9・初夜?


 がんばると言ったからにはがんばろう。

 湯あみを済ませ薄絹の襦袢をまとい、香を焚きしめた閨房で皇帝の訪いを待つ。やがて男の足音が近づくのが聞こえ、へやの前で止まった。頭を垂れ、扉が開かれるのを待った。


 扉のきしむ音とともに、外の空気が入ってくる。燭台の灯火のほのかな明かりが、見知らぬ袍の裾模様を照らしていた。

 どのくらい袍とくつの刺繍を眺めていただろう。

 待っても何も言われないので、夜鈴は思いきって顔をあげた。星宇は夜鈴と目が合ってびっくりしたような顔をした。まだ顔をあげちゃまずかったかと思い、あわててうつむくと、「顔を見せてくれ」とやっと声が掛かった。


 再び顔をあげる。星宇もこちらを見ている。

 しばし無言で見つめ合う。


(……もしかしてこの人、照れてる?)


 燭の乏しい明かりで顔色はわからないのだが、星宇は唇を引き結んで困ったような顔をしている。女に不自由のない身でこれだけの美男なのだから、もっとずっと手慣れた人だと思っていた。


「お入りください」

「うむ」


 夜鈴は立ち上がって臥牀の縁に座った。かなり間を開けて星宇も座る。この間はなんだ、この間は。来るならさっさと来い!と思っていると、おもむろに星宇が口を開いた。


「実は、話をしに来た」

「話?」


 話? この期に及んで話? わざわざ妃嬪のねやで話?


「少しばかり込み入った話だ。最初に言っておこう。私は、人間の女を抱けない」

「――は?」


 女の閨まで来て、いきなり何を言うのだ。この男は。


「人間の女を抱きたくならない。――私はあやかしなのだ」

「……妖」


 芳静が「人ならざる者の血が混じるのは、あなただけではないのだから」と言っていた。それが星宇であることは、どうやら本当らしい。

 しかし、人間の女を抱けない? それでは困るだろう。世継ぎをつくれない。


「妖が皇帝位を乗っ取ったなどという物騒な話ではないから安心してくれ。しかし我が宇澄国の皇家が禁忌に触れたのはたしかであるから、他言無用で頼む。とはいえ、宮中では知られたことではあるがな」

「禁忌に触れたってどういうことですか」

「我が黎家の先祖が力ある妖と交わったということだ。一族に、妖の血を入れるために――。妖の血が混じると能力があがる。知力であったり武力であったり異能を授かったりと様々だ。しかし交わったところで人と妖は種族が違う。人と合致する妖の種もあるにはあるが、数は少ない。通常、妖の血を継ぐ子はまれにしか生まれない。だが一族の血に潜んだ妖の血はときおり先祖返りを起こしてな、異界の血が強く出る子孫を生み出すことがある」

「それが皇帝陛下ですか?」

「いや――先代皇帝だ。先帝は有能であったが妖の血に体が耐え切れず昨年身罷った。通じた妃嬪や宮女は多かったが先帝の子を成した女性はただひとり。俺の母に当たる皇太后だが、母も家系を辿ると黎家と密な家だ。母も妖の血を引き、妖の血が強く出た女だった。妖の血が強く出た父は、妖の血が強く出た母としか子を成せなかった」

「その子が皇帝陛下?」

「そうだ。俺と、弟と妹」

「妖の血が強く出たおとうさんと妖の血が強く出たおかあさん――」

「子はほぼ妖だ。俺たちきょうだいは人とは言い難い」


 夜鈴は目を見張った。まじまじと星宇の顔を見る。


「あまりじっと見るな……」


 星宇は照れたように目をそらした。


「えっと、それじゃあお世継ぎ、どうされるんです?」

「それなんだ。おまえに話したいことは」


(まさか人ではない妖魔のわたしに世継ぎを産めと? いやでもまた妖が産まれちゃう。それは駄目でしょ)


 次代の皇帝がさらに血の濃い妖になるなど、宮廷は望まないはずだ。

 夜鈴が頭をぐるぐるさせていると、星宇がぼそりとつぶやいた。


「喰呪鬼」


 夜鈴は星宇をまっすぐ見据えた。

 やはり知っていたのか。知ってて後宮へ呼んだのか。

 夜鈴の正体を。


「宇澄国の宮廷方士たちはなかなか優秀でな。周家子飼いの妖魔について、周家以上に詳しく調べ上げてあった。喰呪鬼は呪いを喰う妖魔と言われているが、それは人の側から見た一面に過ぎない。呪いとはすなわち異界の力。喰呪鬼は呪いだけを喰うのではない。異界由来の力を――妖魔や幽鬼の力を喰らい、その身に溜め込み力の糧とする。妖にとってみれば厄介な相手だ。力を奪われるのだからな」

「妖の力を喰らう――?」


 そんな話、はじめて聞いた。


「我が宮廷方士たちの思惑はこうだ。喰呪鬼を俺のそばに置き、俺の妖の力を喰わせる。力を喰わせれば、力が再び湧くまで一時的にでも俺は人に近くなる。その間に妃たちに種付けをしろと――まあそういうことらしい」

「な、なるほど!」


 ということは。


「皇帝陛下、それならばわたしのお役目は子を産むことではなく、おそばにいて皇帝陛下の妖の力を吸い取ること……ですか?」

「……方士たちの思惑としては、そうだ」


 なぜか不満そうに、星宇は言った。


「でも俺としては――」

「よかったあー!!」


 ぱん!と手をたたき、夜鈴は喜びの声をあげた。うっかり皇帝の言葉を遮って不敬だったかなと思ったが、星宇は呆気にとられているだけで怒る様子もないので、気にしないことにした。


「……よかった? 何がだ?」

「芳静様に恨まれずに済みそうで。芳静様が皇帝陛下の寵妃でいらっしゃるんでしょう?」

「おまえは何を聞いていたんだ。俺は人間の女を抱けない。芳静を抱いたことはない」

「でも、わたしが力を吸い取れば、芳静様と致せるんでしょう?」

「知らん! そもそも芳静の家は古くから宮廷方士を輩出している方術使いの家系で、あれも方士だ。芳静の藤花殿にはよく行くが、封呪や宮中行事でやる祈祷の話をしているだけだ。仕事の話だ」

「でもこれからその関係が変わっていくのでしょう? 喰呪鬼の力で」

「なぜ芳静と私を添わせたがる」

「え。まさか皇帝陛下の本命はほかの妃嬪――」

「もういい黙れ」

「失礼しました」


 黙れと言われたので黙っていると、星宇は苦虫を嚙み潰したような顔をして「もう眠るか。喰呪鬼はそばにいれば力を喰えるのだろう」と言った。


「そうらしいです」

「ならばおまえの仕事は俺の添い寝だ」

「おおせのままに。皇帝陛下」

「『主上』でいい」

 星宇はそう言うとふてくされたように豪奢な袍を脱ぎ捨て、衫姿でごそごそと衾褥に潜り込んだ。




 夢を見た。周家の夢だ。


「本気ですか! こんな娘を入宮させるなど!」「なぜ夜鈴を、この穢らしい妖の娘を!」「あの子は穢れた妖魔の血が流れているのよ」「臭いし気持ち悪い」「この子に触ったら穢いのに、どうして皇帝陛下は……」「なんでおまえなのよ」「――化け物!」


 最初は峰華が、次に麗霞が口汚く夜鈴をののしり、父と奴婢の男が声を揃える。罵倒の声は増えていき、冷えた瞳の芳静がそこに加わる。夜鈴の胸がちくりと痛み、そしてついに、罵倒の輪に香月が加わった。やさしかった香月が、汚物でも見るような目で夜鈴を見て、「ああ嫌だ。妖なんて、気味が悪い」と唇を歪め……


(いや。香月。いや――)


「いやあああああ!」


「どうした夜鈴!」


 叫ぶと同時に目が覚めた。早朝の薄青い光の中、目の前に星宇のおどろいた顔がある。心臓が早鐘を打っている。眦が熱いと思ったら涙だった。


「ひ、ひっく。ふ……ふえぇ……。ごめんなさい、夢でした……」

「こわい夢を見たんだな」


 夜鈴はこくこくうなずいた。

 星宇の目がふっとやさしくなり、彼の手が夜鈴の頭をなでた。

 強そうな大きい手だ。

 その暖かな手に胸がふるえた。こんな手が、守ってくれる大きな手が、夜鈴はずっと、ほしかった。

 

 本当にほしかったものは、与えられるまで気づけない。

 夜鈴の気持ちを慮ってくれる姉のような香月。

 庇護を与えてくれる父のような、兄のような星宇。


(父のような、兄のような……)


 次の瞬間、夜鈴は隣に寝そべる星宇の胸にしがみついていた。


「……おい」

「ひーん」

「見た目よりガキだなおまえ……」


 言葉のわりにやさしい口調だった。しがみつく夜鈴の背に腕が回され、そのまま抱き寄せられる。ぽんぽんと慈しむように背をたたかれ、夜鈴は心地よくなってきた。


 この心地よさはなんだろう。

 あたたまった夜具の中で、たくましい胸に顔をうずめるこのかんじ。

 こんなほっとした気持ち、はじめて知った。


(あったかい……)


「よしよし。まだ朝も早い。続きはいい夢みろよ」


 低くおだやかな声が耳をくすぐる。

 夜鈴は星宇に抱きしめられたまま、もう一度眠りに落ちた。

 もう悪夢は見なかった。




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