「あれっ」
まんまるく見開かれた目が、樹木の陰からこちらを見ていた。見たことのある人物だと思った。簡素な襦裙を着た年若い宮女だ。
「あなたは――」
声を掛けようとすると、猫を思わせる小柄な宮女は、まるい目をさらにまるくして頬を赤らめ、ぴゅうっとどこかへ逃げてしまった。
「大きな目の小柄な宮女ですか? わたくしが見た方と同じなら、梅花殿に仕える宮女ですね」
香月が器用に夏橙の薄皮を剥きながら答えた。先程星照殿から届いた夏橙らしい。爽やかな香りが部屋いっぱいに満ちている。剥いてもらうそばから食べるのも卑しいかと思い夜鈴が唾を飲み込んでいると、「どうぞ」と笑いながら器ごと差し出された。
「果物を剥いてもらえるなんて……」
夜鈴が感動していると、香月は不思議そうな顔をした。しまったと思った。正妻の子ではないとはいえ、表向き夜鈴は名家で育った令媛なのだ。果物なんて剥いてもらって当たり前の。
(いつか香月に本当の育ちのこと、言えるかな……)
夢で見た香月の侮蔑の表情がちらと頭をかすめる。夜鈴はあわてて想像を振り払った。
「夜鈴様がお会いになったのは、梅花殿にお住まいの
「よその殿舎の官女がなんで。偵察?」
「最初、わたくしも偵察かと思ったのですが。そういうかんじではなかったのですよね」
「あーたしかに。ぼーっとして緊張感がないというか。隠れてるようで隠れてなかったし」
「そうなのです。それで、下女にあの子はなにかしらと訊いたら」
「訊いたら?」
「夜鈴様の支持者というか、愛好者というか、追っかけというか――ではないかと」
「追っかけ???」
「夜鈴様はお美しいですから。追いかけてお姿を見たくなる気持ちはわたくしもわかります」
「へえ。なんかくすぐったいな」
「そこで尊大にも謙虚にもなられないところが夜鈴様のいいところですね」
「香月もきれいだから、わたしは見たくなるよ」
「またまた」
「わたし、菫花殿が好きだけど、香月がいるからだよ。香月が、きれいでやさしいから」
「…………本当に、夜鈴様って」
香月は赤くなって押し黙り、すごい勢いで皮を剥いて器に夏橙を山盛りにした。
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