第19話 決心-Ⅱ-
査問会の当日、演台に立ったソフィアは手を後に組み、背筋を伸ばして議長席を見上げていた。
普段己が座っている議長席が査問官の大きな尻に磨かれているのを見つめ、その口元は苦々しげに歪んでいる。
査問官の隣には書記と、大神官の次席としてベニートが座っている。高所からソフィアを見下ろし、愉快げな口から黄ばんだ歯が覗く。
「これより、アウスティア教区大神官ソフィア・エスコフィエの初回審理を始める」
審理の対象として敬称を略され、ソフィアの名が石壁に響く。
「まず、傭兵団と通じて伯領リートゥスデンス及びその周辺地域から金品を略奪し、それを横領しているという嫌疑について。ここで、何か発言したいことは」
マルタの無機質な声が問いかけ、ソフィアもまた堅い調子で言葉を返す。
「ありません。話をしようにも、何もしておりませんので」
「ご存知とは思いますが、早めに罪を告白すれば量刑の際に考慮されますよ」
「存じております」
「現在も公邸を始めに各所で捜査を継続中ですが、答えは変わりませんね」
「もちろんです、査問官殿」
マルタは頷き、手元の資料に目を落とす。
隣に座す典礼長と議事堂の聴衆――ソフィアの失点と、その後の己を引き立ててくれる者の大神官就任を期待する神官達は、熱のこもった視線をマルタに注ぐ。
「職務上の横領についての見解ですが」
淡々と話す様子に、ソフィアは一体どんな捻じ曲がった解釈と嘘が並べ立てられるのかと、睨みつけるように聞いていた。
それを知ってか知らずか、マルタは相変わらず無機質で眠くなる声で所見を述べた。
「今の所、彼女に怪しむべき所はありません」
議事堂に戸惑いが広がり、ベニートは慌てて隣を向く。ソフィアもまた、身構えながらも驚きを隠せずにいる。
「査問官殿、それは本当ですか。疑わしい物が一つもないと」
食ってかかるような態度のベニートに、マルタは不快そうな顔を向ける。
「典礼長、我々の捜査に不備があるとでも?」
「いえ、決してそのような」
一度口籠るが、今度はニタニタと慇懃な態度で話し始める。
「昨日傭兵隊長から押収した書簡の中で、エスコフィエが盗品の処理を命じたものがあったと思いますが……あれについてはいかがお考えでしょうか」
ソフィアはまったく身に覚えのない書簡が言及され、やはり仕組んだかと表情を暗くする。
何かあると想定して対策はしたつもりだが、ソフィアの罷免が既定路線とされた中で戦い抜くのはあまりにも難しい。ソフィアとベニートの鋭い視線がマルタに向けられる。
「あれは」
それに答えるマルタは相変わらず無表情で、淡々としていた。
「証拠には不適切です。筆跡が一致しません」
「は? 今なんと」
理解できないという顔のべニートに、マルタが無機質な声でたたみかける。
「ですから、筆跡が大神官やその周囲の者と一致しません。それと、あの隊長の部隊はコリサルビア城近辺での行動を取っていましたが、手紙の文面ではトリフルーメンの戦利品とあり、内容が合いません。現時点でこれを証拠とするのは無理があります」
ベニートがマルタに顔を寄せ、何事かを小声でまくし立てているのがソフィアの目に映る。
マルタが険しい目つきで言い返し、ベニートは憮然とした顔で椅子に座り直す。
「次に、大神官の職務怠慢が、アウスティア教区の治安悪化を招いたとする件について」
不機嫌そうなベニートをよそ目に、マルタは淡々と査問を続ける。
「こちらは事前に資料を照会していましたが、記録として認められる限りでは大神官就任前後で犯罪の発生率は特に変化がありません。重犯罪の割合も特に変化がありません。よって、大神官の交代により治安が悪化したという認識は正しくありません」
抑揚のない調子でそこまで言い切り、机上に広げた法典を閉じようと手を動かした。
何も弁解をしない内に無罪で査問が終わろうとし、ソフィアは安堵しつつも困惑する。
「お待ちください」
本当にこのまま終わるのかと彼女が疑いを持ったまさにその時、男にしては高く、その割に粘着質な声がマルタの手を止めた。
「典礼長、まだ何か」
「仮に現時点で統計上有意な差が現れていなかっとしても、こうした話が下々から聞こえてくるというのは、人心に不安が広がっている証です。それを放置しておいては、後々大きな問題になりかねません」
ベニートが焦って食い下がるのを見て、ソフィアは内心で無理筋だとほくそ笑み、反撃の手順を構築する。
黙っていてもこの場はやり過ごせる。だが、何もせず放っておけば、ベニートは必ず次の手を打つ。敵が不用意な攻撃を仕掛けてきたらどうするべきか――ただ追い返しては面白くない、次がないように叩き潰せと、彼女の直感が告げる。
マルタはため息と共にベニートに言い返そうとするが、演台のソフィアが右手を高く上げ、それを遮った。
「査問官殿、発言をしても?」
マルタは驚いたように少し目を見開き、一拍置いて許可を出す。
「典礼長の言う通り、王国民の間に治安の悪化に対する不安があり、それにより神殿への信頼が揺らぐのは好ましくありません」
ベニートに凝視されているのを無視し、マルタに顔を向ける。
「その責めは、まさに大神官が負うべきものかも知れません。そこで」
ソフィアは視線をずらし、聴衆の困惑と恐怖を楽しげに眺める。
椅子に座った選良どもが直面するのは、軍事的な経験も人脈もなしには乗り切れず、政治的にも苦しい難局――
「典礼長ベニート・ルッチを次のアウスティア教区大神官に強く推挙し、この職を辞そうかと思うのですが、いかがでしょうか」
ソフィアがベニートを推薦した状態で、敢えて彼を押し退けて大神官の座を狙う者はいない。
誰もが難局に目を背け、一歩距離を置き、そして必ず同じように邪魔をする。
彼女の知る限り、神官とはそういう生き物なのだ。学問以外では、酷く醜く図々しい。
「いや、お待ちください」
困惑の中、数秒間で事態を理解したベニートが声を上げる。
「今すぐ辞するというのはあまりに性急、あまりに浅慮、今アウスティアは難しい局面に」
「難しいと言うなら!」
ソフィアは演台を叩き、狼狽する男の黄ばんだ目を睨みつける。鈍い音が響き、彼女以外の全ては音を失う。
「大人しくしろ。邪魔をするな」
萎縮し、黙り込んだベニートに議事堂中の視線が集まる。険しい顔で沈黙を守るソフィアを前にして、助け舟を出す者もいない。
しばらくの沈黙の後、ベニートは観念して口をもごもごと動かす。
「猊下、失礼を致しました、お許しください」
悄然とする彼を横目に、マルタは音を立てて法典を閉じる。
「査問は、これで終了します。辞任の件は本会では扱えませんのでご再考を」
退廷を促され、ソフィアは悠然と議事堂を後にする。彼女を驚かせたのは、執務室に戻ってから数分で、マルタが不自然に引きつった目と口――恐らくにこやかな笑顔と思っているものと共に現れたことだった。
「査問官殿、何かご用で」
「用ということもないですが、え、ご挨拶に」
引きつった口を器用に動かしながら話す女の豹変ぶりに、ソフィアは己の目を疑う。
「ご丁寧にありがとうございます。しかし、失礼ですが……てっきり有無を言わさず罪を着せられるものかと」
「実は、最初はその予定でした」
「今なんと?」
思わぬ答えに固まる彼女を見て、マルタは恐る恐る話を続ける。
「本山からの使者をご覧になりましたか」
ソフィアの脳内に、供を連れた仰々しい馬上の使者が蘇る。
「お考えの通りと思いますが、最初は猊下がバルカルセ家との戦いの後に立場がなくなるようにしろと、法廷から命じられました。えぇ、もちろん断りましたが、しかし何度も強くお話をされましてですね、私も罪の意識に苦しみながら」
「査問官殿が不幸にも、不本意な任務を帯びてしまったのは理解しました。それで?」
ソフィアの声に苛立ちを感じたのか、マルタの無理な笑顔が更に引きつる。少しソフィアの方に顔を寄せ、声を落とす。
「教主聖下から使者が」
「聖下から?」
「はい、アウスティアに余計な手を出すなと」
教主。
ミネルウァ神殿の最高位。非力な王家の下で貴族の間を泳ぎ回り、王国の綻びを繕う調整者。
ソフィアは大神官就任時に目通りした銀髪の老婆の姿、背の曲がった、金の刺繍と宝石に飾られた純白の法衣に身を包んだ姿を思い出す。
そして、風聞からさぞ高圧的で傲慢で強権的だろうと思っていたら、思慮深く、穏健だったことが思い出される。
教主が? なぜ? とマルタに聞いても、答えは得られない。なんならば、彼女も同じ疑問を持っているのは間違いない。
少なくとも、教主という高い立場で見える世界と計画があり、その中でアウスティアの位置づけは重いらしい。それだけでも、ソフィアが自信を持つには十分過ぎる。
「聖下がそのように……ところで、わざわざそれをおっしゃりにこちらまで?」
「あの、もし教主聖下から何かご下問がありましたら、マルタ・ダルバは査問会をよくおさめたと、ぜひそのように」
膝を曲げて頭を垂れるマルタの姿にソフィアは満足感を覚え、小鼻を膨らまし、目の前の卑屈な神官の頼みを快諾する。
「ありがとうございます猊下、命を救われた思いです。そういえば、これは内々の話ですが、第三軍団が猊下の下に遣わされるようですよ。使者の方がそのように」
「それは嬉しい知らせです。第三軍団は……私の古巣です」
「かつての部下が派遣されるのも、聖下のご期待の現れでしょう。それでは、私はこれで」
再び辞儀をして退室するマルタを見送ると、ソフィアは長椅子に座り、大きく伸びをした。
その顔には晴れ晴れとした笑みが浮かび、珍しくゆったりと背中を椅子に預けている。
「ご機嫌がよろしいですね」
側に控えていたモニカが声をかけると、彼女は当然だと言わんばかりに眉を上げ、足を組んでさらに体を寛げた。
「査問官の任命は家柄重視、皆に睨みが効くようにね。それがあの様よ、気分がいいわ」
恍惚とした表情で虚空を見つめた後、突然立ち上がり、足音を立てて壁掛けの地図へ向かう。
数秒前とは打って変わった険しい目つきで、王国の南を凝視する。
「衝突は……避けられませんか」
赤毛の従者は静かに問う。
「難しい。査問官まではともかく、王室法廷までは教主聖下も思い通りにはできない。北の方の連中はリートゥスデンスとの商売にしか関心がない。南部であてになりそうだったカンプサウルム伯は、色で転んで、もはやリートゥスデンス伯の親戚。それと、市場で覇権を取りそこねた都市のギルドは開書思想にかぶれがち。できるだけ緩やかに殺したかったけど……これは、早いうちに叩かないと取り返しが付かなくなる」
地図の上の王国を眺めているうちに、ソフィアは泥の上に立っている妄想に囚われる。
困窮した暮らしから、大神官の高座まで登ってきた。泥沼の中から夢にまで見た陸地に這い上がったと思ったら、それはまだ、泥濘の上だった。嬉々として足を踏み入れたアウスティアは、とんでもない悪地だった。
周囲には陸を羨む有象無象が沼にはまっていて、彼女を沼に引きずりこもうと足に手を伸ばしている。
それを払いのけるには、大神官の栄光を確かなものにするには――
「打ち倒すしかないの」
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