第16話 怖い人、嫌な人、かわいい人-Ⅰ-
温暖な海に囲まれた南部の夏は、太陽が出ている限り暑さと湿気が全身に纏わり付き、時折思い出したように凶悪な雷雨が襲い掛かる。
石造りの堅牢な建物は夜の冷気を閉じ込めるが、時が経てば、昼の熱気と入れ替わる。
蒸し風呂と変わらぬ熱気の中で働きたい人間などいるはずもないが、しかし、ソフィア・エスコフィエを筆頭とするミネルウァ神殿アウスティア教区の神官達は、いつにも増して勤勉であった。
祭祀を司る神の従者達は、秋の収穫祭に向けて忙しなく動き回る。
だが、神官達を仕事へと駆り立てるのは、神を讃える祭を成功させんとする信仰心ではなく、収穫祭に伴って行われる神官の査定。
己の働きを信ずる者はその評価を固めるために、至らぬ結果を憂う者は失地回復の誓いを胸に、皆それぞれの死力を尽くす。
力の尽くし方は様々であり、与えられた職務を全うする物もいれば、他者を貶めてあの者と比べればまだマシという、情けない評価にありつこうとする者もいる――
大神官であるソフィアその人は、開書派貴族との争いが激化しているというのに、思わぬ所からの攻撃に頭を悩ませていた。
それは、アウスティア教区はソフィアが大神官に就任してから途端に治安が悪くなったという悪評と、傭兵の管理が適切にされていないのではないかという疑念。
そしてそこから派生した、ソフィアがならず者と結託して略奪品で私腹を肥やしているのではないかという、悪質な流言。
始めはバルカルセ家に対する攻撃が曲解されたものかと思って説明を試みた彼女だったが、すぐに事の真偽はどうでも良く、ただ彼女を攻撃する材料として使えるがゆえに、噂が囁かれるものと理解した。
学者筋でもなく立法院出身でもない、年の若い戦争屋。神殿は学問の城であり昇進に男女が問われることはないが、それだけに経歴と年齢でより一層目の敵にされる。
本来地べたを這い回り、金を稼ぐだけの軍人に上に立たれることを恨む学者から、若輩に好機を奪われ嫉妬に狂う軍の先任まで、どうにか彼女の上に立とうとする者は多い。今日もまたいつものように、部屋の片隅、廊下の曲がり角、木の扉の向こう側から粘着質の囁きが聞こえてくる。
そして彼女は、いつものように面の皮を厚くして石造りの廊下を闊歩し、執務室へ向かう。
巨大な神殿の中でソフィアの言うことに素直に耳を傾けるのは侍従のモニカぐらいだが、彼女はこの状況にむしろ快感すら覚えている己を発見し、驚きつつも納得していた。
虐げられて悦んでいるわけではない。
妬みに塗れた陰口を耳にする度に、口には出さないが、金持ちの甘ったれた糞ガキども、私がそんなに羨ましいかと、薄暗い喜びが込み上げる。
農村で生まれ、傭兵に襲われ、孤児院での暮らしの後は、富裕層の師弟に囲まれて、己の貧しさと彼らの輝きを見比べながらの暮らし。
幼い頃から見上げて羨むばかりだった階層の人間から妬まれるとあれば、それは当然嬉しいはずだ、と彼女は結論付ける。
しかし、喜んでばかりもいられない。
目立った成果を出せぬまま悪評ばかり先行すれば、折角手にした大神官の地位を失いかねない。
そうなれば、栄光に満ちた紅の衣を手放さなければならない。思い浮かんでしまった悪夢に、思わず顔をしかめる。
折り悪く、執務室の前に立っている男、熱心にソフィアの没落を願う初老の男が視界に入る。
典礼長ベニート・ルッチ。礼拝や祝祭の具体的な段取りの責任者である典礼長の立場は、大神官に次いで高い。
普通は大神官になれば意地でも自分の子飼いに典礼長の座を与えるが、軍団長や軍監時代の部下がいきなり儀式の段取りをできるはずもない。
そして、どの派閥からもソフィアに取り入ることは好ましくないこととみなされ、あえてベニートに取って代わろうとする者もいない。
そんな中でベニートは仕事はよくこなし、部下もしっかりと管理している。
だから特に配置換えはせずにいるが、ソフィアとしては間抜けそうな丸い鼻と、人を馬鹿にしているような丸っこく見開いた目が気に入らない。
なにより、積極的にソフィアの威光を傷つけようと動き回っていることは周知の事実だ。
「典礼長、なにか約束が?」
ベニートの所々黄ばんだ目がソフィアを捉え、にったりと慇懃に笑う。
「いえ、猊下。突然お邪魔して申し訳ございません。実は収穫祭の人事の件でご相談が」
「そう。いいわ、入って」
モニカが扉を開けて押さえている間にソフィアが足音高く部屋に入り、少し背を丸めたベニートは一瞬だけモニカの豊かな胸の辺りに視線を流して後に続く。
ソフィアは先に応接用の椅子に座り、向かい側の椅子を勧める。椅子に腰掛けたベニートはその造りの良さを楽しむように肘掛けの先を何度か撫でてから、手に持っていた封筒を差し出した。
「収穫祭で儀式を担当する神官の名簿です。正式な通達の前に、一応ご相談にと思いまして」
ソフィアは一応という言葉に苛立ちを覚えつつ、名簿を受け取り目を走らせる。
ベニートの考えている通り、ソフィアは軍に関係しない神官の事情にはあまり通じていない。
学者筋で祝祭の経験も豊富なこの男の提案を却下したとして、代案が出せるわけでもない。
一応見せておけ程度の扱いでも、収穫祭の実施には特に支障がない。それは彼女もよくわかっていて、非礼を咎める言葉を胸の奥にしまい込む。
だが、神に捧げる酒を注ぐ大役に目障りな名前を見付け、思わずその名を口走る。
「ジャン・マリッツ」
「猊下、何か気がかりなことが?」
そういえば――と、ソフィアは丸い瞳で顔色を窺う男の経歴を思い出す。少しばかり古い油のような匂いのするこの男は、金属加工研究室の古き長であり、マリッツの才能を見出して引っ張り上げた人物でもあった。
もう一度名簿に目を通すと、その半分近くはベニートと縁故のある人物で占められていた。
「いいえ、別に。儀式に通じた友人が多くて羨ましい」
「えぇ、はい。友人に恵まれた幸運に日々感謝をしております」
ベニートが浮かべた朗らかな笑みを見て、瞬間的に、ソフィアの頭に血が上る。
大神官の威光を畏れず、一切悪びれずに嫌味を受け流されたことで、権威を見せ付けることへの欲求が膨れ上がる。
「結構ね。ところで、三年以上連続で収穫祭を担当しているのは誰? 名前の横に印を付けて」
ベニートは突然口を挟む気配を見せたソフィアに身構えながら、卓上に置いてあったペンをインクに浸し、該当する名前の横に印を付けていく。
「あまり特定の人間に経験が偏るのも好ましくないから、その半分を入れ替えて」
「半分ですか、いや、しかし……」
「入れ替えて。常に滞りなく儀式ができるように備えるのもあなたの仕事でしょ? 典礼長」
黄ばんだ目を睨みつける。逸れた視線に勝利を感じ、ソフィアは小さな満足を得る。
「わかりました、そのように」
目の前の男の渋い顔を眺めて、茶なんぞ出してやらなくて良かったとほくそ笑む。
「三日ぐらいでできるかしら」
ベニートは背を丸めたまま、彼女の指示を承服する。彼女は話は終わったとばかりに老人を追い出すと、上機嫌で二通の手紙を書き始めた。
一通はリートゥスデンス伯を禁書法を軽んじ不当な利益を得る逆臣として、王室法廷の裁きを求めるもの。
もう一通は、本山に軍の派遣を掛け合うもの。
それぞれの草案を紙に書き付けながら、皿に積まれた焼き菓子をつまむ。口に入れてすぐは機嫌の良さそうな顔をしていたが、だんだんとその表情が険しくなっていった。
部屋の隅に控えるモニカは、主の表情の変化を察知して、不安げにその顔を見つめる。
「……もそもそする」
「へっ」
ソフィアはむりやりに焼き菓子を飲み込み、恨めし気にモニカを見た。
「水を。口の中がもそもそして美味しくない」
「た、ただいま」
慌ただしく水差しに駆け寄る従者の背を見て、考え込むように顎に親指を当てる。水の入った磁器が机に置かれるのを見て、彼女は可愛げのある従者に向けてにっこりと微笑む。
「そういえばモニカ、あなたしばらく神殿から出てないんじゃない」
「へっ、まぁ、はい。そうですね猊下、冬からずっと出てないです」
「そろそろ飽きない? 賑やかな所が恋しくなるでしょ」
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