4・輿入れ先は後宮


 数日のうちに夜鈴は、宮廷から贈られた豪華な襦裙を身にまとい、生まれてはじめて周家の屋敷を出て、牛車で宮城へ向かった。


 延々と続く堀も見上げるような大門も壮麗な外城も、夜鈴は無感動のまま通り過ぎた。内城に入り、いくつもの殿舎の横を宦官の先導で歩む。そこここに木が繁り、季節の花が咲き乱れている。優美な箱庭。これが後宮かと思った。


「綺麗なひと……」


 しんと静まり返った殿舎の陰から、小さく声が聞こえた。

 夜鈴が振り返ると、小柄な宮女が大きな目をまんまるくしてこちらを見ていた。夜鈴は衣装から位階を判断できるほど後宮のことを知らないが、襦裙が簡素なことから高位の者でないことは見て取れた。


 宮女は夜鈴と目が合うとびっくりしたような顔をして、ぴゅっと物陰に引っ込んでしまった。夜鈴は、周家の庭で猫を見たときのような気持ちになった。どことなく猫に似ている女の子だった。


「どうされました?」


 案内の宦官が夜鈴を振り返る。


「かわいい人がいました」


 夜鈴は思ったままを素直に答えた。


 緑豊かな園林と点々と配置された殿舎の脇を抜けると、白い石畳の大階段が現れた。小高い丘になったその場所に、橙色の瓦も目に鮮やかな、壮麗な殿舎が建っていた。

 夜鈴はどこか現実感を失いながら、青空を背景に君臨するように聳え立つ、皇帝の立派な居城を見上げた。


「こちらが皇帝陛下のお住まいになる星照せいしょう殿、北側に対になって建つのが未来の皇后陛下がお住まいになる月輝げっき殿でございます」


 夜鈴は二棟の城を遠く見くらべ、「そうですか」とそっけなく言った。自分に関わりのあるものだとは思えなかった。



 夜鈴に与えられた菫花きんか殿は、皇帝陛下の星照殿からほど近い、若木に囲まれた小さな殿舎だった。住まいなど周家の屋敷しか知らないが、峰華の好みで派手にごてごてと飾り立てられた周家の母屋と比べると、こういうのを「趣味が良い」というのではないかと思う。すっきりした意匠の静かな住まいだ。


「こちらは皇太后殿下が月輝殿にお住まいのころ、遊興のための別邸として建てられた殿舎にてございます」


 案内の宦官がうやうやしく告げた。


(前皇后の別邸……? 位階は高いものをいただけるとかなんとか、父が言ってたけど。そんな特別な住まいもらっても困る……)


 めんどうだなと思った。

 後宮には皇帝陛下ひとりをめぐって、妃嬪がどっさりいるはずだ。当然、競争や足の引っ張り合いがあるはずで、下手に高い位などもらったら嫌がらせの標的にされてしまう。


 菫花殿の部屋でひとり待たされていた夜鈴は、唐突にながいすからすっくと立ちあがった。何かに引っ張られるように園林へ出る。

 その「気配」は園林の庭石のあたりから漂っていた。

 煌びやかな襦裙が土埃で汚れるのもかまわず、夜鈴は庭石の前にしゃがみ込み、爪に泥が入り込むのも厭わず土を掘る。土の中から黒い壺が現れたとき、夜鈴は開けずとも中身の見当がついた。


(きっとむしだな……。これは呪詛だ)


 まだ祖母が生きていた幼いころ、周家の庭でも見たことがある巫毒ふどくの壺だ。

 前皇后の別邸などという特別な殿舎をもらう新入りをさっそく呪ってみたというところだろうか。


(しんどい……)


 どうしようと思案していると、殿舎の中から「夜鈴様ぁ」と呼ぶ声がする。案内の宦官ではなく女の声だった。宦官が侍女を寄越すと言っていたから、彼女がそうなのだろう。


「今行きます」


 殿舎の戸口で、十六歳の夜鈴よりふたつみっつばかり年上の女が戸惑い顔で待っていた。趣のある菫花殿がよく似合う、品がいい細面の女だった。自分にはもったいないような綺麗な侍女だと夜鈴は思った。


「どうなさったのですか、そのお手!」


 挨拶より先に、泥だらけの夜鈴の手を見て侍女が青ざめる。


「庭に呪詛の気配があって。呪物を見つけてしまって、どうしようかと」

「まあなんてこと。藤花とうか殿に使いをやらせます。藤花殿にお住まいの洪昭儀こうしょうぎ芳静ほうせい様が、呪詛封じに長けたお方でございまして――」

「封じるの、わたしもできるんじゃないかなあ……」

「夜鈴様が?」

「意識してやったことないですけど」


 祖母の思い出とともに記憶の底に沈めた光景。

 そうだ。子供のころ、ごくたまに離れの部屋から庭に出してもらうとき、夜鈴はいつも札や壺や人型などの呪具を探していた気がする。


 喰呪鬼様。喰呪鬼様。


 夜鈴のことを祖母はそう呼び、夜鈴はまっすぐ導かれるように呪具を見つけて――。


(奴婢生活が長くてすっかり忘れてた)


 幼い日の自分が本当に、異能持ちの化け物であったことを。

 夜鈴の表情が陰ったのを見てとったのか、侍女が心配そうに顔をのぞきこんできた。


「夜鈴様のご事情、わずかですがわたくしもうかがっております。特殊な力をお持ちでいらっしゃるとか」


 ずいぶんとやわらかな言い方だ。妖魔だとまでは聞かされていないのか。


「でも今日はお疲れでございましょう? 呪詛に関してなにかあったら洪昭儀にお任せするよう、申しつかっておりますので」


 侍女はいたわるように微笑むと、使いを呼びに部屋を出て行った。小卓に目をやると、茶の準備がしてあった。甜味かしもある。麗霞に毒を仕込まれた、餡を練り込んだカステラによく似ている。

 夜鈴はどかっと榻に座った。手についた泥をはたいて焼いた甜味を掴むと、意を決したようにぱくっと食いついた。頭の中に「もう餡の甜点心おかしなんか怖くて食べられないわねえ!」と楽しげに言い放つ麗霞の声がよみがえる。


(ふん。食べられるよ)


 甜味をごくりと飲み込み、大きな口でもう一口齧る。


(怖くなんかない。だってわたし、別に死んだってかまわないもの)



「いい食べっぷりだ」



 ふいに外から若い男の声がした。

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