第29話 トリフルーメン会戦-Ⅰ-

 騎兵の群れが雨でぬかるんだ道を行き、馬蹄に蹴り上げられた泥が、横に後ろに汚れを残す。

 雨上がりの空はいまだに雲がかかって灰色で、所々から暖色の光が差している。

 神を称えるにはいかにもな画題だが、自分にはそんな高尚で、繊細で、創造力の溢れることは到底できない。

 人を殺すか、脅すか、攫うか、手慣れた仕事はそんなものばかり。隊列の先頭、騎兵隊の長は琥珀色の瞳で宗教画めいた空を眺め、自分の仕事を振り返っていた。

 ただレンガを積むだけの仕事をしながら、立派な家を造っていると考える。

 これはなんとも立派な精神だが、利権拡大を目論む貴族の私兵に当てはめても良いものか――

 そんな問いを弄びながらも、周囲を警戒する五感に油断はない。

 そこまで近くはない未来の、本当にあるかわからない、民の幸福。それは数日前に見届けた、略奪の憂き目に遭う都市の光景と釣り合うのか。

 そして今、それなりに丁寧に扱っているとはいえ、燃える故郷から少女を連れ去り、荷馬車の中に拘束するのに値するのか。

 今後も己の仕事を誇ることはないのだろう、と、そんな思いを特に押し込めることもせず手綱を握る。

 彼に続く隊列は多少なりとも隊長の機嫌を察したか、目的地に向けて粛々と歩を進めていた。




 鼻腔をくすぐる茶の芳香にいつになく顔をほころばせると、小高い丘に椅子と机を置いたサカリアスは、真北、遠く前方に展開された神殿の堅陣に目を向けた。

 東西を柵で守った丘の上には黒と赤の重厚な塊が陣取り、丘の下には黒の他に薄青、白、濃緑、薄灰、紫、紺、黄、赤と、いくつもの色が並ぶ。

 神殿と、掻き集められた神殿派貴族の軍勢だ。

 その壮大な点描の雑多な色合いと裏腹に、西に広がる平野には、黒衣の騎兵の赤い羽飾りが揺れる。所々に散りばめられた青銅砲の金色は、観賞する者を威嚇する。

 丘の上には一点の、小さいが目を引く真紅。

 神速にして鉄壁。用意周到にして臨機応変。

 サカリアスが聞き集めた指揮官としてのソフィア・エスコフィエの評判は、不思議と相反するようなものが多かった。

 だが、行軍が早ければ守りを固める時間も十分に取れ、事前の準備が優れていれば、突発的な事態にも対処ができる。

 そう考えれば、特別おかしな話ではない。

 おかしくはないが、それを両立する者が優秀であることは疑いない。

 その難敵を前にして、サカリアスはただゆっくりと茶を楽しむ。口に含めば温かさとほのかな香りが広がり、少し遅れて香りと渋みが強くなり、甘いとも言える残り香を感じさせながら心地良い渋みが口中を引き締める。

 心の奥から湧き出た悦びは、飲む者に寛ぎと集中の両立という貴重な副産物を与える。

 そうして生み出された心の余裕か、元々の性質か、あるいは支配者として後天的に身に着けたものかわからないが、サカリアスは造りの良い椅子に背中を預け、悠然とした態度を見せていた。

 その血を継いだか、それとも教えを受けたのか、フィオナもまた優雅な手つきで金と深緑で彩られた白磁を口に運んでいる。純白のブリーチとブラウス、丈の短い青の上衣に長いブーツはくどい程戦争を匂わせるが、その居ずまいは優雅な茶会と何も変わらない。

 兵は兵で、草原に座り込んで体を休めている。

 新型砲の射程外に兵を並ばせたサカリアスは、すぐに攻撃をかけることを許さず、睨み合いを命じていた。そして、睨み合いで体力を消耗するのは無駄として、座っての休息を許していたのだ。

 鳥の鳴き声や虫の羽音に耳を傾ける余裕すらある中で、兵達は精神的な疲労を嫌って長い待機の間に雑談を挟む。

 そこから鳥の歌は何楽章まで進んだか。呆れる程穏やかな時間が流れる中で、ついにフィオナが立ち上がり、二つに折った山形の帽子を被る。

「来ました」

 彼女が視線を向けたのは、両軍のすぐ東を通って南北に流れる川の向こう、こちら側に渡れる橋の辺り。そこに現れたのは、数台の荷馬車を伴った騎兵隊。

 橋の途中で掲げられた旗には、空色に黄色の斜線――ヴァレリー商会の旗印。そして、その旗の上には青地に黒梟の紋章旗。

 旗色明らかに駆けるかに見えた騎兵隊は、さらに白旗、交渉の使者としての旗を掲げ、両軍が睨み合う数キロの平野の中心まで歩を進める。

 激戦の最中であれば、あるいはもっと粗野な集団が相手であれば問答無用で撃ちかけられたかも知れない。

 だが、大砲で狙い撃つには距離があり発砲しても無駄なこと、そして統制された文明的な軍隊であることが幸いし、使者殺しは控えられた。

 歩みを止めた荷馬車からは、ぼろぼろの服を纏い、それぞれの家の紋章旗を掲げた二人の少女が現れた。

 旗竿を杖によろめきながら歩く少女を尻目に、荷馬車は騎兵隊を伴って、バルカルセ家の陣へ退いていく。

「いいぞ、そのまま歩け。もう少し、痛々しくてもいいんだがな。まぁ、それは無理な相談か」

 サカリアスは役者の品定めでもするように少女を眺め、劇の続きが楽しみといった調子で身を乗り出す。

 少女を凝視する瞳も片端だけ吊り上がった口元には、少女を憐れむ様子は見られない。

 ただただ自分の思い描いた面白い筋書きの通りになるか、それだけがサカリアス、そしてフィオナの注意を引く。

 事態が動いたのは、あまりに重すぎる少女の足取りを見かねて、神殿の陣から騎兵が何人か飛び出してからだった。

 何が起きたのかと、少女が掲げるものとは異なる紋章の家からも兵が出された。

 望遠鏡を覗けば、少女が駆け寄った男達に封筒を手渡しているのが見える。

 騎兵が少女の手を引いて馬上に引っ張り上げると同時に、他の家からの騎兵達は慌ただしく己の主の元へ戻っていく。

「そうだ、いいぞいいぞいいぞ」

 邪な笑みとともに焼き菓子を摘まみ、口に放り込む。しっとりとした品の良い甘みを飲み下し、わずかに残った紅茶を飲み干す。爪先は上下に動かされ、顎に添えられた親指と人差し指が、熱中のあまり前に突き出された顔を支える。

 そこまでの熱意を注がれた役者達は、まさに観客にして作家であるサカリアスの期待する通りに動き出した。

 大した風も吹いていないのに、一斉にはためく数多の紋章旗。それは貴族の軍勢が移動を始めたことを意味する。

 本来バルカルセ家の連合軍に向かうべき旗印は、西の平地、バルカルセ家でも東の川でも丘の上の本隊でもない、戦場の出口に向かって突き進んでいた。

 己の思い描いた中で最も理想的な展開を見て、サカリアスは歓声を上げる代わりに、にんまりと口を歪めて笑う。愉悦に満ちた三日月に近い瞳でその光景を鑑賞し、満足そうにゆっくりと右手を振り上げる。

「全軍に通達。戦闘開始」

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