第30話 トリフルーメン会戦-Ⅱ-

 体の奥に氷水を注がれるような感覚の後に、激しい怒りがソフィアを飲み込む。

 眼下に翻る禁書派貴族の旗。あらぬ方向に向かうそれは、明らかに戦線を離れようとしている。

 ソフィアが状況確認を命じるより早く、息も絶え絶えに丘を駆け上った伝令が姿を見せた。

「報告、致します……先程軽騎兵が回収した手紙です。これを読んだ貴族達が撤退を。あの娘二人は、バルガス家とソル家の娘です」

「手紙の内容は」

「読み上げます。アウスティアの禁書派貴族諸君。まず、私はムルサズール女伯に多大なる感謝を捧げたい。彼女が用意し、ルフシアに留め置いていた二千人の傭兵は、学びの門を広く開けばともに豊かになれると十分に理解し、我が戦列に加わった。今彼らは進路を変え、諸君の都市を、神殿の圧政から開放して回っている。賢明な諸君にはこの言葉だけで十分であると信ずるが、開放の証としてバルガス家、ソル家のご息女をお連れした。軽装で、いち早く領地とご家族の様子を見に行かれることをお勧めする。リートゥスデンス伯サカリアス・ファン・バルカルセ」

 早口で読み上げられる手紙を目を閉じて聞いていたソフィアは、組んでいた腕を下ろし、右手を腰に当てた。

 俯き加減のまま猛禽を思わせる目で伝令を見据え、不自然な程落ち着いた声で問いかける。

「ムルサズール卿は?」

「は……騎兵だけ引き連れて、歩兵も馬車も置き去りで逃げました」

 声の震えを押し殺した答えを無視して、ただ戦場へと顔を向ける。遠くの方で軍鼓とトランペットが鳴り、青を中心とした塊が、日光に銃剣を煌めかせながら大地を踏み鳴らす。

 その光景を捉えた瞳は、数秒前とは別人のように冷めていた。

「ジャン・マリッツ、べニート・ルッチ、ヘルベルト・ヒンメル、ムルサズール女伯、腰抜けの貴族ども。手駒が私の邪魔をする」

 彼女のいつもより静かで、透き通った声。雪のように白く、表情の消えた顔。それが意味するものは第三軍団の士官達には明らかだが、職務上の必要から誰かが指示を仰がなければならない。

 上位者の務めのつもりか、副軍団長が小走りで彼女に駆け寄る。

「猊下、ご命令を。貴族どもを撃ちますか」

「必要ない。撃てば撃ち返され、敵が増える」

 ソフィアは穏やかな口調でそう言うと、黙って西に向かう色とりどりの旗を見た。

 ここで、戦うべきか。

 そんな問いが彼女の脳裏をかすめる。

 貴族の兵が退けば、こちらはバルカルセの連合軍より、二千人近く数が少ないことになる。

 その辺りの貴族であれば、第三軍団の練度に長射程の火器、陣地化した丘を考えれば負けることはない。

 だが、バルカルセ家の兵の練度に、蛮勇で名高いヒメノ家の突撃、そして、愚かなヘルベルトのせいで奪われた新型の銃砲。この組み合わせは相当に危険だとソフィアの経験が告げる。

 奸智に長けたサカリアス・ファン・バルカルセとその砲兵――算術と物理法則の理解については頭一つ抜けた連中が巧みに砲を扱い、こちらが隙を見せればヒメノ家の狂騒に身を浸した兵が奇声を上げて突っ込んでくるのだろう。

 その後の狂乱、規律も統制もない血腥い殺し合いは、可能な限り避けるべきものだ。

 しかし、ここで退けばどうなるか。

 開書派貴族との緊張から大神官の任を得たソフィアが、その急先鋒のバルカルセ家に対して、大した損害も与えずに軍を退く。

 それは、到底許されることではない。

 教主の意志が継戦なら、大神官には軍部から他の人間があてがわれる。分が悪いと見れば立法院出身者が任命されて、条件交渉と法典の見直しを主導するだろう。

 そして彼女の真紅の衣は剥ぎ取られ、前線指揮官として政情が不安な場所に片っ端から派遣されるか、悪ければ元大神官にして元軍団長の使い難さから二度と軍に戻れず、神殿の雑務に一生を費やすかも知れない。

 ここで退けば、名誉と栄光、権威と権力で飾り立てられた、この黄金に満ちた人生は終わる。

 そのザマは上流階級の選良ども、彼女が散々馬鹿にしてきた、彼女より恵まれた環境で育ったくせに実績で劣る、愚劣で惰弱な青い血達をどんなに喜ばせるか。

 無意識に年長者を、そして男を上位に置く軍の男どもが、どんな顔をして彼女を口汚く罵るか。

 そんな胸糞悪い想像が血管の中身を湧き立たせ、吐き気を催す程の焦燥が、彼女の耳元で決断を促す。

 怒りで色を失っていた顔にはまた血が上り、瞳は再び鷲の如き険しさを帯びていた。

「西の騎兵隊を全速力で、丘の裏側から北回りで東に回せ! 平地の歩兵第九大隊は斜面の中程まで後退、第五、第六、第七大隊は三列横隊でそれに並べ。第八大隊は四列縦隊で中央に待機!」

 彼女の怒号は直ちに信号手によって伝達され、軍鼓の響きと大地を鳴らす軍靴の音が丘を包む。

「砲撃開始!」

 澄んだ声が生み出したトランペットの音色は、無数の砲声と風切り音に生まれ変わる。

 彼女が取った選択は、迫り来る敵軍を砲撃と優勢な騎兵で思い切り殴打するというもの。

 丘の上のソフィアは真南にバルカルセ家の連合軍を睨み、東は二百メートル足らずの平地を挟んで一直線に南行する川を望み、西には農作地に繋がる平地が広がっている。

 西の騎兵は鉄の拳として全力で振り下ろされるはずだったが、西へ逃げようとする貴族の群れのせいで、振り下ろすための空間は失われた。

 歩兵の数はソフィアの率いる四千に対して、軍旗の数から見る限り、バルカルセ側は七千程度。

 陣地化した丘を頼みにしての防衛戦は一見手堅いが、バルカルセ家の本隊に銃撃戦で正面に拘束され、二千人近いヒメノ家の隊に、裏から回り込まれる可能性が高い。

 それを警戒して多くの兵を正面の戦線から予備に回せば、正面への対処が極めて難しくなる。

 一方で、敵よりも圧倒的に多い騎兵を活用すれば、防御陣地のない敵に大打撃を与えられる。

 彼女が考える限り、バルカルセ家にとって貴族達が離脱する利点は、彼女が率いる兵力の減少。そして、西の平地の混雑が騎兵の動きを制限することによる、打撃力の喪失。

 貴族どもに構っている間に攻められれば、結末は目を覆う程惨めな総崩れだ。

 それがわかっている以上、障害の無い北側から騎兵を東に回し、打撃力を取り戻す他ない。

 そして騎兵隊の移動距離、戦いに間に合うか際どい程の遠さを補うには、敵を砲撃で足止めし、突出した部隊を下げて守りを固めるのが最上。

 瞬時にそこまで頭を巡らせた彼女は、上気した顔で戦場の音楽に耳を傾ける。

 己の命じたとおりに全てが動く快感と、それが崩れ落ちれば全て自分のせいという重圧。

 その二つがない混ぜになった奇妙な興奮が、空に浮いたような不思議な感覚を生み出していた。

 丘の下を見下ろせば、思った通りバルカルセ家の重騎兵が胸甲に光を受けながら川沿いを猛進し、別働隊として騎兵の中隊――例のヴァレリー商会の騎兵どもが、青服の槍騎兵を連れて中央を突っ走っていた。

 望遠鏡を覗けば二丁の銃を携帯していて、その内の一丁は明らかに神殿の新型銃だった。

「ヴァレリー商会の連中、スピラーレを持っています」

 同じ気付きを得た副軍団長は、そう言うとソフィアに顔を向けて対応策を進言する。

「こうなると、展開中の選抜歩兵中隊が射程の優位を失います。このままでは散兵として機能しないまま乱戦に突入、敵騎兵に切り殺されます。それを避けるには、さらなる時間稼ぎが必要です。ここは……」

 想像以上の脅威に目を座らせた彼は、意を決したように背筋を伸ばし、黒い上衣の肩を張る。

「ぜひとも、榴弾の使用を」

 今こそ、秘匿してきた武器を使うべし。その熱のこもった進言に、ソフィアはすぐに片眉を上げて言葉を返す。

「初の実践検証? 確かに、今が使い時ね。砲兵隊に通達! 敵を榴弾砲の射程に収め次第、指示を待たずに使用せよ。以降の砲撃は別命あるまで各中隊長に一任する。大佐、騎兵の移動は」

「順調です」

「上々ね。貴族どもも順調にはけて、左翼、中央はすぐに広くなる。リビエール中尉!」

 アンリを呼びつける彼女の顔は先程よりも晴れやかで、周りの士官達は密かに胸を撫で下ろす。

「軽騎兵第一、第二中隊の生き残りと第三中隊を統合、臨時軽騎兵大隊として指揮して。ただちに中央正面に集結させ、敵騎銃兵の散兵線突破阻止のため待機」

 アンリを見送ってから辺りを見渡せば、西の騎兵は順調に東に移動し、敵の歩兵と重騎兵は、球形弾の砲撃に晒されながらも前進を続けていた。

 普通であれば予備兵力として温存され、決定打として熟慮の末に投入される重騎兵。

 これがいきなり先鋒として突っ込んでくるということは、騎兵不在の間の一方的な騎兵突撃が、作戦の鍵であることを物語っている。

 ならばその鍵となる重騎兵を、大きく振りかぶった鉄の拳を粉砕すれば、敵は突破力を失う。

 そうすれば、彼女は優勢な騎兵と砲兵を使って一方的に戦える。

 勝利への道筋を見つけ出した彼女は、晴れやかな顔で空を見上げる。

 太陽の眩しさに下を向くと丁度榴弾砲、通常よりも砲身が短い大砲が砲撃を始めていた。

 爆発する砲弾、恐らく神殿の外の人間が初めて見る榴弾は、皮膚を突き刺す破片の恐怖を撒き散らしていた。

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