第12話 策動-Ⅰ-

 外気から遮られた快適な部屋で、フィオナ・ロベルティナ・バルカルセはゆっくりと茶を啜る。

 東洋から輸入した茶器は西方の習慣に合わせて取手が付けられているが、絵柄は物好きの父の注文で、東洋的な渓流の側に佇む庵の絵に、読めぬが美しい形の文字で書かれた詩。

 透けるような白い磁器に引かれた青い線は実に優美で、買い付ける度に何度聞いても、製法について一言も話さないのが少しだけ憎らしい。

 六月に入り、少しずつ暑くなってきた頃。もうしばらくすれば熱い茶を飲むことも少なくなるかと思うと、フィオナはもう一杯茶を淹れさせたい衝動に駆られる。

 久々に思い悩んでおり、茶でも飲んでいなければうっかり酒に手が伸びかねない。そこまで頭を悩ませるのは、神殿の対処方針。

 誰もが本を手に取り、議論ができる。確かにそれは発展の基礎となるもので、現に王国の前身たる都市国家群はそれにより発展してきたのだ。

 そしてより多くの人を養い、より多くの人を救い、より多くの人に機会を与えるには教育の質も量も高めねばならず、本はその根幹だ。

 それなのに現在の神殿は、特権を維持する仕組みとしての性格を強めている。だからこそ、神殿による教育の制限は打破すべしとの父の考えもフィオナは十分に理解している。

 それでも、彼女には拭えない不安があった。

 神殿は確かに誰が何を学ぶべきかを制限し、教育者としての立場を独占している。

 しかし、その分知識は集積され、日々膨大な研究がなされている。

 そして教育者としては変質と堕落があったかも知れないが、研究組織としての神殿は実に健全。

 過去の研究に誤りがあれば躊躇いなく訂正され、成果を上げれば研究者としての地位を問わずに称賛される。

 しかし、あらゆる者が物を考え発信するようになれば、粗製乱造された学説もどきが伝染病のように飛び交う危険もある。

 今、熱が出る病を治そうとして裸で外に出る人間はいない。それは曖昧な経験からの行動でもあるが、医師達が皆暖かくして寝ていろと言うからでもある。

 そして医師の発言の向こうには、医学として確立された神殿の教育、医師と神官が共同で積み上げたいくつもの仮説と検証がある。

 学問の絶対的な権威として神殿が君臨することで、馬鹿馬鹿しい流言蜚語は一笑に付される。

 しかし、本の開放と同時に学問における神殿の権威まで失ってしまえばどうか。その状態でもっともらしく語られる嘘や誤りに対して、人はどこまで正しく対処できるのか。

 未知の病が流行し、薄着で外へ出て体を冷やせともっともらしく語る者が大勢現れればどうか。何が正しいか判別出来ぬ人々が、あらぬ行為に走ることも大いにあり得るのだ。

 そんな不安がよぎる中、フィオナは神殿に対する大戦略、神殿の軍勢を打倒したその後の道筋を見失う。

 血の滞った首筋をほぐしていると、扉を叩く音に続いて、レグルスとダーラーが顔を見せた。納品がてら兵站上の課題について話がしたいと言うので、フィオナがあらかじめ入室を許可していたのだった。

「ご苦労さま。今お茶を用意させるわ」

 努めて明るい口調で話しつつ、これ幸いと横に控えていた使用人に茶の準備をさせる。

「ありがとうございます、フィオナ様。早速ですが、始めてもよろしいですか?」

 ダーラーが商人らしい慇懃な仕草で伺いを立てる。許しを得ると、トリフルーメン城周辺の地図を広げ、立ったままで説明を始めた。

「商会の立場で申し上げることかと悩みましたが……いくつかの場所で護衛がいたとしても輸送隊が危険に晒される箇所があり、早急に防御陣地と常駐の守備隊をご用意頂きたいのです」

 レグルスはダーラーの真面目な顔を内心で面白がりながら、道中の景色を思い出す。護衛隊の責任者として、確かにここで襲われては堪らない、という場所がいくつかある。

 地図を見たフィオナはが漏らしたのは、数を減らせないかという問いかけ。

「正しいとは思うけど、常駐の守備隊を点在させるというのは、つまりは本隊の弱体化。これ以上の兵力の分散は、ちょっとね」

「ではせめて、監視塔だけでも置けませんか? この辺りは敵が侵入しやすいばかりでなく、見通しが悪い場所も多いのです。せめて、ある程度の部隊をすぐに送って頂く仕組みが必要かと」

「現状の監視体制では不足と?」

「いくつかの場所では。輸送の邪魔をするだけであれば、寡兵でも可能です」

 ダーラーの助けになればと、レグルスも口を添える。

「この近辺は狭隘部が多く、待ち伏せが容易です。馬で駆けられる場所も限られておりますので、我々の行動が読まれやすい地形でもあります。早々に異常を察知する体制は、間違いなく、補給線の維持に必要不可欠です」

 フィオナは手元の紙にいくつかの数字を書き付け、指先で眉間を抑える。

「そうね……無理とは言わないわ、どこまでできるか検討しましょう」

「ありがとうございます」

 フィオナは頭を下げるダーラーに笑顔を見せ、大きく伸びをする。

「疲れたわ……あなた達チェスは得意?」

「疲れた所にチェスですか」

「疲れたから気分転換よ、レグルス」

 レグルスとダーラーを交互に見やり、上手はどちらかと問いかけると、二人共自分が先手であれば負けぬと返す。

「じゃ、こうしましょう。二面打ち、あなた達が先手、一人でも私に勝ったら、そうね……ワインの樽でも持って行きなさい」

 二人は顔を見合わせ、口元を緩ませる。

「私が勝ったら……悩み事でも聞いて頂戴」

 フィオナが立ち上がると同時に、替えの青磁の茶器を持った使用人が部屋に入る。

「早いわね」

「丁度お湯を沸かしておりましたので。お湯を注いだばかりですので、少々お待ちを」

「そう。そこに置いたら、チェスの用意を」

「二面でなされるので?」

「えぇ」

「かしこまりました」

 フィオナは長机の席を勧め、腰を下ろす。チェス盤を手渡されると、手伝う隙もない程に手際良く駒を並べていく。

 駒を並べ終えてすぐ、先手を与えられたレグルスとダーラーは駒に手を伸ばす。それ程間を置かずに、後手のフィオナが駒を動かす。それぞれが盤の中央の支配を目論み、駒と盤の触れ合う音を不規則に発し続ける。

 途中使用人に注がれる茶によって一瞬の空白が生まれるが、三人ともほとんど口を開かず、その意識は盤上に釘付けられていた。

 レグルスが指す盤では開かれた空間での刺し合うような流れとなり、一方のダーラーは大駒を前に出し過ぎず、ポーンの前進を重んじている。

 対するフィオナは序盤の展開で出遅れたように見えたが、徐々に己に優位な位置関係を作り出す。

 手が進む内に巧みな指し手で駒損を強いられたレグルスは、駒数のある内にと挽回への焦りが生まれた。攻め手を失うことを恐れて機を窺うが、フィオナの隙のない指し回しに好機を掴めず、追い詰められるような敗北を喫した。

 数的劣勢から大駒の集中による突破しか選択肢がないレグルスの考えは、ことごとくフィオナに見透かされ、容易に対処されてしまった。

 ダーラーは手堅く足場を組むように展開していったが、駒同士の連絡を重んじるあまりに大駒が機動力を失い、フィオナが大駒の効きを要所に集中させたことにより、多くの駒を残したままの敗北となった。

「面白いわね、人間が出て」

 フィオナは茶を一口飲み、楽しげに笑う。

「レグルス。あなたはとても柔軟で頭の回転も速くて素晴らしいわ。ただ、論理的に見て明らかにその場面で最適な答えというのは、当然相手も考えて対策するものよ。模範的な攻撃で、とっても分かりやすかったわ」

 目を閉じて小さく伸びをし、彼女の身体が絶妙な曲線を描く。レグルスは思わず全身に目を走らせそうになるが、無礼が過ぎるぞと自制する。

「ダーラー。細かい計算の積み上げ方は本当に凄いのね。それに一つ一つの駒じゃなくて、全部で一つの生き物みたいに繋がってた。ただ……だからといって、あまり緻密な計画を立てると一つの間違いで総崩れ。野暮ったく見える手は嫌いかも知れないけど、柔軟さは残すべきね」

 ダーラーは完璧な笑顔を浮かべながら相槌を打っているが、レグルスは悔しさを隠しきれず、顔は笑っているが両の拳が強く握り締められている。

「残念だけど、あなた達のワインはなしね」

 明るい調子で話すフィオナに同調し、ダーラーも陽気な口調になる。

「実に残念です。しかし、柔軟さというところではフィオナ様にはまったく敵いませんねぇ、それとも軍の指揮をなされる方ならではの判断力があるのでしょうか」

 ダーラーはそう言いながらカップを鼻に近づけて香りを嗅ぐ。冷めていてあまり香りを発していない頃だが、まるで決まった型のように満足げな顔を作り、勢い良く飲む。

「では、幸運にもフィオナ様のお悩みごとをご相談いただけるとのことで……ワインと料理の組み合わせにお悩みでしたら、こちらのレグルスは中々良い提案をしますよ」

 軽い調子で話すダーラーにつられて、フィオナは明るい顔で本題に入る。

「それは素敵ね。でも、話がしたいのは」

 フィオナが足を組むとスカートの襞が美しく重なり、脚の形が浮き彫りになる。

「神殿の対処方針」

 二人が無言で顔を見合わせると、フィオナは言葉を付け加える。

「言い方が悪かったわね。正確には、神殿を打倒し屈服させた後の教育のあり方について」

 ダーラーは、難しいお話をされますねぇと言いながら横目でレグルスを見る。

 レグルスは大顧客からの難題に顔を強張らせながら、何か懸念があるのかと問いかける。

「えぇ、あるわ。そうね……レグルス、あなた熱が出たらどうする?」

 レグルスは突飛な問いかけに面食らいつつ、家で暖かくして寝ると答える。続いて同じ質問をされたダーラーも、全く同じ答えを返す。

「そうよね。それじゃ、ダーラー、あなたはなぜそうするの?」

「それは……まあ、医者は普通そう言いますからね」

「そうね。じゃレグルス、あなたが医者の言うことを信じるのはなぜ?」

「考えたことはありませんでしたが、そうですね、専門家として見ておりますので。医者でも間違える、知らないことがあるというのはよく知っていますが、それでも……その場で接する誰よりも、病気や怪我に詳しいでしょう」

「医者の知識を疑ったことは?」

 フィオナの切り込んだ質問に、レグルスは目を泳がせて言い淀む。妻の死をもたらした医者の不見識を目にした時、自分はどう思ったのだったかと、必死になって思い返す。

「伯爵閣下は我々をある程度の期間調べられていたようですので、フィオナ様であればご存知でしょうが……」

「一応ね。気分を害するようなら結構だけど」

「いえ、そうしたことは。確かに私は妻を病で失っておりますし、それは医者が治し方を知らなかったからです。本当は大きな街の医者に見せられれば良かったのですが、その時は僻地におりまして、急に悪くなったので仕方なく田舎医者に見せました。医者にしても職人にしても、金回りの良さそうな者は色々と物を知っているのですが、金のない者は新しい教育から取り残されているように見えます。そういう意味で、あの医者は二流だとは思っていました」

「それでも専門家だと?」

「はい。フィオナ様の前で申し上げるのも恐縮ですが、医者は医者になるまでも、なってからも、神殿の教育を受け、神殿と医者達は研究を積み上げて共有しています。仮に最新の研究に触れられない田舎医者でも、基礎知識は体系的に教育されています。対して我々は、病気や怪我については曖昧な経験則しか持ちませんので」

「つまり、神殿の教育を受けていることが医者に一定の権威を与えていると」

 レグルスが頷くと、フィオナは溜め息を吐きながら椅子にもたれた。悩ましげにひそめた眉と緑の瞳は憂いを帯び、考えすぎて血が上ったのかその頬の色は薄赤く、いつもの快活な雰囲気は感じられない。

「そう、それが私の悩み事。神殿を打倒し、人々が自由に知識に触れ、発信するまでは良い。問題は、神殿の権威が失われた世では、名を売りたいだけの人間が専門家ぶって戯言を発信することもあるだろうし、一体どれだけの人がそれを戯言と見破れるか疑問だ、ということよ。もちろん議論は活発化し、優れた思想、発想も多く生まれるでしょう。でも、その副作用として生み出される流言が、とんでもない害悪になるんじゃないか心配なの」

 フィオナは身を乗り出し、レグルスに問う。

「あなたは神殿の権威、つまり医者への教育の権威が失われた世界で、多くの人から熱を出したら薄着で外に出て体を冷やせと、何度も繰り返し言われる。聞きかじったことを親切心で、ろくに考えもせずに広める人々からね。そんな中で、あなたはそれがおかしいと思えるかしら」

 レグルスが無理だと答えると、フィオナは諦めたようにそっと目を閉じる。見かねたようにダーラーが丸めていた背を伸ばし、力強く、ゆっくりと話し始める。

「フィオナ様のおっしゃることはよく分かります。しかし、神殿の力が弱まったとしても、必ずしも人が迷うとは限りません。私の故郷は砂漠の商業国ですが……西からも東からも人が来ますから、本も学者も流れ込みます。それに貿易で生きているようなものですから、通訳も翻訳も盛んです。あまりに複雑な問題は意見が別れますし、研究に使う資源やそもそもその必要がないものは中々発展しませんが……医学や農学などは必要な上に常に実践されておりますので、知識の更新と普及は日々行われています。知識が流れ出した初めは仰るような混沌も生まれるかも知れませんが、民衆へも教育を普及させられれば、曖昧な権威者がいなくとも、身近なことであれば自分で判断できるようになりますよ」

 目を閉じてダーラーの力強い言葉を聞いていたフィオナは、自分との認識の差、自国と遠い砂漠の国の違いに複雑な表情を見せる。

「その通りだとは思うけど……研究教育の機関としては神殿だって研究の質も組織の規模も大したものよ。実際に初歩の読み書きと歴史の教育はかなり普及している。それでも神殿が知識を制限する方針を掲げ、今の所その狙い通りになっている。同じように大きな教育機関があるのに、なぜこうも違うのかしら」

 ダーラーはしばらく腕を組んで黙考する。冷めきった茶を一口飲むと、カップを置いて真っ直ぐにフィオナを見返す。

「一つは、私の国の学者達は神殿程の権力はありません。王に力が集まっておりますので、学者はあくまで学者です。もう一つは、まぁ……ロブリア王国は豊かなのでしょう」

「豊かさは教育の普及に資するものでは?」

 フィオナは首を傾げて再び問う。

「豊かとは何か、というのもまた難しいですが……そうですね、砂漠の国ではどうしても人を養うのが難しいのです。対して砂漠の外の国は水も土も豊かで人口が多い。そして、人口も生産も足りないとなると、いくらか戦上手であったとしても、そうした国に攻め込んで支配し続けるのは容易なことではありません。であれば、食料は国外から買わざるを得ません。そのためには、とにかく国外から少しでも多くの金を稼いで食料に変える必要があります。もちろん力仕事をする者や命令を受けるだけの兵隊も必要ですが、それ以外の者には、金を稼ぐのに必要なことを学ばせます。学びに身の貴賤は問われません。民を学びから遠ざければ、王自身が困るのです」

 いつの間にか日が傾き、窓から差し込む夕陽が彼の褐色の顔に陰影を彫り出している。

「しかしロブリア王国に限らずこちらの国々は、特権を維持するために民から教育を取り上げてもなお食べていくことができますし、その豊かさを背景に優位な軍事力を保っています。私の国にもこちらと同じように草木と水が潤沢にあれば、あるいは同じ道を辿っていたかも知れません」

 フィオナは眉間を抑え、呻くように問う。

「では、同じ道を行くにはどうすれば?」

「商人の身で恐れ多い限りですが、競争しかないでしょう。戦争ではありません。学問的な研究の量と質、商業的な規模と効率、様々な物の生産量、軍事、芸術、あらゆる面での諸外国との競争に晒されることです。そうしてせめぎ合っていれば、あらゆる層の人間に物を教え、働きを良くするしか道はなくなります。今の王国は熾烈な競争には身を置かずに済んでいますが、遠くない未来に国内の大貴族か、何かのきっかけで肥大化したギルドか、発展を遂げた近隣の小国か、あるいは砂漠の国々か、はたまた東洋の大国か、それとも南方の国々か……必ず、どこかと、全力で争う日が来ます。私の知る限り、国というのはそういう定めです。私からすれば伯爵閣下はその先駆け、豊かであるために領民の教育の底上げを図る、先をよく読まれた指導者です」

 喋り終え、呼吸を深くするダーラーの顔を見て、フィオナは小さく笑う。

「そう、ね……でもやっぱり、あなたが言ったような状況になるまでの間が心配。教育を普及させる速度を上げないと」

 小振りな薄赤い唇から、小さな溜め息。

「お父様はどうするつもりなのかしら」

 西日が色白の顔を縁取り、フィオナの姿が一つの影として浮かび上がる。卓上の磁器とフィオナを飾る宝石だけが陽光を反射する。

 それぞれが物思いに耽り、無音のまま時間が過ぎるかのように思われる。だが、静謐が空間を支配したのは一瞬だった。

 扉を叩く音。

 入室を告げる声。

 青と黒の仕立ての良い制服。

「フィオナ様。伯爵閣下より書簡が」

 フィオナはゆっくりと立ち上がり、右手を差し出す。伝令は規則正しく足を動かし、恭しく書簡を手渡す。それは白く長い指によって開かれ、忙しなく動く視線に晒される。

 夕日に照らされた彼女は、書簡を読み終えるなり唇を何度か動かし、細い声で呟く。

「領内に……図書館を?」

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