5・庭から陛下
園林に面した庭園廊から、長袍を着た若い男が夜鈴を見ていた。肩幅が広く上背があり、金糸の入った煌びやかな衣装に負けない精悍な顔立ちをしている。
夜鈴はぽかんと男を見た。
めずらしい金色の瞳をした、若馬か牡鹿のような美しい男だ。
「……どなたですか?」
「ここは後宮だぞ。入れる男は一人だと思うが」
「あ」
間抜けなことを訊いてしまった。夜鈴は入宮前に教えられた通りに、拱手して頭を下げ、床に膝をついた。
「失礼致しました、皇帝陛下」
「よい。頭を上げよ」
上げよと言われたのでスッと顔を上げ、庭園廊の今上帝、
しばし、お互いじっと見つめ合う。
根負けしたように先に目を逸らしたのは皇帝のほうだった。
(ひょっとして、じっと見るのは無礼になる?)
今さらながらそう思ったが、もう遅い。七つまで幽閉さながらに育ち、その後は奴婢以下の生活をしていたのだ。夜鈴に貴族の常識はなく、ましてや貴人に対する礼儀など最低限のことしか教えられていない。怒られたら怒られたでいいや、手打ちにされるならそれでもいい、くらいの気でいた。実家の周家だって、泥を塗って申し訳なくなるような家ではないし。むしろ泥くらい塗ってやりたい。
「夜空に吸い込まれるような瞳であるなあ……」
照れたように人差し指で頬をぽりぽり掻き、星宇が言った。姿形も良ければ、声も深くて聞き心地が良いと夜鈴は思った。
「あっ、皇帝陛下」
夜鈴は先程の壺のことを思い出した。
「この庭は駄目です。さっき巫蟲の壺が見つかりまして……」
「早速か」
「はあ。早速呪われました。まだ下準備かもしれませんが」
「いや、早速と言うのは、早速見つけたのかという意味だ。やはりそなたは異能があるのだな」
ああそうかと、夜鈴は理解した。
夜鈴が呪いを喰う妖魔であることは、周家から皇帝に伝わっているのだ。おそらく呪いを喰うために、自分は後宮に入れられたのだろう。後宮は、人を呪う理由などいくらでもある場所なのだから。
この男――黎星宇の寵愛と、この男の子種による懐妊をめぐって。
「祓いますか? 呪詛封じに長けた妃嬪の方がいらっしゃるからお任せするようにと、侍女は言うのですが」
「洪芳静か? いや――おまえが祓うところが見たい」
「やってみます」
しかしいざ園林へ出ていくと、呪詛の気配はもう漂っていなかった。
「壺はありますけど、呪いは消えましたね……? なんでだろう。洪家の、えっと」
「芳静」
「芳静様が、いつのまにか封じてくださったのでしょうか?」
「おまえがやったのではないか?」
「まだなにもしてませんよ」
二人は庭石の前にしゃがみこんでいた。中に蟲がうじゃっと入っているであろう壺を前にして。
「これ、中どうなってますかね……」
「見たいのか? 俺はごめんだぞ」
「ちょっと気になります」
「どうしても見るなら俺はもう行く」
「そうですか。ごきげんよう」
夜鈴はそっけなく言った。
星宇が立ち上がったので、夜鈴も立ち上がる。馬鹿のひとつ覚えのように拱手叩頭して礼をとると、星宇が「ちと変わってるな、おまえ……」と呆れたように言った。呆れられても怒ってはいないようなので良しとする。
(やっぱりまだ少し呪いが残ってるかな)
わずかに漂う異質な気配に、夜鈴は眉をひそめた。
煙のようにたなびく、この世ならざる力の気配。それを追って目を向けると、菫花殿を立ち去る皇帝の背中があった。
「あの……」
声をかけようとして思いとどまる。
確かに異質な力を感じるが、先ほど感じた呪詛のような禍々しい気配ではなかった。
それはどこかなつかしいような、かつて知っていたものであるかのような力。夜鈴の根源にひそやかに繋がるような――。
そんな力の気配が、今上帝黎星宇から漂ってくる。
(どういうこと?)
夜鈴は茫然と立ち尽くしたまま、星宇の広い背中を見つめた。
視線を感じたのか星宇が振り返る。夜鈴が見ているのに気付き、驚いたように足を止めた。なぜかはにかんだ顔で笑うので、夜鈴も笑顔らしきものを返した。しかし頭の中は、謎めいた異質な気配への疑問でいっぱいだった。
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