第21話 第三軍団

「大神官猊下の誕生日が来月だったと思うが、何を差し上げたら喜ぶ」

 突然そんなことを聞かれたモニカは、驚きのあまり返事も忘れて質問の主を見返した。

 秋と言いつつも暑さの残る午後、彼女はソフィアの言いつけで、収穫祭に関する書類を渡しに典礼長ベニート・ルッチの執務室を訪れていた。

「なんだその顔は」

 老神官の不機嫌そうな顔を見て、彼女はさすがに失礼の度が過ぎたかと反省する。

「失礼致しました。その、まさか典礼長からそのような」

「あぁ、わかるよ、わかるとも」

 ベニートは口をひん曲げ、うんざりとした顔でモニカを見る。

「なんですかぁ典礼長、この間まであんなに喧嘩腰だったのに、今度はご機嫌取りですかぁ、と、そう思ってるんだろう」

「いえ、そこまでは」

「やめろ、気を遣って嘘をつくな。私だって恥ずかしいんだ」

 頬杖を突き、もう片方の手の人差し指は苛立たしげに机を叩いている。

「私は完全に叩きのめされた上に、なんだこれは、典礼長であり続けてるじゃないか。許された、それも寛大に。本当は今すぐ跪いてご機嫌を伺いに行くべきなんだが、恥ずかしいわ悔しいわで行けずにいる。だから誕生日祝いを口実にしたいんだ。何がいい、お前ならわかるだろう」

 モニカは途中から面白くなってきてしまったのを必死に押さえ込み、神妙な顔付きで答えを探す。その表情を厳しい態度と誤解したのか、ベニートは突然態度を変える。

「モニカ、頼むから教えてくれ。いつも側に控えていて、何かと身の回りのことをしてるだろう? 猊下は何が好きなんだ」

 しばらく逡巡したモニカは、自分が辿り着いた答えのとんでもなさに驚きつつ、おずおずと口を開く。

「あのぅ、申し上げにくいのですが……典礼長が跪いて忠誠を誓えば、何も差し上げなくとも大喜びかと」

「それは、そんな気もするな」

「後は、お茶ですね。よく飲まれます」

「茶。そうか、茶か」

「あ、お菓子を添えるなら栗の物ですね。秋ですし、お好きなようです。甘すぎる物と、こう……口の中がもそもそする物はお嫌いです。よく嫌な顔をしています」

「そうかそうか、いや、助かった。猊下と親しい人間はそういないからな。そういえば……私もそうだが、お前も大神官が変わる前から据え置きだな。侍従ぐらいは誰か連れてきそうなものだが」

 何気なく発せられた疑問に、モニカの暗い記憶が呼び起こされる。

「大神官就任の時に、異動の希望があるか聞かれたんです。でも昔、マリネロ先生の研究室で成果を出せなかったものですから、顔を背けてしまって、それで……」

 ベニートは一瞬だけモニカの目を見つめ、すぐに視線を手元に落とした。

「一種の温情か、嫌なことを聞いてしまったな。しかし意外だな、正面から馬鹿にされそうだが……まぁいいか、引き止めて悪かった」

 モニカはもの言いたげな表情のまま、何も口には出さずに退室する。

 早足で大神官の執務室に戻ると、機嫌の良さそうなソフィアに声をかけられた。書類が何事もなく受理されたことを伝えると、また机に広げた地図に目を落とした。

 モニカが見る限り、ソフィアは決して悪い人間ではない。

 汚職の気配もまるでなく、救貧に繋がる研究は熱心に支援する。よく働く者はしっかりと労い、理不尽な命令をすることもない。

 同時に、歪んでもいる。歪んでいるが、それは神官としては当然の歪み方で、異質ではない。

 ただ、あまりに綺麗に神官として出来上がっているので、苦労して神官のフリをしている人間は気後れするのだ。

 そして、多くの神官は傲慢さと卑屈さが奇妙な同居をしているものだ。だから、自分より若く、低い身分の人間が上手く仕上がっていると、どうしようもなく不安で、不愉快になる――


「第三軍団長ヘルベルト・ヒンメル、先遣隊の歩兵四個大隊、騎兵一個大隊と共に、ただいま到着致しました!」

 白と赤の軍装に身を包んだ北方風の大男は、厚い胸板を押し出すように背を反らして敬礼する。

 中年も終わりにさしかかり、彫りの深い顔にはしわが目立ち始める頃。ソフィアは見上げるようにして、後任指揮官を観察する。

 神殿前の広場に整列するのは、彼女が以前指揮していた第三軍団の面々。

 補給の都合で分散した内の第一陣が、赤と黒の出で立ちでまっすぐに整列している。

「アウスティアまで遠路の行軍ご苦労。疲れているでしょうに、見事な規律ね」

「はっ。猊下のかつてのご指導の賜物です」

 ソフィアは礼節と忠誠を見せる後任に気を良くすると、かつて自分が重用していた部下に声をかける。

「ひさしぶりねアンリ、元気そうで何より」

「はっ。猊下もお変わりなく」

 言葉を返すのは、柔らかい栗色の毛に整った顔立ちの好青年。

「えぇ、困ることも多いけどね。ところで……ヒンメル軍団長、これまでの指揮経験は?」

「軍団長の職を頂くのは今回が初めてです。以前は第二軍団で第五歩兵大隊第三中隊を七年、第五歩兵大隊を五年ほど預かりました」

「第三中隊の前は?」

「第二軍団長補佐を七年程」

「長いのね。でも、いよいよ軍団長勤務、期待してるわ」

 長い、そしていよいよ軍団長――当たり障りない一言だが、ヘルベルトの顔に苛立ちが浮かぶ。

 しかし、才能と幸運で出世の階段を当たり前のように駆け上ったソフィアには、順調だったはずの昇進が停滞した者の気持ちは察せなかった。

「後続の所在は」

「歩兵四個大隊、重騎兵一個大隊、騎銃兵一個大隊、軽騎兵二個中隊が、五日遅れの行程でタラサ街道を行軍中。砲兵と護衛の歩兵一個大隊は、レヌス川を船で南下しており、三日後に到着する予定です」

「砲の数はどれほど」

「ご命令通り重砲十、軽野戦砲百です。新型砲とはいえこの輸送は……困難でした」

「伯軍は火力が極めて充実している。苦労の甲斐はあるわ」

 彼女は明るい笑顔でそう言うと、さらに善意による失言を重ねる。

「バルカルセ家は難敵だけど、なに、多少失敗があっても第三軍団ならなんとかするから。気負わずに行きましょう」

 まるで逆の効果をもたらす激励と共に、ソフィアは執務室へ足を向ける。顔をしかめた軍団長は兵を兵舎へ移動させるよう命じ、補佐官達を引き連れてその後を追った。

 執務室に戻って早々にソフィアが机に広げたのは、行軍経路を記した地図だった。

 神殿からいくつかの都市を経由して街道を南下し、途中から街道を外れて平野と森を進むことになっている。

「少々、遠回りであるように思いますが」

 ヘルベルトの問いに、彼女はため息で返す。

「かっぱらいながら最短距離で進みたいのは山々。だけど、今友好的な勢力から略奪しては、後々問題が出てくる。それに、一万人の兵だけで、一日に大型の馬車三台分は食べるでしょう」

 そう言いながら、彼女は机の端に積まれた手紙の束を、彼の前に並べて見せる。

「でもパン焼きに何日も使えないから、途中までは都市で食料を買い付けながら行くしかない。一応手配は先にしてあるし、準備完了の連絡も受けてる。まず最初の目標は」

 細長く、白い指が地図上の一点に伸びる。

「トリフルーメン」

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