衣食住、与えてくれたら呪詛喰います 〜呪い無効化のあやかし妃が皇帝陛下の寵妃になるまで〜

サカエ

第一話 菫花殿の呪詛喰い妃

1・飼われたあやかし


 少女たちの楽しそうな笑い声がした。夜鈴よりんが顔をあげると、妹の麗霞れいかが友達数人と連れ立ってやってくるのが見えた。みな綺麗な襦裙じゅくん披帛ひはくをまとっている。夜鈴のすりきれたひとえとは大違いだ。


 宇澄うちょう国有数の門閥貴族、周家。

 夜鈴は大量の洗濯物を抱え、裏庭の井戸へ行くところだった。正統な周家令媛である麗霞の邪魔にならぬよう、端によけ、目を伏せる。

 

「あの子を見たらだめよ。穢れだから」


 すれ違いざま、麗霞が夜鈴にも聞こえるように、意地悪く言った。


「ただの奴婢でしょう?」

「ただの奴婢ならよかったのに」

「ちがうの?」

「夜鈴はあやかしよ。あの子は身に呪いを溜め込むの。妖の能力よ。あの子には穢れた妖魔の血が流れているのよ」


 まあなんて気味が悪いと、麗霞の友人がおぞましげに言うのが聞こえた。

 気味悪がられたところで、夜鈴はなにも思わなかった。妹の友人など、夜鈴にはなんの関わりもないのだから。


(さっさと洗濯をしてしまわなければ)


 時間までに命じられた洗濯をやり遂げなければ食事を抜かれる。心無い言葉などより、そのほうがよほどつらい。


 裏庭の井戸端につくと、井戸のそばに猫がいた。愛らしい首輪をした白と黒のぶち猫で、近くの家で飼われているらしい。たまに周家の裏庭に入り込んでくる。なぜか夜鈴になついていて、夜鈴が近づいても逃げる様子がない。

 夜鈴は洗濯物の籠を地面に下ろすと、すり寄る猫の喉元をなでた。


(かわい……)


 夜鈴を気味悪がらないのはこの猫だけだ。


「また前とちがう首輪してる。あんたの飼い主はあんたが大好きだね」


 ぶち猫は毛並みも肉付きもよく、見るたびに首輪の織模様がちがう。飼い主は面倒見がよくて洒落者なのだろう。


(同じ飼われてる身でも、わたしとは大違いだなあ……)


 夜鈴の父は周家の主だが、生みの母はとうの昔に死んだ。

 母は周家に代々飼われているあやかしだったという。

 その子供である夜鈴もまた妖の末裔であり、周家に飼われている。

 母とちがうのは、「飼い主」である周家当主が血の繋がった父親だということだ。


 母は今の夜鈴のように下働きに従事することはなく、離れの豪奢な一室で優雅に「飼われて」いたという。父は新婚の妻がいる身でありながら、母と関係を持った。周家の者は子飼いの妖に触れてはならぬと、周家の掟で定められていたのに。


 父は家訓を破ったのだ。


 やがて母は身ごもった。

 時を同じくして、父の正妻も身ごもった。

 母は離れで孤独に出産した。周家の一族は母から赤子を取りあげ、母は身一つで屋敷を去った。追い出されたのか、自ら出ていったのか、夜鈴は知らない。


 母が出ていったのは嵐の晩だったそうだ。その後何日も経ってから、川の下流で若い女の水死体があがった。生前の容貌などわからぬほど崩れ果てた死体だったが、母が着ていたものと同じ衣服をまとっていたという。


 父が母と何度も関係していたのは使用人の間では周知の事実だったから、赤子の父親が誰であるか、父の正妻の耳に入るのは時間の問題だった。

 夜鈴は母に代わって、屋敷の離れで「飼われて」いた。夜鈴の世話を受け持っていたのは周家の祖母だった。やがて祖母が亡くなると、父の正妻である峰華ほうかが、夜鈴を母屋に招き入れた。


 夜鈴を手元に置いて育てるためではない。

 夫をかどわかした憎い女の娘を思う存分虐待するためだ。

 七歳で離れから出されたその日から、夜鈴の生き地獄が始まった。




「おまえが洗った夜着を身につけろと? 私に穢れた呪いをなすりつけるつもりかい? 汚らしい、こんなもの!」


 峰華に呼び出され、目の前で洗いたての夜着を小刀でズタズタに切り裂かれた。峰華は夜鈴が自分の持ち物に触れるのを極度に嫌う。夜鈴が洗濯する分に峰華の夜着がまぎれこんでいたのは侍女の手違いなのだが、夜鈴を庇う者などこの屋敷にはいない。


 この屋敷どころか、この世のどこにもいない。


 夜鈴は白昼夢でも見ているような気持ちで、峰華の昂った罵声を聞きながら、切り裂かれた薄い布片が舞い飛ぶ様をぼんやり見ていた。


「詫びの気持ちひとつ顔に浮かべぬ、この娘は!」


 ガッ!と音がして額に衝撃があった。


 目の前を茶杯が転がり、頭からポタポタと熱い雫が垂れる。淹れたての茶が入った杯を投げつけられたのだ。熱いと思ったが、夜鈴は顔色ひとつ変えない。よくあることだから、すっかり慣れてしまった。


「何をされても平気な顔をして!」


 続いて甜味かしの器が投げつけられ、盆が投げつけられ、それでも夜鈴が表情を変えないので、峰華は「あやまれ!」と裏返った声で叫んだ。


「申し訳ございません」


 夜鈴は床に頭をこすりつけて平伏した。そうしないとさらなる罵声や物が飛ぶからだ。夜鈴が頭を下げていると、「ふふふふふ」と華やいだ笑い声を立てて妹の麗霞が入ってきた。


「お母様、この子はもうだめよ。怒ったって無駄。心が死んでいるんですもの、何を言ったって堪えないわ。夜鈴、もう行っていいわよ。これをおあがり」


 麗霞が紙に包まれたカステラを放ってくる。

 さっき峰華が投げてつぶれた甜味かしだろうか?

 なんでもいい。きっと今晩は食事をとらせてもらえない。夜鈴は床に落ちた糕を拾って懐に抱え込んだ。その様子を見て、麗霞がずるそうに目を細める。


「行きなさい。自分のへやで食べるのよ」


 逃げるように走廊へ向かうと、戸口のあたりで様子を見ていた父親と目が合った。目が合うと父は一瞬怯えたような顔をした。妹の麗霞はなぜか勝ち誇った表情をしていたが、夜鈴は深く考えなかった。

 疲労とひもじさのあまり、思考など、とっくの昔に放棄していたからだ。



 裏庭に面したみすぼらしい土間が夜鈴に与えられたへやだ。七歳から十六歳の今に至るまで、ずっとここに住んでいる。元はなたや箒など庭仕事用の物置だったらしい。床板はなく、土の地面にむしろが敷かれている。湿気た筵に膝をつき、夜鈴は糕の紙包みを開いた。香ばしい甜味にかぶりつくと、中に入った餡の甘さが口いっぱいに広がった。


(おいしい……)


 子供のころ、祖母に離れで「飼われて」いたときは、上等な甜味かしもよく口にした。食事も着る物も上等で、へやは美しく整えられ、退屈すれば侍女が絵巻物を読んでくれた。庭に出してもらえることはたまにしかなく、庭より外の世界などないも同然だったが、特に疑問も持たなかった。祖母はやさしかったように思う。祖母が死んだとき、夜鈴は泣いた。


 あのころは、まだ感情というものがあった。


 今の夜鈴は動物のように、食欲だけになって甜味にかぶりついている。ひさしぶりの甘味を堪能していたら、ふと、甘味の中に不自然な苦みを感じた。しかし空腹には勝てず、苦い部分も飲み込んでしまった。


(今のなんだろう…………あっ)


 胃の腑からせり上がってくるものに抵抗する間もなく、夜鈴は吐いた。吐瀉物が筵にまき散らされ、なんとも言えない異臭を放つ。


(苦しい……気持ち悪い……)


 筵に手をついて何度も吐く。びしゃびしゃと音が響いた。甜味を吐ききって胃液だけになっても嘔吐きは止まらなかった。苦しくて、吐くために裏庭に出る余裕すらなかった。

 それでもなんとか裏庭に向いた戸口に顔を向ける。


 ぎくりとした。

 戸口には義母の峰華がいた。


「死にはしないわ。……無様ね」


 紅をひいた唇を綺麗な弧にして、峰華は満足げに笑った。四つん這いで夜鈴がまたげえと吐くと、峰華は気が済んだように背を向けて、戸口から立ち去った。

 裏庭から鈴を転がすような楽しげな声がする。


「どう? ねずみ退治の毒、よく効いたでしょ?」


 妹の麗霞だった。


「よく効いていたわ」

「あの子は体に思い知らせなきゃだめよ。あはは、かわいそ。もう餡の甜点心おかしなんか怖くて食べられないわねえ」

「そうね。いい気味だわ」

「ねえお母様、わたくしがあの子をこらしめてあげたのだから、珊瑚細工の簪をちょうだいね?」

「しかたないわね」


 仲の良さげな母娘の笑いさざめく声が、ゆっくり遠ざかっていく。

 夜鈴の心は麻痺したままだった。

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