最終話 あるカラビニエと大神官

 窓の隙間から入り込む潮騒と海鳥の鳴き声が、昼下がりの明るさとあいまってどことなく呑気な、眠たいような心地にさせる。

 レグルスはそんな穏やかな空気に包まれながら、リートゥスデンス城の廊下を歩いていた。

 穏やかな天気に気分を良くして大きく伸びをすれば、まだ生地の硬い、青の上衣がずり上がる。

 午後からもう一仕事ありはするが、しばらくゆっくりする時間がある。図書館に出向いて、どれぐらい本が読めるようになったか確かめるのも悪くない。

 そんなことを考えながら歩いていると、目の前の曲がり角から現れた人影にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。

 レグルスの視界を占めたのは、影が立ち上がったかのような黒いローブ。

 足は小さく、直感的に女だと思う。

 見上げればローブとは対照的な赤毛と、驚いて目を見開いている割には愛嬌のある顔があった。

「あっ、す、すいません!」

「いえ、こちらこそ不注意で」

 なぜ神官がこんな所にいるのか、と考えていると、もう一つ足音が近づいてくる。

「モニカ? また何か……」

 ぶつからないように廊下の反対側に寄ると、優しげな声と共に、陽光に映える真紅のローブを纏った女が現れた。

 緩やかに波打つ豊かな茶髪、色白で薄造りな顔に、服の色を映したような薄赤い頬、そして豪奢なローブの組み合わせは忘れようもない。

「大神官猊下のお連れの方でしたか。改めて、失礼を致しました」

 レグルスは頭を垂れてそのまま立ち去ろうとしたが、ソフィアがそれを呼び止める。

「あ、ちょっと。そんな服着てるから気付かなかったけど、ヴァレリー商会の騎兵隊の?」

「はい。その、ご存知で」

「もちろん。とっても印象に残ってる。あなた、名前は? 伯の兵になったの?」

「は、私はレグルス・アストルガと申します。伯爵閣下より騎兵教官の職を頂き、ヴァレリー商会と兼務しております」

 自分が覚えられていることをやや気不味きまずく思いながら、失礼と知りつつもソフィアの顔を見てしまう。戦場から離れた彼女を美しいとも思ったのだが、何よりも、いまだ紅衣を纏っていることに驚きを隠せなかった。

「そう、出世ね。確かに、二個中隊の突撃で騎兵三個大隊を足止めし、反撃の糸口を掴んだ功績は大きい。卓越した判断力に統率力と、優れた剣技。なんなら、神殿に招いてもいいぐらい」

 ソフィアは騎兵隊の攻撃が失敗した時の衝撃、記憶に鮮明に刻み込まれた恐ろしい光景を思い出しながら、それを成し遂げた男に賛辞を送る。

 だが彼女の予想に反し、目の前の男は暗い顔で控えめに礼を言うだけだった。

「浮かない顔ね、何か気に障ることでも?」

「いえ、決してそのようなことは」

 先程までとは別人のような歯切れの悪い返事に、彼女は訝しむ表情を隠さずに首を傾げる。

 レグルスは躊躇うように彼女のつま先の辺りで視線をうろつかせ、目を合わせずに口を開いた。

「猊下にお尋ねするようなことではないのですが……今回の戦いに、何か、大きな意義があったと思いますか?」

「意義? いきなりね」

「申し訳ありません。くだらない質問でした」

「待って」

 彼女は逃げるように立ち去ろうとする背中を呼び止めると、赤いローブを摘み、ひらひらと揺らしてみせる。

「どうして私がいまだにこんな物を着てるのか、気にならない? あなた達の倍の兵を率いながら、大した打撃も与えられず、死に場所も見つけられなかった私が」

「それは、お言葉が過ぎるかと」

「いいえ、軍で他人が同じことをしたら、私だってそう思う」

 傭兵隊長の癖に随分と良識あるものだ、と、出すべきではない軽口を押し込めながら、神殿での素直な物の見方を口にする。

「普通だったら隅に追いやられる。でも、教主聖下はこれから新しい場面、学びの門の開放を迎えるアウスティアを治めろと言って、私を残した。学者でも貴族でもない者の目で、学びを開くことの価値を見定めろ、と。教主聖下は多分……この国が新しい形に、もっと豊かになるための実験だと思ってる。その実行者として、私は残された。私が言うのもなんだけど、あなたが腰抜けだったらこうはなってない。弱者に未来は賭けないからね。だから、もっと誇ってもいい」

 レグルスは彼女の笑顔、自分の生き方に何かしら喜びを見付けた者の表情を羨み、その言葉を額面通りに受け取ろうと努力した。

 だが、眉も口元も困惑したようなはっきりとしない表情になり、返事もすぐにはできなかった。

「農村で、子供がいた。貧しい家の男の子。その子は図書館に行って、湿布の作り方を調べたと嬉しそうに言っていた。腰の悪い父親のためにね」

 ソフィアはレグルスと視線を合わせ、ゆっくりと話し出す。横でモニカが驚いたようにぴくりと動いたが、ソフィアから見ればいつも何かに驚いているので、特に気に止めることはない。

「あの村には教堂はないし、その子は働いていて、街の教堂に行く余裕なんかない。その内に学ぶことを諦めて、何か新しいことをするのも、知るのも、面倒になってくる。周りの大人も、苦労して教堂に通わせようとはしない。学問は遠くその意義もわかりにくく、労働は身近ですぐ金になるからね。学問が身近にない環境は、嫌でも人をそうしていく。その結果、人は進歩を止め、同じ歴史を繰り返す」

「戦争も含めて、ですか」

 閉ざされていた口からこぼれたのは、戦争で生きてきた男の素朴な疑問。

 その顔から平和を求める戦士の苦悩、自分と似通った痛みを見出したソフィアは、目を逸らさずにそれを受け止める。

「えぇ。人は太古の昔から人を殺し、勝てぬ戦を意地で戦って死に、それを美化し、ただ繰り返しただけのことを誇りや伝統と呼んだ。戦士を華々しく飾り立て、勝利を栄光の歴史として語り、平和の維持とは違う、支配者の利権のための戦いも崇高な使命に見せかけた。私達は長い時間をかけて、伝統と格式ある、愚行の歴史を積み重ねた」

「少しずつでも学びに触れれば、皆で何かを考えるようになれば、そうすれば、人は変わると?」

「それはまだ、わからない。でも、繰り返しから抜け出す足がかりにはなる。そうでしょ?」

 ソフィアはそう言ってレグルスに笑いかけると、廊下の先へ向けて歩きだした。親しみを込め、挨拶代わりに軽く右手を挙げて。

「ここから先は私達の歴史、私達の責任よ!」

 力強い足取りの彼女の先には長い廊下が続き、窓から陽光が差し込んで、光と影が交互に延々と並んでいる。

 彼女の未来に向けた言葉と真っ直ぐ歩く後ろ姿に、レグルスの表情は少しだけ明るくなった。

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