2・傷つけることにためらいはなく

 早朝夜鈴が目覚めると、体の調子はだいぶましになっていた。

 悪臭が酷いので、吐き散らかした筵をまるめて戸口から裏庭に出す。午後に家婢の男が塵を燃やすから、そのとき一緒に燃やしてもらおうと思った。筵がなくなって土間は土が剥き出しになってしまった。これから暑くなる季節でよかった。冷え込む季節に敷物なしはつらい。


 そう思ったとき、夜鈴は自分自身に呆れてしまった。

 この日々のつらさは敷物がなくて冷えるどころではないではないか。いっそ死んだほうがましなくらいではないか。


 しかし夜鈴は死ぬことも許されないのだ。


 離れで祖母に飼われていたころ、祖母は夜鈴のことを「喰呪鬼がじゅき様」と呼んでいた。滋養のある食べ物を与えられ、あたたかい衣服を着せられ、熱が出れば薬湯を飲まされ怪我をすれば包帯を巻かれ、とても大切にされていた。


 夜鈴は、呪いを喰らう妖魔の子孫なのだそうだ。


 敵の多い門閥貴族である周家は、代々喰呪鬼を飼っていた。周家の先祖は、喰呪鬼に保護と衣食住を与える代わりに、家にかけられた呪いを全て喰ってもらう契りを交わしたそうだ。


(呪いを喰うって何なの。そんなのやったことがない)


 呪詛を喰う妖なんて、ただの迷信ではないのか。そんな迷信のために、先祖や母や自分が犠牲になっただけではないのか。母は周家に飼われ、妻のいる男に手籠めにされ、産んだ子を取り上げられ、一人無残に死んだ。きっと夜鈴もそうなるのだろう。

 好いてもいない男に子種を仕込まれ、次代の喰呪鬼となる子を産んだら、子を取り上げられてお払い箱になるのだろう。


 しかし夜鈴にはもう、周家から逃げ出す気力など残っていなかった。祖母が生きていたころの穏やかな日々など、記憶の底に沈んで思い出すこともなかった。




 昨晩の吐瀉物がついた体を洗い流すため、夜鈴は裏庭の井戸へ向かった。夜も明けきらない早朝から使用人に会うことはないだろうと思っていたら、井戸の前に人影があった。ぎくりとして足を止める。


「麗霞様……?」


 昨日夜鈴に毒入りカステラを与え、手柄を立てたかのように簪をねだっていた同い年の妹は、今日は笑っていなかった。


「なんでおまえなのよ……」


 麗霞の手に握られているのはきりだった。

 殺す意志のある武器ではない。しかし、麗霞の憎々しげな表情から、夜鈴を傷つけるつもりなのは嫌というほど伝わってきた。


 夜鈴は麗霞に背を向けた。無論逃げるつもりだった。面白半分に毒を食わせてくるような相手だ。夜鈴を傷つけることにためらいなどないだろう。しかし数歩足を進めたところで、夜鈴は後ろから家婢の男に羽交い絞めにされた。


「こいつ、くっせぇ」


 若い家婢が悪態をつく。仲がいいというほどではなかったが、共に下働きをやるときは会話もあった男だ。親切だと思ったことすらあった。今日だって、吐瀉物で汚れた筵を燃やしてもらおうと思っていた。


 本当に、自分には味方が誰もいない。


「押さえつけておいて」


 麗霞が怒りをにじませた声で言う。


「本当におやりなさるんで? こいつ顔はきれいなのに……」

「綺麗? この薄汚いあやかしが? 気に入ってるならおまえが手籠めにしておけばよかったのに! どうせいつかは誰かに抱かせて、子供を産ませるはずだったんだから」

「呪われるんでございましょう? 御免ですよ」

「そうよ、呪われて、穢れるのよ。この子に触ったら穢いのに、どうして皇帝陛下は……」

「皇帝陛下? なんのお話で」

「なんでもないわ。忘れなさい」


 麗霞が近づいてくる。憤怒に顔を歪め、錐を持つ手を振り上げる。

 あっと思う間もなく、夜鈴は左目の瞼から頬にかけて、縦一直線に肌を切り裂かれた。

 焼けつくような傷の痛みに、夜鈴はその場で気を失った。

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