第17話 怖い人、嫌な人、かわいい人-Ⅱ-
薄い麻の服はなんて着心地がいいんだろう、なんでいつもこの暑い中でローブなんか着てるんだろう、と心の中で問いかけながら、モニカ・マルゴーは書架の間をゆっくりと歩く。
ローブのせいで熱気が溜め込まれることもなく、体中の熱が直に発散されていく。
なんの面白味もない黒いローブではなく、白麻のブラウスに明るい灰色の胴衣を着、淡い空色のスカートを揺らして歩く。
明るい色の服を着たのは何ヶ月前かと数え、あまりにも長い間神殿の中に閉じこもっていたことに驚いた。
別に遊びに来たわけでもないのだが、外の街の空気はなんとなくはしゃいだ気持ちにさせる。
朝鏡を見ていると訳もなく嬉しくなり、何年か前に大教堂で戯れに贈られた、琥珀の耳飾りまで着けてしまった。
色鮮やかな軽い服を着て出歩けるだけでも、わざわざリートゥスデンスまで来た意味があった――そんなことを考えながら、彼女は家業であるワイン醸造の本を手に取り、目立たぬように端の方の席に腰掛ける。
リートゥスデンスの図書館の様子を探ってこい、そう命じられた時にはさすがに驚いたが、久々に触れる潮風や露天の食べ物の匂いは、彼女に新鮮な喜びを与えていた。
港と街道からあらゆる物が流れ込み、道行く人の訛りも服の意匠も肌の色も雑多に混ざり合っている。皆同じような色の服を着て同じようなことを話す神殿とは、感じる空気が違う。
モニカから見れば彼女の主、聖賢なるソフィア・エスコフィエ大神官猊下は経歴や出身階級こそ異色だが、神殿というものの成分を凝縮したような人間だった。
知的で、探求心があり、傲慢で、無意識に他人の上に立つ。
モニカがどうしても馴染めなかった神殿で生きるための強さを、彼女はすべて持っている。
大教堂を出て神官になったものの、薬学者として成果が出せず、半ば観賞用として前任の大神官の従者に選ばれた。
そんな身としては、一日中彼女に付き従っていると、上手に真似できなかったお手本を常に見せつけられているようで息苦しい。
その息の詰まる神殿と比べると、リートゥスデンスは随分と鮮やかで開放的だ。
きっとそれは気のせいで、もしリートゥスデンスで暮らせばすぐに周りの人間がお手本になり、同じような息苦しさを抱えてしまう。それがわかっていても、比較対象のいない明るい港町で、彼女の心は軽かった。
モニカは本に目を落とし、せっかく取ったのだからとページをめくれば、内容は古いが、ワインの製法が分かりやすくまとめられていた。
子供の頃収穫の手伝いに行ったブドウ畑を思い出し、郷愁に駆られながら読み進める。
程々に読んだ所で自分の役目を思い出し、蔵書の充実ぶりを確かめようと立ち上がる。建築、金属、薬学と順番に書架を巡っていると、急に後ろから手を引かれた。厄介な男だったら嫌だなと思いながら振り返ると、彼女の手を引いたのは日に焼けた肌の少年だった。
彼は目をそらしてひとしきりもじもじとした後に、手に持っていた本を差し出す。
「あの、えっとね、難しい本は読める?」
モニカは図書館で本が読めるかとは変な質問だと思い、ここが図書館というにはあまりにも話し声で満ちていることに気付く。
本が難しくて読めない人間は神殿には存在しないが、ここは教育のある者とそうでない者が共に訪れ、連れ合いに読んで聞かせているのだ。
「何人かお願いしてみたんだけど、難しくてわからないって」
モニカはその場でしゃがみ、少年と目線を合わせてやる。
「どれどれー、何の本かな?」
表紙を見ると、基本的な薬草についての本だった。そう難しくはないはずと思ったが、何ページか目を通し、読めないのも無理はないと納得した。
渡された本は薬草の名前や専門的な用語が口語の発音とかけ離れた古典式で綴られていて、地方の教堂で学んだぐらいで読める物ではない。
著者を見ると、どうやら東方の小国の学者がわざわざ王国語で書いたらしく、随分と学のある人がいるものだと感心する。
感心して――自分と比べそうになるのを感じ、意識を少年に引き戻す。
「これなら読めるけど……誰か病気なの?」
少年はモニカの顔を見たり目をそらしたりしながら、父の腰の調子が悪く、何か対処法がないか調べに来たのだと答える。
腰、痛み、と必要な言葉の綴りを覚え、それを頼りにこの本に辿り着いたという。
「立派だね。お父さんは転んだとか?」
「そう、転んでぶつけた。いつも塗ってる薬も効かなくて」
「それの材料はわかる?」
「うん」
少年の話を聞く限りでは、普段の薬は随分と効き目の弱い物だった。彼の周囲の大人達も、それしか知らなかったのだろう。
しゃがんだまま本をめくり、自分も知っている軟膏のページに行き着く。彼と一緒に机に戻るとカバンから紙の端切れとペン、インク壺を取り出し、簡単な綴りで材料の名前と一回分の量を書き出した。薬草の名前の横には、簡単な絵も描き加える。
「これならもっと効くはずだよ」
紙を少年に渡し、材料の読み方を教える。少年はなんども発音を繰り返し、つっかえずに読めるようになると礼を言って、嬉しそうに出口へ向かって行った。
少年の背中を見送ったモニカは、街中に図書館があると便利だなと、あらぬ思いを抱く。
これ程の街だから専門の医者も多くいるだろうけど、お金もかかるし、順番も待つ。こうして皆が自由に調べ物ができたら――そんな所まで考えを巡らし、己の立場を思い出す。
自分がこんなに安穏と暮らしていられるのは、神殿が強い立場にあり、そして自分が神官だからだと、彼女の中の後ろ暗い部分が囁きかける。
大して多くもない持参金と共に、好きでもない貴族や商人に嫁ぎ、出来の良い飾り物として特に意味のあることはせずに日々を過ごす。
その分かれ道は見えないことにし、神官として図書館の調査を始めた。
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