第15話 シモーヌの献策

 張り紙、劇団、吟遊詩人、町の居酒屋の馴染みの客から金持ち相手の遊女まで、バルカルセ家は噂をばら撒き、みんなの声を作り上げる道具立てには事欠かない。

 伯領リートゥスデンスは初めて本に触れた歓声と、さらなる学びを求める声で溢れていた。

 人々が本、そして新たな教育に興味を持ったことは事実。そして、その意見は繰り返し発せられる、単純な分かりやすい大声で強化される。

 本は良き物。皆で学ぶことはさらなる豊かさへの道。そうした声は街の中で何倍にも増幅され、ついには市壁の外へも響き渡る。

 本当なら、その首謀者は上機嫌であるべき所。

 だが、本を本をの大合唱の指揮者たるリートゥスデンス伯サカリアス・ファン・バルカルセは、居城の中で背もたれに体を預け、悪天候の苛立ちの中で極めて不愉快な報告を聞いていた。

「納入停止? 北東からの? 何故そんなことになるのだね。シモーヌ・ヴァレリー、貴様、契約を知らぬ蛮族とでも取引したか」

 世論形成の首尾は上々、領内の各階層の支持は十分に強固。商人や巡業する劇団を通じてその熱気は近隣の市民層にも伝わり、他家の所領にもバルカルセ家への支援を試みる富裕な商人や職人を獲得。

 この流れのおかげで、南部貴族の全体的な空気はバルカルセ支持に傾きつつある。

 火力、練度共に優れた神殿との戦闘を想定した訓練も繰り返し行われ、馬も買い足し、倉庫も整備し、神殿領までの行軍も視野に入れた輸送計画も作成し、軍用の金属製品の製造もいよいよ軌道に乗り始めた。

 その矢先、いよいよ燃料と食料を動員すべき時を狙ったような悪い報せ。

 妨害を乗り越えて運び込んだ木材と小麦は、リートゥスデンス城を経由して広大な領内の拠点――トリフルーメン城、アロニア城、コリサルビア城に分配された。その後、シモーヌは輸送経路に改良を加えた上で、三回目以降の輸送を他の業者に委託していた。

 委託は彼女としてもあまり好ましい選択ではなかったが、輸送すべき物量が増える中での苦肉の策。週に一度の出荷に合わせて長距離の輸送隊を出すには自前の馬車ではとても足りず、付き合いのある業者を最大限活用する必要があった。

 ようやく安定供給できるかという所でシモーヌにもたらされたのは、輸送業者から違約金と共にやってきた契約解除の報せ。それはいずれも道中の襲撃の多さを嫌うもの。

 当然シモーヌも引き止めにかかり、値上げに応じる姿勢も見せた。しかし、返ってくるのは詫びと今後の無事を祈る声ばかり。

 自前の人員を増やすにも時間がかかり、かつリートゥスデンスでなければ起き得ない問題――豊かであるがゆえの人材難が起きていた。

 危険と苦労の割に稼ぎが少ない――他の街であればありえない評価だが、リートゥスデンスにおいてはそれが成立した。

 襲撃を受ける回数と収入が急増する中で、シモーヌは商会員の賃金を上げ続けた。それとほぼ同水準での募集に対しての反応が、割が悪いというもの。

 他の街であれば、発展していたとしてもそれは一つ二つの産業によるもので、頑丈な体を持ちつつ貧困に喘ぐ者はいくらでもいる。

 しかし、リートゥスデンスの異様な生産と流通は恐ろしい程の人手を必要とし、シモーヌの募集を相対的に割の悪いものにしていた。

 リートゥスデンスにも職にあぶれた浮浪者は存在するが、彼らはある意味で善良で穏健な人々、傭兵野盗の類を嫌う者だった。彼らに与えられるだけの余剰と、余剰を与える優しさのある街で、わざわざ身を危険に晒す意義を持てなかった。

 皮肉なことに、そこにサカリアスの宣伝戦の成功が追い打ちをかけた。仕事の規模が大きくなるにつれヴァレリー商会がバルカルセ家と繋がりを持つことは知られていったが、宣伝の成功は、ヴァレリー商会の仕事と神殿との物理的な衝突を容易に結び付けた。

 皆領内での作業や物資の調達ではシモーヌのために便宜を図ったが、市壁の外での協力は徹底して拒んだ。志は立派で共感もすれば協力もするが、危険な事はどうかそちらでやってくれ。そんな声が街の空気に溶け込んでいる。

 そうして、手を尽くすも有効打を打てなかったシモーヌの時間切れとなり、伯の御前に単身で赴き、最もしたくない報告をするに至った。

 明らかに機嫌を損ねたサカリアスの威圧的な視線が、シモーヌの内臓をきつく締め付ける。

「それで、どうするつもりだ」

「どうにか、輸送費の値上げをお認めください」

「ほう? 上げて、その後どうする」

「増員の原資に致します。閣下の領地の外からも人を集めるのに必要です」

「どれくらい上げろと言うのだ?」

 シモーヌはさらに頭を低く垂れ、口を開いて肺に空気を送り込む。

「五割増しとさせて頂ければと」

 息遣いと窓を打つ雨音だけがかすかに聞こえる。サカリアスが険しい顔で手元の紙に数式を書き付けると、鉄のペン先が紙の繊維に擦り付けられ、硬質な音を立てる。紙に乗せられたインクの色は青から黒へと移ろう。

 紙にインクが定着し、シモーヌの要求が割に合わないことをはっきりと主張する。

「私の見る限りでは」

 話は終わりだとばかりにペンが置かれ、書き付けは脇に退けられる。

「その金額なら船でまとめて運んだ方がマシだ。それに、海の上で好き好んで私に喧嘩を売る者はそうおらん。なに、立ち去れとは言わんよ。荷揚げしてからの輸送は貴様に頼もう」

「恐れながら……どうにかそれだけはご再考頂けないでしょうか。あるいは、何か他のことでお役に立てれば」

「私に何か考えさせる材料があるのか」

 暫しの沈黙の後、シモーヌが口を開く。それはかつて検討したが、物流効率と荷の安全性が落ちるため伯への提案には至らなかった計画に、ひとひねり加えたもの。

「まず、ここで新たに名前の異なる商館を立ち上げ、閣下に認可して頂きます。そして、閣下の朋友の所領を通過する輸送経路を改め、中立的な貴族の所領と神殿領を中心に通過します。荷を運ぶのは、新しい商館の名前で」

 不機嫌に、ふんぞり返って椅子に座っていたサカリアスが姿勢を変えたのを確認し、シモーヌは説明を続ける。

「そして言い触らして回るのです。大神官が代わってから治安が悪くなった、おかげで道中が危険で困る、金を渡せば野盗は立ち去るが、その金はきっと大神官の懐に収まっている、と」

 伯の指先が軽く机を叩き、爪と木がぶつかる硬質な音が響く。

「古典的で分かりやすい策だが、有効性は?」

「騙せなくとも良いのです。ソフィア・エスコフィエは軍事的な手腕で上り詰めたとか。間違いなく優秀なのでしょうが、高位の神官としては異端です。それゆえ、彼女に難癖を付けたい者は多くいるはず。神殿の外で彼女を悪く言う者がいる。彼女を妬む者達には、それで十分です」

 サカリアスは湿気で垂れた髪を掻き上げる。

「見え透いた嘘でも真実として扱われる、か。効果なしと思ってそこまではやらずにいたが……まあ、貶める口実を与えられれば良しとしよう。よし、やってみろ。木材と小麦は船を中心に据えるが、貴様は困らんだろう」

 意図を探るようなシモーヌの表情を捉え、小さく鼻を鳴らす。

「ただの船商人の下請けはしたくないのだろう? 運賃以上の金は取れんし、短距離輸送に人を割いている間に、他の商館に客を取られかねん」

 仰る通りと頭を垂れるシモーヌを横目で見据える。指先は卓上でペンを弄ぶ。

「運賃ではなく宣伝活動の報酬として金をやろう。ついでの商売も好きにしろ。ただし、そもそもの物資運搬は手を抜くなよ。城の周りの補給路も大事だからな」

「ありがとうございます」

 再び頭を垂れた所に、話が落ち着くのを見計らったように扉が開かれる。

 現れたのは、瞳と同じ明るい緑の衣裳に亜麻色の髪を垂らした、細身の貴婦人。

 端正な顔立ちに指輪の台座や服、首飾りの鎖の控え目な意匠が、かえって宝石、生地、金鎖の質の良さを引き立て、濃密な、凝縮した金の匂いを撒き散らす。

「イサベルか」

 サカリアスが声をかけると、彼の妻であるイサベルは微かな衣擦れの音を立てて夫へ歩み寄り、静かな割に良く通る声で朗報を告げた。

「お話中失礼。良い報せよ、サカリアス。テレサの縁談がまとまったわ。先程カンプサウルム伯の使者が文を」

 瑞々しい唇から溢れるのは、娘と神殿寄りの大貴族の名。サカリアスは妻の方へ体を向け、口元だけでかすかに笑う。

「ようやくか。結婚するのは長子だな?」

「えぇ、長子のダリオ。いささか色に溺れがちだそうだけど、色狂いの扱い方なら十分に躾けてあるし、かえって都合が良いでしょう。あの子はフィオナのような指導者にはなれないけれど、そういう役割なら十分に」

「小領主共も酒宴の度にテレサを一目とうるさかったな……あとは姉妹喧嘩でもしないように祈るばかりだ」

「くだらない芝居の筋書きと言いたいけど、よくあることね。まあ、あの子は別に何者になりたいという訳でもないし、嫁ぎ先の格と収入に満足すれば大丈夫よ」

 イサベルは安堵する夫を満足気に眺めていたが、重要な案件をふと思い出す。

「あら、そうだ……使者のおもてなしはどうしましょう。とりあえず白ワインを出したけど」

「それはいかん。そうだな、まず居室を手配して、茶と甘い物でも運ばせろ。晩餐の準備ができたら食堂にお連れするようにしてくれ」

「メイドがお茶を持って行くとき、一人ずつ兵を付けてもいいかしら」

 妻の問いに、サカリアスは思案顔になる。

「構わん。彼らの浅ましからんことを願うがね」

「それと、今度の晩餐会のお誘いへの返事がこちら。中々愉快になる名前が並んでいるわ」

 イサベルが差し出した封筒の束を受け取りながら、思い出したように問う。

「男爵はどうだ」

「もちろん弟も。あそこの鉱山は好調というから、そちらも期待しましょう」

「鉱山、か」

 少し明るい顔をして背を椅子に預ける夫を見て、彼女はさらに愉快な話を切り出す。

「えぇ。ところで、さっき神殿の甥から届いた手紙で、面白い話が」

 イサベルは浮いているかのように歩き、サカリアスの隣の椅子に腰掛ける。衣の擦れる音の他には音がなく、扇から焚きしめられた香が薫る。

「男爵の次男の神官か。なんと言ってきた」

「ソフィア・エスコフィエ、予想通り妬みの的になっているようで。随分敵の多いご様子」

「あの連中、学問には真摯だが、それ以外はな」

 サカリアスは手渡された手紙に目を落とすと、目を細め、口元を吊り上げる。楽しげに手紙を読み進めていたが、途中の一文で目が止まり、馬鹿にしたように鼻で笑った。

「なんとまぁ、甥御も中々研究熱心だな。できる範囲で質問に答えるから、手に入りにくい東洋の薬草が欲しいと。いいだろう、いくらでも買ってやるとも」

 イサベルは静かに笑いながら、扇で口を覆う。豪奢な扇の縁から、にやついた緑の瞳が覗く。

「あれは、思うように成果が出なくて焦ってるみたいね。懐も寂しいのでしょう。で、彼の室長は大神官猊下のことがお嫌い。本当は自分もそろそろ次の出世の頃だと思っていた所に、軍の、おまけに若い人間が先を越していったと」

「これぞ神の加護か。なら……シモーヌ!」

 突然矛先を向けられたシモーヌは、一拍遅れて返事をする。

「貴様の読みは悪くないようだ。聖賢なる大神官猊下の悪評を撒いて回れ」

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