第13話 策動-Ⅱ-
書簡が届いた二週間後、フィオナ・ロベルティナ・バルカルセは図書館に赴いていた。表向きにはリートゥスデンス公共美術館と名付けられたそれは、伯爵がワインの流通用に市街地に建てた施設の一部を改装したものだ。
そう巨大なものではないが、書架、長机、椅子を備えるには十分な広さがあり、採光も考慮されている。美術館と言う名目で設置されたため、絵画もいくつか展示されている。
やや内容には偏りがあり、最も目立つ場所には二百年前にバルカルセ家が王国側として参戦し、王国の南部支配を決定付けたトリフルーメン会戦の絵――自慢げに描かれた壮麗な重騎兵や、幾千と並べられた長槍と火縄式マスケットを構えた歩兵の絵が黄金の額縁に飾られている。
フィオナはその絵を眺めて、父の趣味――バルカルセの血脈に受け継がれる傲慢さを嫌でも意識する。そして父の驕慢な性質を嗤いつつも、あまりに堂々と描かれたその絵を観て満足気に緩んだ己の口許を発見し、自分もその血を引いているのだと自覚した。彼女の唇が、少しばかりつまらなそうに引き結ばれる。
フィオナは父の命令で、兄を差し置いて家督を継ぐ身となった。
彼女は、兄は決して愚かではなく、ともすれば思慮深く政治に向いている質とも思っている。それでも、ワイン造りにその身を捧げたような兄が、父のごとく支配者として君臨する姿は想像ができなかった。
むしろ家督を継ぐように言われたその日に鏡を見たら、馬の背で背筋を伸ばし、臣下や兵を見下ろしている自分が簡単に想像できてしまった。
絵を愛で終えた彼女が辺りを見回すと、館内は多くの人で賑わっていた。その盛況振りは再び笑顔を呼び戻す。
図書館開設の報せを受けた時には驚きもしたし、領民からの反応がどんなものか不安になった。蓋を開ければ、想像よりも多くの領民が学のある者と連れ立って訪れ、本の内容について講釈を受けている。
書架の空き具合を見るに、薬草の使い方や害虫、害獣の追い払い方に関する本が人気だが、中には金属の精錬や建築物の構造など、高度な内容の本を熱心に読んでいる者もいた。
領民の新たな知への欲求の強さ、そして本が読める程に読み書きのできる者の多さが、彼女をより笑顔にさせる。
彼女は父から自身の蔵書に加えて、本の開放に賛同する開書派の貴族やギルド関係者から本を掻き集め、更にヴァレリー商会に買い集めさせたと聞かされていたが、その甲斐があったものだと感心する。
全ての本には知を司る最高神であるミネルウァ神――まさしく神殿の奉ずる神が石版を持っている絵が、ページの枠として描かれている。何通りもの大きさの版木を作成して、どうにか短期間で印刷したらしい。
館内の様子に満足した彼女は、濃い紫の長いスカートを翻し、本来の目的地である館長室に向かう。廊下の奥の扉を開けると、机に向かって赤ワインを飲みながら紙束を眺める線の細い茶髪の男――リコ・エミリオ・バルカルセに声をかけた。
「優雅な午後ですのね、お兄様」
リコは顔を上げ、フィオナに向けて紙束を振って笑顔を見せる。
「よう、見てくれ、僕達のワインが去年の三倍売れたぞ」
屈託のない笑顔。ワインの売れ行きを心から自慢げに思っているのか、いやに背筋が伸びている。何か遊びが上手く行った子供のような笑顔を見て、思わず彼女もつられて笑う。
「それはそれは、おめでとうございます」
スカートを摘んで辞儀をすると、リコは顔をしかめて掌を左右に振った。
「やめてくれ堅苦しい。大体、家督は君が継ぐんだから、次代の伯爵閣下にそう畏まられてはね」
優しげな声で言いながら、もう一度ひらひらと手を振って見せる。
「おかげでワインに集中できるから喜んでたんだけどね、図書館の仕事が増えた」
「アロニア城主の仕事もおありでしょう?」
「まあ、僕がいなくても大丈夫だから」
リコは再びグラスを傾け、来意を問う。
「で、顔だけ見に来たわけじゃないんだろ?」
フィオナは手近な椅子を引き寄せ、浅く腰掛ける。深く息を吸い込んでから吐き出したのは、先日と同じ疑問ーー神殿を打ち倒した後の指針。
彼女の予想に反して、兄の返事は簡潔で素っ気無いもの。
「そりゃあ、神殿に教師役を続けさせるしかないよ。今よりも多くの生徒に対してね」
そう言い切って、再びグラスに手を伸ばす。
「お兄様もそうお考えで?」
「積み重ねたものが全然違うよ。新しい教師を十分な数揃えるのは無理だ」
ワインを口に含み、ゆっくりと飲み込む。その後に満足げな鼻息が続く。
「それにさぁ、神殿と不仲になりながらワイン作ってたら思い知ったけど、神殿はやっぱり凄いよ。そもそも、彼らの教育観はギルドの親方連中とはまるで違う。百年も前のやり方を誇らしげに語ったりしないし、猿真似を教育とは呼ばない。もちろん言葉にできない技とか感覚なんてものを喜びもしない。むしろ言葉と数式で表わせないことを恥じてる。親方連中を神官みたいにさせようと思って、かなり頑張ったよ」
リコはグラスを見詰める妹の視線に屈し、棚から新しいグラスを取り、ワインを注ぐ。
「それはご苦労なことですね。ん……美味しい、枯れた感じと深みがあって良いですね。色が少し茶色い」
フィオナは何口か飲み進め、目を閉じて余韻を楽しむ。彼女の顔を満足げに眺めていたリコは、小さいグラスに琥珀色のワインを注いで差し出す。
勧めに従ったフィオナの口中に、濃密な甘さと芳香が充満する。
「なんですかこれ、凄く甘い……」
「それは疫病にやられたブドウで、皮に細かい穴があいて萎れてたんだ。おかげで水気か飛んで味が濃くなっててね、どうにか再現する方法を考えてるけど検討もつかない。早く神官に研究させたくて困ってるよ僕は」
悪い冗談と共に肩を竦める。
「簡単に言いますけどね……」
苦々しげに口元を歪めるフィオナを見て、リコは小さく笑う。
「君がそんな顔するのは珍しいなぁ。ま、武力で最後まで押し切るのは無理だろうし、最終的には神殿に教育の対象を広げるよう迫るしかないさ。今まで膨らみ続けてきた王国の拡張も、もはや頭打ち。その内諸外国との競争になることは、彼らもわかってるはずだ。その前に教育の底上げが必要なんてのは、そんなに難しい話じゃない。だから、僕らは神殿と共に知の守護者になるのさ」
フィオナは神殿と共に、なんて軽く言ってのける兄の顔を凝視する。
「お待ちください、何を……お考えで?」
「何をそんなにびっくりしてるんだ? どうせ似たようなことを考えてるんだろ」
「まぁ、考えましたが……」
「南部の開書派貴族の先頭に立ち、神殿にその脅威を認めさせる。そのうえで、政情安定のために、南部貴族の筆頭格として神殿に取り込まれる。そうすれば領内では教育を普及できるし、バルカルセ家の権威も高まる」
リコの口元が妖しく歪む。
「井戸を持ってる我々が、火事を起こして水を売る。バルカルセ家の伝統だろ?」
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