第33話 トリフルーメン会戦-Ⅴ-
机を叩くか、椅子を蹴り飛ばすか、それとも空に向かって拳銃でも撃つか。
ソフィアはそんな衝動を歯を食いしばって抑え込み、ローブの裾を握りしめる。
「騎兵隊に繰り返し撤退命令! 各選抜歩兵中隊は、可能な限り敵歩兵の前進を阻害!」
肩を怒らせ、震える声を抑えつけ、戦線維持の為の命令を下す。
己が無為無策だったとは思えない。
部下達が無能だったとも思わない。
一体誰がヴァレリー商会、あのたった二個中隊の騎兵が、ここまで見事に三個騎兵大隊を足止めできると思うのか。
判断力に富み経験豊かなツェラー少佐を先鋒に据え、後ろにはよく訓練された重騎兵大隊を二個置いた。
ヴァレリー商会と軽騎兵も警戒して、最も信頼する補佐官に、敵よりも多くの騎兵を与えた。
敵の攻撃計画を粉砕するため榴弾を使い、実際に足止めの成果はあった。
だが、榴弾に怯んだかに見えたヴァレリー商会の連中は、理解し難い勇敢さで重騎兵を横殴りにし、逆に足を止めさせた。
連中が攻撃する前に騎兵を一旦下げていれば、頃合いを見てもう一度強く攻められただろう。
今となっては、勢いのある騎兵突撃は不可能。
「猊下、敵を待つことはありません。前進を!」
血走った目の副軍団長が、手足を落ち着きなく動かしながら積極策を提案する。
「騎兵隊が壊滅する前に歩兵、砲兵による積極策を展開し、勢いを拮抗させるべきですっ」
「僭越ながら副軍団長閣下、我々は野戦築城の利点があります。先制攻撃が失敗した以上は防御に徹するべきでは……」
「中尉! それでは敵に自由な行動を許してしまう。主導権を握り続けるべきだろう!」
幾人かが熱弁を振るう様を見ながらも、ソフィアは周囲の士官の様子に目を走らせる。
積極策に熱狂する者、敵騎兵の予想外の強さに戸惑う者、状況の変化に頭が追い付かず目を伏せる者、反対意見を挟む機を窺い目をギラつかせる者、その表情や仕草から様々な情報が彼女の中に流れ込む。
皆、予想外の展開に浮ついている。
だが、決して士気は下がっていない。
まだ気持ちは死んでいない。
「各歩兵大隊に通達。防御を固め、持ち場を死守せよ!」
そう命令を下した時、ふと農村で見た悪夢、朽ちて腐った死体の囁きが頭をよぎる。
お前のせいでまたこうなる――
掠れた声が、夢の台詞の続きを語る。
逃げるな。殺せ。戦って死ね。
そんなことだから――
「砲兵は榴弾中心に運用、接近する敵を叩け!」
恨めしげな死者の呻きを無視し、戦闘継続の指示を飛ばす。接近する敵の隊伍に榴弾が撃ち込まれ、鉄の破片を撒き散らす。
相当の恐怖を与えているはずだが、敵の歩調は乱れない。
大砲の装填はどんなに訓練を重ねても数分かかり、あの足の速さでは交戦距離に入るまで十回も撃てないだろう。
敵が自軍に近づいてしまえば、誤射、暴発の恐れから榴弾は使えない。
騎兵は少しずつ離脱を始めているが、大部分はいまだ剣と血の泥沼に飲み込まれている。
状況は、悪い。
戦場をつぶさに観察すれば誰でも辿り着く結論だが、彼女自身も、周りの士官も、それを明言することはなかった。
「敵騎銃兵、我が方左翼正面に展開。選抜歩兵中隊、後退を開始!」
「敵歩兵、交戦距離到達まで約五分!」
「カンプサウルム伯の歩兵隊、迂回機動を開始。左翼から回り込まれます!」
「これ以上の榴弾の使用は危険です!」
「アンリ・リビエール中尉負傷の模様!」
「敵砲兵隊、一部前進開始!」
戦場のあちらこちらから、次々と悲痛な叫びがソフィアの耳に届く。その一つ一つが不愉快で、威勢の良い言葉でかき消したくなるものばかり。
「ここが正念場ね。全歩兵大隊は射撃用意! 第九大隊はカンプサウルム伯の部隊に備え、左翼の警戒を怠るな!」
斜面に陣取り所々に土塁と柵を配置した歩兵隊は、引きこもれば騎兵突撃にも抵抗できる。
戦場には歩兵、騎兵、砲兵と揃えられているが、両軍共に圧倒的多数を占めるのはマスケットを担いだ戦列歩兵。
すなわち、この歩兵同士のぶつかり合いに勝利すれば、十分に状況を好転させられる。
そんな空気が指揮所に流れ、状況の不利を語る言葉は無意識の内に抑制される。
「各選抜歩兵中隊は土塁まで後退し、敵騎銃兵と歩兵指揮官を狙え。各歩兵大隊は、敵歩兵が射程に入り次第攻撃開始。ただし、許可のない突撃は禁止とする」
矢継ぎ早に飛ばされる指示に従い、神の下僕達は慌ただしく動きだす。敵味方の損耗度合いを確認し、砲兵、騎兵に指示を出していれば、たちまちに歩兵が交戦距離に入る。
無数の銃口が火を吹き、辺り一面に硝煙が立ち込める。放たれる銃は一万を数えるというのに、敵も味方も、驚く程銃声にバラツキがない。
その異様なまでに統制された銃撃に、ソフィアは己の部下を誇り、同時に敵の兵を恐れた。
幾千の歩兵を鍛え、率いてきた彼女は、それの持つ意味をよく知っている。
銃口が光る。
爆発音が鳴る。
不運な者が痛みに呻く。
五回。
十回。
二十回。
繰り返される手練同士の命のやり取りは、通常の何倍もの速さで死体と怪我人を積み上げる。
予想以上に多い損害に、副軍団長は切迫した顔で勇ましい言葉を並べ立てる。
「猊下、このままでは擦り潰されます。突撃を! 今こそ我が軍の強さを見せつける時です!」
突撃。
狂気と興奮ですべての理性を殺し、恐怖を無視し、敵の体に銃剣を突き立てる、原始的で効果的な選択肢。
上手く行けば少ない損害で勝利を収められるが、悪ければ夥しい死体の山ができあがる。
何のために?
不意に今まで気にもしなかった疑問が浮かび上がり、ソフィアは思わず舌を打つ。自分は、何のために、幾千の部下に死ねと言うのか。
「猊下! 残念ですが銃撃戦では敵が優位です。ここは、神殿の名誉に賭けて突撃を!」
名誉。
栄光。
そう、ミネルウァ神殿と、ソフィア・エスコフィエという人間の栄光のためじゃないか。そのために、ずっとずっと頑張ってきたじゃないか。
辛くても、苦しくても、貧乏を馬鹿にされても、女だからと下に置かれても、勉学に励み、銃を撃ち、兵を率いて泥沼も荒山も超えてきた。
最初からずっとそうしてきたのに、今更何だ。
誰だ、私の戦いに文句を言うのは。
そんなことを思いながら、彼女はぼんやりと足元の水溜まりに視線を移す。そこに映っていたのは、人を小馬鹿にしたような女の顔。
随分と目つきが悪くなった。
昔はどんな顔をしていたか。
そう腹の中で呟いて思い出すのは、戦火に巻き込まれ、泣き腫らした目。煤や埃の積もった小汚い鏡に映る、腹をすかせた、貧相な子供の顔。
「今動かねば、勢いを失います! ご決断を!」
そうだった。
幼い頃から、偉くなるなら学者の方が楽だとわかっていた。基礎課程では法学でも語学でも史学でも、何をやっても成績は三番より下にはならなかった。
それなのに、どうしてわざわざ大神官から遠い、兵学の道に進んだのだったか。私はいつから、戦争を出世の道具にしていたのか。
「猊下、ご命令を! 猊下!」
一人思考の淵に沈んでいたソフィアは、一度天を仰ぐとまた下を向き、深く長く、淀んだ空気を肺腑から吐き出した。その口元は苦い薬を飲んだように歪み、顔からは色が失われていた。
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