第28話 休息と謀略-Ⅲ-

 思い出したように降る雨が、屋根や木窓や草木にぶつかり、涼しげな雨音が心地よく耳に届く。

 冷たく湿り気を帯びた空気に満たされた部屋で、熱い紅茶がワインに劣らぬ喜悦をもたらす。

 ソフィアはいつになく優しい手付きで白磁のカップに指を掛け、侍従の髪に似た赤茶の水色すいしょくと、豊かな香りを楽しんでいた。

 トリフルーメンの西に広がる農村に陣取って十日目、彼女はバルカルセ家の沈黙を苦々しく思いながらも、リートゥスデンスを締め上げる策を練り続けている。

 占領した開書派貴族の領地から領主の財産を没収し、それを領民にバラ撒いて、リートゥスデンス周辺の物価の釣り上げを行ってきた。

 領主と結び付いた大商人や職人の評判が悪ければ、彼らからも金を巻き上げ、それの一部を軍の食事や雑用の代金として、相場を大きく超える額で領民に支払う。

 リートゥスデンスに近付いてからは本格的に資金を投じ、食料を買い占めて、近場の倉庫もまとめて借り上げた。

 伯領全体の穀物の量は、確かに多い。

 だが、人口過密な市壁の内側の貯蔵能力は限られていて、長期、大量の保管は農村部――市壁の外に依存する。

 物流経路としての海路は健在だが、肝心のモノは神殿が押さえ込んだ。

 遠く離れればいくらでも商品はあるが、強欲な商人達が、ここぞとばかりに売り値を吊り上げるのは間違いない。

 当座の成功に機嫌を良くして、愛おしげに白磁を眺めていると、その艷やかな光が黒い影に覆い隠された。

 目線を上に向けると、軍帽を湿らせたアンリが、油紙の封筒と書付けを持って立っていた。

「商人達に聞き込みをしてきました」

 ソフィアは敬礼するアンリに席を勧め、空いていたカップに茶を注いだ。

 アンリは三角形に折った帽子を机の脇に置き、ありがたそうに白磁を手元に引き寄せる。

「物価は猊下の思惑通りに吊り上がっています……わからないものですね、自分や、自分と同じ領民の暮らしが苦しくなるのに、彼らは非常に協力的です」

「それは格差、偏りのおかげ」

 困惑するアンリに、大神官は人の性を説く。

「六万近い領民のかなりの部分が、リートゥスデンスの市壁の中にいる。これは、そこらの農村の人口を合わせたのよりも多いし、二万人、三万人を超える都市はそう多くない。当然何もかも買うしかないから、人間は金に物を言わせて買う側と、苦労して物を作る側に分かれる。これは領民同士でも同じこと。で? 海からも物が流れ込むリートゥスデンスでは価格競争に晒され、周囲の生産者達は十分なお金を手に入れられない。一方で、豊かな者達は買い叩いた物の輸出や加工でさらに豊かになっていく」

 ソフィアの説明にアンリは考え込むように腕を組み、下を向いてため息をつく。

 人の醜さに耐えかねたのか、非道な話にそぐわない彼女の笑顔から目をそらしたのか、視線は白磁の縁をなぞっている。

「人口と富の偏りによる矛盾、妬みに支配されてる訳ですか……しかし、わからないのが南方の商人です。彼らはバルカルセ家とは繋がりが深いはずでは? 彼ら抜きでは物価は操作できません」

 軍団長補佐官にしては純朴な問いに、彼女は一通の手紙を差し出す。

 そこに書かれていたのは、南方大陸の豪商が反バルカルセの動きに賛同する内容。

「例えばこれ。マディナ・アル・ブルジュのイスマイール、南洋随一の大商人。彼は我々に呼応して売価を吊り上げて、リートゥスデンスでの売り上げの三割を神殿に渡すと誓った」

「さ、三割? よくそんな話が通りましたね」

「深い関係と永遠の友情は別のもの。彼らからすればバルカルセ家と、リートゥスデンスで幅を利かせるヴァレリー商会は邪魔でしかない。こちら側に自分の商館を置ければ、南洋、東洋と王国南部の商売で立場が強くなるけど、当然バルカルセ家はそれを許さない。だから、あの伯爵が苦しむなら喜んで金を払ってくれる」

 彼女は目を細め、恍惚とした表情で己の計略を大事に撫でるように説明する。その白い指は何か高級な愛玩動物を愛でる優しさで、柔らかな、緩く巻かれた髪に絡む。

「それを資金の足しにして、我々は物価の水準をできるだけ高く保つ。さらにこれが長期化すれば、市壁の中の富を吐き出させる意味も持ってくる。圧倒的に金がある、その強みを失えば、バルカルセ家が今の力を保ち続けることは不可能。中々時間はかかったけど、実際に軍を動かしたら、商人達はすぐに転んでくれた」

 嬉々として説明するソフィアと対象的に、どことなくうつむいた様子のアンリはゆっくりと紅茶を飲む。

 高価で特権的な芳香が体を満たし、控えめな口を開くよう促す。

「見事な計画ですが……それでは我々が、民衆の暮らしを圧迫することになりませんか」

 素朴な問いかけにソフィアは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに小さな笑いを漏らす。

「そんなのは一瞬よ。バルカルセ家は必ず軍を出し、その事態を阻止しようとする、それが私の狙いだもの。リートゥスデンス城は難攻不落、だから私達は奴らを外に出したい。奴らは経済的な優位を失いたくないから、私達を追い出したい」

 指先が毛先を弄り、愉快そうに細められた目は、優秀な補佐官とそれを包む仕立ての良い制服――己に属する出来の良い道具、自分の権威を担保するモノを映す。

「だいたい苦しむのは神殿に楯突く連中だし、困ることは何もないでしょ」

 冷笑したソフィアはまだ温かい紅茶を飲むと、一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべてから元の顔、高座に着く神の代弁者に戻る。

「自由の美名を騙って神殿の権威を蔑ろにして、貧者を踏み付けて肥えた豚。それを野放しにしていいはずがない。これは神殿の威信をかけて、私達の手でやるべきことなの」

 優しさか後ろめたさか、民生を圧迫する策略に気後れした様子を見せるアンリに、ソフィアは神の理屈を教えてやる。

「権威を失えば、権力も失われる。従わない者を蹴り飛ばすのも大事な仕事よ。それじゃ中尉、後で物価の推移をまとめた物を頂戴」

 そう言って冷めつつある紅茶を多めに飲み、カップを戻して椅子に深く座り直す。

 命令を受けたアンリが部屋から出ようとすると、彼が手をかけるよりも早く扉が開き、中年の男と、息子と思しき少年が重そうな麻袋を抱えて入ってきた。

 男はアンリが手伝おうとするのを固辞し、壁際の棚まで袋を運ぶ。

 重荷を下ろすと背をかがめて腰をさすったが、すぐに背を伸ばしてソフィアに顔を向ける。

「大神官様、こん辺りの地図と、皆で使ってるお天気の記録です。その他に仰ってた物も、全部ここに入ってます」

「ありがとう。辛そうね」

 ソフィアが見かねて声をかけると、萎縮した卑屈な、歳の割に皺の深い顔をひしゃげて、へぇっと情けない声を出した。

「荷物担ぐしかできねぇもんで、腰を痛めちまいまして。まぁー、こん子が湿布作ってくれるんで、それでどうにか」

 ソフィアが気の毒そうな目を向けると、小袋をいくつも抱えていた少年が自慢げな顔でソフィアを見上げる。

「おれが街の図書館まで行って、作り方調べてきたんだ! ほら!」

 無邪気な少年は、自慢げに、ポケットからしわくちゃの書付けを取り出す。

 その甲高い声に父親の顔から血の気が引き、黄疸気味の目がこれ以上ない程に見開かれる。

「お前、なんてこと言いやがるっ!」

 血相を変えて跪き、滑舌の悪い謝罪を繰り返す哀れな男。ソフィアはその丸まった背を頬杖を突いて眺め、男の処遇に思いを巡らす。

 一切の事情を考慮せずに判断すれば少年は間違いなく罪人であり、程度の差こそあれ罰金なり労役なり、何らかの刑罰が課せられる。

 だが、今後のことを考えれば、正義の神殿を象徴する物語、開書派貴族は毒だと子供でもわかる何かが欲しい。

 バルカルセ家の軍を倒したとしても、アウスティア教区の大神官の座にあり続けるには、下層の庶民の信頼を得て治安を安定させねばならない。

 そして、目の前にいるような無学な人間には、王国全体の政策を論ずるよりも、情緒的な、温もり豊かで個人的な経験をさせてやった方が手っ取り早い。

 神官や貴族が遠大な理論を理解できないのは論外だが、彼らにそれは求められない。

 そんな考えから、彼女は微笑みとともに男の前まで歩いていき、しゃがみ込んでその肩に優しく手を当てる。

 驚きから思わず顔を上げた男に、驕慢が生み出した柔和な表情で語りかける。

「彼の行いは、私は聞かなかったことにします。細かい話は知りませんが、あまり医者にもかかれなかったのでしょう?」

 問いとともに、男の節くれだった手を両手で包む。筋張った手に慈母のような眼差しが注がれ、薄暗い部屋の床に陰鬱な影を落とす。

「市壁の中の者が金を握り、医者は金持ちの方を向く。金がなければ、自分で自分を助けるしかない。そんな風になってしまったのは、領内の富の偏りを放置したバルカルセ家の責任。だから、私は、あなた達を責めない」

 男が慈愛に満ちた言葉に感じ入ったように頭を垂れると、興味を失ったソフィアの瞳は途端に濁り、あさっての方を向く。

 放っておくと、紅茶が冷めてしまう。茶が温かい内に、この村が静かな内に飲んでしまわねば。

 そんなことを考えて椅子に戻ろうとしたが、静謐な空気は、乱暴に開かれた扉で消し飛んだ。

 駆け込んできた伝令が非礼を詫び、踵を合わせて敬礼する。

「南からバルカルセ家の軍勢です!」

 伝令の言葉を受けたソフィアは、ローブの裾を翻し、足音を立てて外へ向かう。男とのやり取りを黙って見ていたアンリも、湿った帽子をかぶり直して後に続く。

 雨の日の淀んだ空気は野営地に響くトランペットと軍鼓に破られ、村全体が慌ただしくなる。

 一足先にあらかじめ定めた集合場所、村の南にある高く広い丘に着いたソフィアは、続々と集結する軍勢を眺め、一人笑いを漏らす。

 いつの間にか雨は上がり、丘の上からの見晴らしは良い。足下に広がる平地では、神殿の軍勢が一糸乱れぬ動きで配置に付き、貴族が揃えた兵が一段劣る動きを見せる。

 眼下の光景が証明するのは、自らが鍛え上げた第三軍団の優秀さ。

 真南に目を向ければ青い塊、開書派貴族の軍勢が遠くに見える。

 リートゥスデンス伯、カンプサウルム伯、リウサレナ男爵、ルフシア男爵とそれぞれの旗が翻り、後方には大量の輓馬とロバに荷馬車と大砲。

 青銅の輝きが、総力を結集したことを物語る。

 王国随一の軍を持つ、開書派貴族の急先鋒。

 古の名族にして、歴史に名を残す裏切り者。

 邪悪な梟を屈服させれば、大神官としての地位は確たるものになり、楯突く者はいなくなる。

 そうなれば、アウスティア教区の長として、神殿での地位が揺らぐことはない。

 揺るぎない権威があれば、他人に脅かされることもなく、ずっと悦楽の中にいられる。勝利は曖昧な栄光で終わらず、きっとそれを保証する。

 厚い雲の隙間から差した光が照らすのは、ソフィア・エスコフィエの尊厳が宿る真紅のローブ。

 かつて戦果に苛まれた少女の瞳は、己の道具達が綺麗に並んでいくのを楽しそうに眺めていた。

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