3・周家との縁切り

 

 夜鈴が目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗かった。

 気を失っていたのは短時間だったのかと思ったが、そのわりに喉がひどく乾いている。


(もしかして、もう夕方――?)


 ぎょっとして被子ひしを跳ねのけて身を起こす。仕事もせずに寝ていたら、峰華に手酷く折檻される。


 折檻。


 気を失う直前のことを思い出し、夜鈴は左目に手をやった。

 痛みもなければ、瞼や頬に傷らしき跡もない。


 夢だったのか……? そう思い、あたりを見回す。夜鈴の土間ではなかった。床には織の立派な敷物が敷かれていた。寝かされていた衾褥きんじょくもふかふかしていて、夜鈴のものよりよほど立派だ。母屋の客室だと思うが、夜鈴が入って許されるへやではないはずだ。ましてや、客人用の寝具で寝るなどとんでもない。


(どういうこと……?)


 おそるおそる臥牀がしょうから降りる。鏡があったので見てみると、顔に傷などどこにもなく、いつもの襤褸の代わりに真新しい襦袢を着せられていた。


「お目覚めですか」


 状況が飲み込めず夜鈴が戸惑っていると、侍女が入ってきた。普段峰華と麗霞の身の回りの世話をしている中年の侍女で、夜鈴はつい身構えてしまう。こわばる夜鈴を横目で見やり、侍女は冷ややかに告げた。


「旦那様がお会いになられます。まずお体をお清めください」

「お父様が……? なぜ?」


 周家の当主である父とまともに会話したことはない。劣情のおもむくまま、妖の母と交わって生ませた夜鈴は、立場ある父にとって恥部に等しい。

 侍女は夜鈴の質問には答えず、ついてこいとばかりにくるりと背を向けて歩き出した。



 侍女に連れられて風呂へ行き、体を清めてから用意された襦裙を着つけた。

 名家の娘らしく装った夜鈴を見て、侍女たちが息を呑む。

 鏡の向こうに美しい娘がいる。夜鈴は侍女に髪を結われながら、無感動に自分の姿を見ていた。娘らしく装ったとしても、心躍りはしなかった。


 間違いなく、これから何かに利用されるのだ。


 周家が誰とどんな取り決めをしたのかはわからない。取り決めが夜鈴に知らされることはないかもしれない。

 自分は何代も世代を重ねた末の、周家の「持ち物」に過ぎないのだから。


 見違えたような姿になって侍女に続いて回廊を歩むと、柱の陰に麗霞の姿が見えた。麗霞は夜鈴の顔を見て、目を見開いて驚愕していた。


(麗霞に傷つけられたのは夢ではなかったのかもしれない)


 ならば今、傷がないのはなぜだろう。


(本当にわたしは、人ではなく妖かもしれない)



 喰呪鬼がじゅき様。喰呪鬼様。



 どこか遠く、亡き祖母の声を聞いたような気がした。




 周家の正庁ひろまで父は待っていた。

 通された夜鈴を見て、父の唇が「青鈴せいりん」と母の名を呼ぶ形になった。

 自分は母に似ているのか。

 それでも夜鈴には何の感慨もなかった。父に「おまえの輿入れ先が決まった」と言われても、やはりそんなことかと思っただけだ。


「呪いを喰うお役目は……」

「そんなものは迷信だ。先代は信じていたようだが。愚かしい話だ。」


 父は呪い喰いを迷信だと断言するのに、夜鈴を自由にする気はないのだった。

 夜鈴には、己の人生などはじめから存在しないのだ。


「だが迷信を必要とする場所もある。――嫁ぎ先を訊かないのか?」


 苛々したように父が言った。


「どこでも同じです」

「おまえは昨年即位された今上帝、黎星宇れいせいう様の後宮へ入るのだ」

「承知しました」


 目を伏せたまま、夜鈴は小さく答えた。

 きっと夫となる今上帝も、自分を物のように扱うのだろう。どこへ行っても一緒だ。喰呪鬼の新しい飼い主が、皇帝になるというだけだ。


 その後沈黙したままでいると、部屋の外から峰華のけたたましい声が聞こえた。耳障りな甲高い声をキンキンさせながら、物凄い剣幕で正庁ひろまに入ってくる。


「本気ですか! こんな娘を入宮させるなど!」

「峰華……出ていきなさい」

「なぜこの娘なのです!? 穢れた妖の娘……。妃嬪となるなら、麗霞のほうがよほどふさわしいではありませんか! 今上帝はお若く麗しく、文武ともに大層秀でていらっしゃるとのこと。今後も各家から美しい令媛がこぞって入宮することでしょう。夜鈴ごときでは、周家の名に恥じない位階を得られません!」

「夜鈴の位階は高いものをいただけるそうだ。夜鈴を入宮させるのは宮廷からの求めであるから」

「宮廷からの求め……? なぜ夜鈴を、この穢らしいあやかしの娘を!」

「妖だからだろう。夜鈴には異能があると陛下は信じておられる。もう戻れ、峰華。今のおまえは話せる状態ではない」

「いつも! いつも! あなたはろくに話も聞かず私を遠ざけて――」

「うるさい、戻れと言っている!」


 父と義母の言い争う声を聞き流し、夜鈴は正庁を出た。

 どうしても確かめたいことがあったので、侍女を無視して裏庭へまわる。家婢の若い男はすぐに見つかった。薪割りをしている彼の前へ出ると、家婢の男は驚いたように手を止めた。


「おまえ……」


 彼は食い入るように夜鈴の顔を見つめ、信じられないと言いたげな顔をしてあとずさった。


「傷がない――化け物!」


 鉈を放り出して走り去る男の背を眺めながら、夜鈴はもういちど左目と頬に手をやった。

 間違いなく自分は麗霞に錐で傷つけられたのだ。

 そしてほんの数時間で、その傷は癒えてしまったのだ。


(化け物……)


 夜鈴は震えながらその場に膝をついた。

 薄闇の中、「ナ~」と猫の鳴く声がする。いつものぶち猫が寄ってきて、どうしたのかと問うように、不思議そうに夜鈴を見上げた。


「猫……わたしね、本当に化け物だった。――あっ」


 夜鈴が伸ばした手が猫に触れそうになったそのとき、夜鈴は何者かに襟首をひっつかまれて後ろに引かれ、その場に尻もちをついた。


「返しなさいよ! わたくしの襦裙よ!」


 麗霞だった。妹の麗霞が、身を固くする夜鈴の上襦を無理に脱がそうとする。帯もゆるめず力まかせに引っ張るから、絹の上襦は縫い目がびりりと裂けてしまった。


「入宮するのだってわたくしのはずよ! なんでおまえなのよ! おまえなんかが皇帝陛下の妃嬪ひひんになるなんておかしいでしょ。穢れた妖魔のくせに! 妖に着せる衣装なんかないわ。これはわたくしのよ。脱ぎなさい!」

「待っ……脱ぐから。痛い」

「簪だってわたくしのよ!」

「痛っ……!」


 引き抜かれた簪が髪に引っかかる。夜鈴の髪が抜けるのもかまわず、麗霞は簪を抜き去って地面に叩きつけ、おもいきり踏みつけた。細工が砕ける音がする。


「わたくしの襦裙を脱ぎなさい!」


 袖がちぎれ、身ごろをつかまれる。妹の異様なまでの剣幕に、夜鈴はその場で衣装をすべて脱ぎ捨て、裸で逃げるしかなかった。


「逃げたっておまえの居場所なんかないんだから!」


 麗霞のわめき声が背後に聞こえる。本当に、逃げ場など物置のような土間しかない。なんとか土間までたどり着き、急いで戸口を閉めてつっかえ棒を噛ませた。


(煙臭い……?)


 そして土間の中を振り返り――夜鈴はぞっとした。

 夜鈴の衾褥と、わずかばかりの持ち物が入った行李こうりが、燃やされて炭のようになっていたのだ。


(なんてこと……寝場所まで……)


 毒甜味かしを喰わされ、顔を傷つけられ、衣服を脱がされ、住まいを燃やされた。

 周家の者が喰呪鬼の衣食住と身の安全を脅かした。


 周家の先祖は、喰呪鬼に衣食住と保護を与える代わりに、家にかけられた呪いを全て喰ってもらう契りを交わしたのではなかったか。なのに衣服も安全な食もねぐらも奪われ、身を危険にさらされた。


 ならばもう、周家にいる必要はないのではないか――。


 そのとき夜鈴は、重かった体がふっと軽くなるのを感じた。

 悲惨な住まいの様子とは裏腹に、押さえつけられていた気持ちが解き放たれていく。もしかして、今この瞬間、ずっと夜鈴を支配していた縛りが消え去ったのではないか。このまま周家の門を出て、見たこともないどこかへ行くことができるのではないか。


(あ、でも――)


 踏み出しかけた夜鈴の足が止まる。

 夜鈴の次の「飼い主」は、もう決まってしまったのだった。


 あろうことか、宇澄国の最高権力者に。

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