第34話 終戦

「停戦命令を」

 彼女の言葉の後には、誰も言葉を続けない。

 鳥の歌も銃声にかき消され、それ以外の音がなくなったような錯覚に襲われる。

「大佐、聞こえなかった? 停戦命令を」

「なぜ……なぜですか、猊下」

 鳴り続ける銃声の中、副軍団長が唇を戦慄わななかせながら体をソフィアに向け、震える声で問う。

 儀礼的に踵を合わせ、手を腿の横に揃えているが、もし口を利く相手が目下であれば、すぐにでも殴りかからんばかりにきつく拳を握っている。

「勝敗はまだ決しておりませんし、今突撃すれば、十分に打撃を与えられます!」

「我が軍への甚大な損害と引き換えにね」

「しかしっ! ここで敵を、バルカルセ家を倒さなければ……神殿の権威を汚す者には、罰が必要です。それこそが軍の誇りです。それに! ここで勝敗も決さぬ内に撤退など、ここまでに命を落とした将兵に申し訳が立ちません!」

「大佐。それは、人が今まで何度となく繰り返した過ちよ。私達は、何のために力を与えられていると? それは……見栄や意地のためではない。恨みを晴らすためでもない。教区内の平穏を保ち、人が、多くの人々が、日々の暮らしを無事に送るため。ミネルウァ神殿は王国支配の要、神官たるもの選良としての自覚を持ち、民衆に道を示して王家を支えよ。それは、神殿の権威に縋りつけという意味じゃない。力のある者として世の秩序を保ち、善政の証として民衆の暮らしを守れということ。違う?」

 落ち着いた口調の問いかけに、副軍団長は唇を固く結んで黙り込む。そうしている間にも銃声が鳴り、合間に歩兵隊長の号令と、馬の嘶きや蹄の音が聞こえてくる。

 この音が続く限り、次々と人が傷を負っていく。そのことにまるで気が付かないように、硬直する喉から声を絞り出す。

「バルカルセ家と和平など、神殿に従わぬ者どもを喜ばせますぞ」

「それでも、共倒れよりは余程良い世の中よ。思想の違いはあれど、リートゥスデンス伯は暴君でもバカでもない、話ができる相手。これ以上の戦闘は、無益と見るべきね」

 ソフィアの言葉に副軍団長は肩を落とし、何も言わなくなった。

 彼女の言葉を噛み砕いて感情を処理しているのか、それとも仕方なく黙っているのかは、外側からは読み取れない。

「全軍に停戦命令を出せ!」

 賛成も反対も、いずれの声も聞こえない。

 側に控えた信号手はただ踵を合わせて敬礼し、一度きつく目を閉じた後、戦場に向けてトランペットを構えた。

 奏でるのはどんな新兵でも突撃とは間違えようのない、穏やかで、妙な哀愁を帯びた旋律。

 その暗い曲調の持つ意図は敵軍にも容易に伝わり、銃声はすぐに収まった。

 敵陣からは、兵達への念押しなのか、同じように穏やかな調が聴こえる。

「使者を……立てませんと、猊下。本官が参りますか? それとも誰が補佐官を遣わしますか」

 すっかり顔色の悪くなった副軍団長が、冷や汗を拭いながら提言する。

 ソフィアがこともなげに自分が行くと言って歩きだすと、慌ててそれを止めに入る。

「猊下! それはあまりに危険では」

「これは試験よ。私に危害を加えるようなら、その程度の連中なら、その時は全力で攻撃して」

「お待ちください、せめて護衛を」

「相手がその気なら、何人いても無駄よ」

「猊下。本官はこれは降伏ではなく、あくまで対等な講和だと捉えております。体裁もお考えください」

 鐙に片足をかけたソフィアは、そこでふと足を止め、副軍団長と目を合わせる。

「それもそうね。では、重騎兵の小隊を集めておいて。旗は補佐官二人に」

 そう言い残し、彼女は体格の良い白馬に跨った。遅れまいと補佐官が二人慌ただしく白旗と紅白の指揮官旗を担ぎ、己の馬へ走っていく。

 平地に降りた彼女は左右に補佐官を並べると、後ろに重騎兵三十の五列縦隊を従え、優雅な足取りで敵陣に向かう。

 先頭に立つ彼女の紅衣を認めてのことか、青衣の歩兵が彼女を迎え入れるように左右に分かれて向き合い、捧げ銃の姿勢を取っている。

 特に練度の高い隊なのか、戦場から走って戻ってきたばかりなのに、呼吸は落ち着き、気味が悪い程整然と並んでいる。

 彼女が歩兵によって作られた道に達すると、軍鼓が打ち鳴らされ、敬意を示す空砲が響いた。

 銃剣の煌めきの中を、答礼として右手を胸に当ててゆっくりと通過する。

 背筋を伸ばした視線の先には机と椅子が揃えられ、貴族達が立っている。その中心に立つ黒衣の男は予想に反してにやついておらず、真っ直ぐに彼女を見据えていた。

 馬を止め、ローブを翻して大地に降り立つ。

 彼女の合図に従って随伴する兵達も馬から降り、直立不動の姿勢を取る。

「ミネルウァ神殿、アウスティア教区の大神官、ソフィア・エスコフィエ。貴軍と和を結ぶべく参りました」

 胸に手を当て腰を折る彼女に対し、サカリアスも帽子を取って左胸に当て、深々と頭を垂れる。

「大神官猊下に直々にお越し頂きながら、十分に礼を尽くせずお恥ずかしい限りです。ところで……」

 再び彼女に向けられた顔には、若干の困惑と疑いの色が浮かぶ。同席する貴族達の表情も、どことなく強張っている。

「講和の席に着く前に、これだけは確認させて頂きたい。猊下、あれ程までに余力を残し、丘の上の優位な位置を占めながら、なぜ講和を?」

 自分が不利になるとは思わなかったのか。

 そんな言外の問いかけに、ソフィアは何歩か歩み出て、はっきりとした口調で問い返す。

「ではリートゥスデンス卿、最後の瞬間まで戦うことをお望みですか?」

 意外な問いにサカリアスは思わず彼女の目を見つめ返し、数秒の沈黙が続いた。ソフィアはこれを否定と受け取り、サカリアスに真意を告げる。

「確かに、現段階では最終的な勝者は決まっていません。貴軍が押し切るかも知れないし、我が軍の決死の反抗が功を奏するかも知れない。しかしどちらが勝っても、この戦の先に幸福はない。そのことがはっきりしました」

「猊下、それは……なぜですかな?」

「おわかりのことを問いますか。まぁ、いいでしょう。我が将兵は死ぬ前に一人でも多く貴軍を殺し、貴軍もまた同じようにするからです。敵に勝てば終わり。滅ぼすこと自体が目的なら、それでも良い。しかし、我が軍の、いえ、我々の軍の目的は治安の維持であり、その本質は鋭い刃を見せることです。よく切れると噂の刀をちらつかせるから意味がある。折れた刀では、敵を脅せない。そして、我々の一番の敵は、ここにはいない」

 ソフィアが滔々と語る話を、サカリアスはただ黙って聞いている。周りに控えた兵達は微動だにせず、吐息の一つも聞こえない。

「治安を乱す野盗。それをけしかけ、豊かな土地にちょっかいを出す強欲な貴族達。我々が最も忌むべき敵はこれです。我々がここで最後まで戦い、兵力を擦り減らせば、そうした連中が勢いを増す。我々は、ここでお互いに銃を向けあっているのではない。皆で揃って、平和に対して銃を突き付けているのです。我々は最後の瞬間を迎える前に、妥協点を探るべきです」

 彼女の言葉に耳を傾けていたサカリアスは、顔を上げ、周りの貴族達に目配せをする。

 何かの合意をしたかのように貴族達が頷くと、視線を彼女に戻し、社交的な笑みを見せた。

「騙し討ちの類ではなさそうですな。では猊下、どうぞこちらへ」

 ソフィアは硬い椅子に腰を下ろすと、順番に列席者の顔付きや仕草を確認していく。

 落ち着いた様子の者、明らかに安堵している者と反応はバラバラだが、バルカルセ家の親子は感情が読み取れない。

 娘の方は夜会の手本のような笑顔を浮かべ、親の方は、不自然な程に自然な笑みだ。

「我々の要求は、言わずともご存知でしょう」

 やっぱり仕掛けてくるか――

 朗らかな声で問いかける形を取ったサカリアスに、思わずソフィアは心中で苦々しく笑う。

 ソフィアの答えが本来の要求を満たさなければ訂正し、もし要求以上の回答をすればそれに乗る。その腹積もりを見抜いた彼女は、返す言葉を慎重に選ぶ。

「伯領リートゥスデンスにおける書籍の閲覧、保持、執筆の自由化」

「猊下、共に戦った同胞の領内でもお認め頂きたい。それと、出版もお許し頂かなければ困ります。版木を作れば違法では具合が悪い」

「なるほど、誤解があったようですね。要求は理解しました」

 ゆっくりと頭を振り、サカリアスに笑顔を向ける。顔つきからは読みにくいが、特に異論も出ず、一応の満足はしたように見える。

「アウスティア教区で誰がどこで何を読むかは、大神官の権限の内。私は、この後すぐに大神官の任を解かれるでしょう……ですが、今の法と規則では、私が今それを認めれば、少なくとも一年は覆されません。しかし、です。それをさらに長く続かせるためには、神殿にも恩恵がなければならない。争いを避けながら恒久的な仕組みとするには、皆様のご協力が不可欠です」

 神殿としての要求を口にする前に、深く息を吸ってから、指を三本立てて見せる。そうして生み出した時間で、提示する条件に問題はないか最後の確認をした。

「まず、領内で出版された書物はすべて神殿にも配布され、その内容に関する権利は共同で持つこと。権利は共同であるため、お互いに利用料等は発生しない。次に、アウスティア教区と今回参戦した貴族は軍事的な同盟関係とし、治安を乱す者がいれば、協力してこれを撃滅すること。そして、神殿での研究の原資を確保するため、相応の協力金を神殿に支払うこと。これが条件です」

「協力金、ですか」

 ソフィアが口を閉じると、間髪入れずにサカリアスが異論を挟んだ。その表情はあくまで社交的だが声音は先程よりも硬い。

「相応の協力金というのは、つまり、今までと同じような金額を払えと仰るのですか?」

「えぇ、そうです」

 ソフィアはあくまで柔らかい口調を保ちながら、己の主張の正当性を語りだす。

「原資が、つまり金がなければ、新たな知は生まれません。神殿はこれからも研究を続ける。あなた達は、今までと同じ費用で無制限に知識を利用できる上に、領民の知的水準の底上げもできる。間違いなく、手堅い投資です」

「その金を神殿に渡すのではなく、我々が自前で神官を引き抜いた方がいいと考えたら?」

「神殿に残る者、ある貴族に雇われる者、また別の貴族に雇われる者、それが細かく分かれる内に蔵書が散逸し、体系的な教育と研究が難しくなる。そして、学者が分散することで、検証も甘くなって研究の質が落ちる。質が落ちて学者が権威を失えば、程度の低い学説もどきが広まり、折角育て上げた領民の知性も逆戻り。学術の振興が、そう簡単な仕事だとは思わない方が賢明です」

「ふん、なるほど」

 サカリアスはしばらく一人で考え込んだ後、同席者達を連れて机から離れた所へ歩いていった。

 ソフィアはそれを黙って見送り、敢えて悠然とした態度を周囲に見せる。数分後に戻ってきたサカリアスは、椅子に座るなり身を乗り出して承諾の言葉を口にした。

「そちらの条件で結構です、猊下。間違いなく、約束通りにお願いしたい」

 ソフィアは笑顔と共に腰を浮かせ、サカリアスが差し出した手を強く握った。

 その頬に浮かぶ柔和な笑みは、今まで浮かべていたものとは随分と違っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る