第18話 決心-Ⅰ-
腐り切った生ゴミ、膿の詰まった吹き出物のような汚らしい連中め、自分の財布のことしか頭にないか――そんな言葉を腹の中で並べ立て、ソフィアは荒れ狂いそうな心を鎮める。
手紙を破っても意味はなく、愚痴をこぼす相手もいない。せめてもの慰みとして、口にできない罵詈雑言を胸の内で弄ぶしかない。
モニカをリートゥスデンスへ送り出してから十日程経った夕暮れ時。執務室の扉を叩いたのは可愛らしい赤毛の従者ではなく、本山からの不細工な使者だった。
手渡されたのはリートゥスデンス伯を裁くべきとした書状に対する、王室法廷からの返信。
腰の重い法官役の貴族と神官は多少の事では動かないとわかっていたが、その断りの文句に彼女は我慢の限界を迎えた。
南部貴族のバルカルセ家に対して、まさしく南部の要であるアウスティア教区は十分に手を尽くしていない。
さらには、南部の治安はソフィアが大神官になってから著しく悪化しており、その身辺に対する疑惑もある。
己の働きと正しさも証明せず、努力も不十分であるにもかかわらず、己の務めを投げ捨てて王室法廷の裁きを求めるとは何事か、と、そんな内容の手紙。
これを読んだ時に、ソフィアはその不愉快な返事の背景を簡単に想像できた。
あの連中の愛好する磁器、茶、香辛料、絹、宝石に海の向こうの珍しい酒、そうした物の少なくない量が、リートゥスデンスを通って王国に輸入される。その供給が妨げられるのを嫌い、直接的にバルカルセ家と対立をしたくないのだ。
驚く程の速さで返事が来たことを考えれば、裁くべきかどうかはまったく議論されなかったのは明らかだった。
ソフィアへの政治的な攻撃を言い訳の材料にし、挙げ句の果てに職務怠慢と罵る。
いかに体面を損なわずに断るか考えていたら、丁度いい噂話が聞こえてきたから飛び付いた――
そんな推論に辿り着いた彼女の機嫌は、この数年間で最も悪いと言ってよかった。
しばらく苛立たしげに手紙を眺めていた彼女は、家路を急ぐ鳥の声に顔を上げ、すでに日が傾き、部屋が薄暗くなっていたことに気が付く。
とっくに仕事をする気は失せていて、瞼を閉じるまでもなく滑らかな赤ワイン――モニカの父から届けられた偉大な作品と、夏の日差しで甘さを増した野菜、神殿領の貴重な土地を費やした、濃厚な風味の牛肉が目に浮かぶ。
公邸に使いを出し、厨房を急かして一刻も早く食卓に座りたいとすら思ったが、モニカが今日戻る予定だったと思い出し、必死の思いで踏みとどまった。
燭台の蝋燭に火を灯し、食べ物から頭を離そうと言語学研究室の報告を読む。
気を逸らすべく、王国語方言における民族語の影響の研究に手を伸ばしたが、うっかり調理方法の語彙の地域差に関するものを読んでしまった。
恥じらいのない腹部の唸り声を聞いて後悔しているところへ、控えめに戸を叩く音。
現れたのは表情に憂いを帯びた可愛らしい赤毛の侍従と、黒のローブに白い縁取りを施した中年の太った女。
「ただいま戻りました、猊下」
「無事に戻ったようで何より。そちらの方は」
客人の名前はわからなくとも、ローブの白い縁取りが彼女の身分を告げている。それでも、ソフィアは一応の礼儀として問いかける。
「猊下、こちらは王室法廷の査問官、マルタ・ダルバ様です」
モニカの紹介を受けたマルタは、重い体の割に洗練された足取りでソフィアへ歩み寄る。そしてカバンから油紙の封筒を取り出すと、中身をソフィアへ広げて見せた。
紙面には流麗な手書きの文字が綴られ、王国の象徴たるナラの木の葉を象った印と、ミネルウァ神を象った印が捺されている。
「国王陛下とミネルウァ神殿の教主聖下より任を受けました、査問官マルタ・ダルバです」
「ミネルウァ神殿アウスティア教区の大神官ソフィア・エスコフィエです。こちらへはどういったご用件で?」
ソフィアは見たい顔ではないと思いながらも、粗略に扱える客ではないことも理解していた。
査問官は、何も問題のない所には現れない。
彼女は己の教区で何か重大な違反があったかと考え込む。マルタは首を傾げるソフィアに、無表情で来意を伝えた。
「猊下、私は横領及び職務怠慢の疑義ありとして、猊下の査問を命じられております」
「私の?」
思わぬ答えに思わず笑いを漏らす。
「まさか、私が傭兵を使って私腹を肥やしている、とかいう妄言についてですか?」
「妄言かどうかは、これから私が判断します」
「あなたが、なるほど」
ソフィアは肩をすくめ、神殿の悪癖を詰め込んだような人間だなと腹の中で悪態をつく。
傲慢で、高圧的で、己の権威でいくらでも道理を曲げられると思っている、随分と質の悪い人間が立派な地位にいるものだ、と。
マルタはソフィアの悪意に満ちた視線を意に介さず、査問官として必要事項を伝達する。
「査問会は明後日午後一時より議事堂にて行います。ただ今より査問が終了するまで、猊下の行動には監視が付きます。他者との接触は最低限とし、私の許可が必要です。身柄は神殿内に留置とし、公邸へは戻れません。私が査問官の権限の内で指示した事項に従わない場合、規定に応じた罰則がございます」
マルタが口を閉じると同時に、執務室の扉が開く。黒い上衣に赤いズボンの兵士を伴い、ローブを纏った軍監のマテオが部屋に入る。ソフィアに敬礼するその表情は、困惑と申し訳無さの混ざった複雑なもの。
ソフィアは軽く手を上げて答礼すると、立て筒の姿勢で硬直する兵士を帽子の飾りから爪先まで眺め、規律が生きていることを確認してからマテオに顔を向けた。
「ご苦労。責任重大ね」
「はっ。鋭意努めます、猊下」
軍監は敬礼から姿勢を直し、直立不動で言葉を返す。顎を引き、己の上司、異例の出世を遂げた軍の花を直視する。
「結構。楽にしてよし」
部下が体を緩めるのを横目に、ソフィアは顔にも腹にも脂肪の乗った査問官へ向き直る。ここの主が――少なくとも暴力を支配するのが誰かわかったか、と口にしたいのを、最大限に理性を働かせて抑え込む。
「査問官殿、身辺の雑事にこのモニカ・マルゴーを置いておいても?」
「侍従ですか。まぁ……いいでしょう」
「それと」
蝋燭の火が揺らぎ、一瞬の暗転。
「これは誰の申立てによる査問でしょうか。まぁ、想像はつきますが」
「それは規定上お答えしかねます」
あくまで事務的なマルタの顔を見て、ソフィアはそうですかとだけ返す。
「では、私はこれで失礼を」
無表情を貫き通したマルタを見送り、軍監のマテオに声をかける。
「何人監視がつくの? 別に逃げないけど」
彼は音を立てて踵を合わせ、背筋を伸ばす。
「一個小隊を周囲に置かせて頂きます。ご理解ください、猊下」
「職務に忠実で結構。さて……モニカ!」
「はいっ!」
赤毛の侍従はぴくりと跳ねる。
「あなた夕食は? 宿舎暮らしよね」
「え、はい、まだです」
「一緒にどうかしら、残念ながらこの部屋でだけど、食べながらリートゥスデンスの報告を。ここの厨房に用意させましょう。終わったら馬車で送らせるわ、幸い護衛も豊富だし」
「よろしい……の、ですか?」
「えぇ、何か予定があったかしら」
「いえ、珍しいなと。喜んでお供します」
「め、珍しい?」
ソフィアは思っても見なかった反応に面食らいながらも、机の上を片付け始める。
モニカが慌てて手伝おうとするが、危うく水差しをひっくり返しそうになり、ソフィアに睨まれて手を引っ込めた。
「まぁ……いいわ。明日は時間も取れないだろうから、報告は詳しくね」
「あの、今晩も忙しいのではないですか? 何かとご用意があるのでは」
不安げな顔のモニカに、ソフィアは苦々しい顔を向ける。
「そりゃぁね。でも、今すぐできる有効な手立てがない。ニセの証拠の一つや二つ仕込まれてるかも知れないけどね、今下手なことをすれば、かえって怪しいでしょ。ま、査問の対策は明日ゆっくり考えるわ」
椅子に座りゆっくりと伸びをするソフィアを見て、モニカは羨ましげに溜め息をつく。失敗を極端に恐れて体が強張り、それが失敗を招く彼女からすれば、ソフィアの性質は本当に羨ましいものだった。
「どうしてそう、落ち着いていられるのですか? 私はもう怖くなってしまって」
「怖いって、あなたの査問じゃないでしょう」
「それはそうですが……あの典礼長が仕組んだなら、厄介ですよ?」
「私はね」
ソフィアは下を向いた侍従に声をかけ、にっこりと笑う。
「絶対殺してやろうって思うと頭が冴えて、気持ちが落ち着くの」
翌朝、ソフィアはすっきりと冴え渡った頭で査問会の流れを想定し、対策を練っていた。
数年振りに長椅子で寝る不便を強いられたが、適温に冷ました紅茶は、すぐに頭をはっきりとさせてくれた。
明日の査問会の内容次第では、即座に大神官の地位を失いかねない。
多少答弁が上手くいってその場での処罰は免れても、失点が多ければ遠からず代わりの大神官が据えられるだろう。
というよりも、後者こそ最も周囲が期待する結末だろう――とソフィアは思う。
バルカルセ家の問題を失点なく処理しきれる者などいはしない。当面の難敵のバルカルセ家と共倒れに彼女が退場すれば、代わりに出世を望む者には都合が良い。
彼女は権威の失墜の足音に少なからず恐怖と焦りを覚えたが、この事態を招いたであろう男への殺意にすり替え、戦場にある時と同じように集中力を高めていた。
退屈慣れした侍従と兵士達は、ソフィアの指示がない間は見事に静寂を保っている。そこでは彼女が紙にペン先を走らせる音だけが聞こえていたが、突然、窓際にいるモニカが声を上げた。
「どうしたの」
尋ねられたモニカは、窓の外に顔を向けたまま答える。
「本山からの使者です」
「また?」
ソフィアも立ち上がり、窓辺へ寄る。見下ろせば騎兵を従え、紅白の格子の旗を携えた騎馬の神官が広場にいる。よく見ると、査問官マルタ・ダルバがそれを出迎えている。
「我が物顔で使者の出迎え、気に入らない」
「一体何の用でしょうか」
「どうせ、私には面白くない話でしょ」
ソフィアは机に戻り、再び対策に没頭する。結局使者が執務室に来ることはなく、想定問答の紙束はいつしか相当の量になっていた。
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