第11話 最前線としての応接室

 レグルスを包むこの深い緑の森林は、日夜人の手が加えられ、商品価値を高められている。

 適切な密度で植樹され、より高く、より真っ直ぐに育てられた木々は、まさに人間が己の生計を立てる手段として管理する資源。

 森の獣も虫も花も草木も、よく見れば中々見事に周囲の環境に手を加え、快適な環境を作り出している。生き物は自分勝手に様々な技を身に付け、生きる道を切り拓く。

 その営みに意義や理想が入り込む余地はなく、ただただ命を繋ぐことに終始する。

 仕事の意義なんて曖昧で生死に関わらないものに頭を悩ませるのは、これからも自分が生きていけることを前提にした贅沢な行為で、人生に何か素晴らしい意義があるというのは恐ろしく傲慢な勘違いなのではないか――

 平穏な旅路はあまりに退屈で、レグルスは茫漠とした思考を弄ぶことに夢中になっていた。

 リートゥスデンスから北東へ三週間、荷馬車は引き連れずに、商人向けに貸し出される早馬を乗り継いでの旅行。伯の役人から材木と穀物の買い付けを命じられ、少数の護衛だけを連れての急ぎの旅。

 最重要案件としてシモーヌはダーラーに商館を任せ、護衛の指揮はレグルスに任せた。商路上の国の言葉は彼女も十分に話せるが、言語の問題に気を散らすのを嫌い、通訳を一人付けている。

 レグルスも生活と戦争に必要な言葉は理解できるが、それ以上の社交や商売となると荷が重過ぎるから、通訳はいた方が良い。

 退屈に耐え抜いた先に待っていたのは、森の中にある小振りな館。丸々とした白髪混じりで顎髭を蓄えた男が、血色の良い笑顔でレグルス達を出迎えた。

 グンター・デューラー。この一帯の森林を持つ地主にして、木材の加工業者でもある。応接室に案内され、勧められるまま椅子に座ると、白ワインが透明なグラスを満たす。

「デューラー様、随分なおもてなしを頂きまして恐縮です」

 シモーヌはやたら濁音と子音の多い現地語を流暢に話し、肩をすくめておどけて見せる。

「なに、大事なお客様だよ。最初にここに?」

「ええ、ギルドより先に。枠はまだあります?」

「あり余ってるよ」

 グンターは苦笑いしながら答える。

 北東地域、砂漠と西方の境界付近の森林地帯で、複数の小国からなるヴァルダー同盟は、いくつかの分野で同盟内の国際的なギルドを持っている。

 その内の一つ、林業ギルドは加盟する業者が販売可能な材木の量を年毎に定め、伐採が木の成長を追い越さないよう統制している。

「最近ギルド長の娘が続いて縁付いたんで、しばらくは親戚連中の所にお客が回されてるよ。や、ほんとにさ、儲かる結婚だよね。うちの倅はなぁ……馬鹿じゃないんだけど洒落てないんだよねぇ、色使いとか食べ物の組み合わせとか。もっと街に連れてってやれば良かったかな」

 グンターは赤みを帯びた顔をしかめ、溜息を吐きながら首を振る。彼自身は白い上質なシャツに、緑の上衣と茶の小物で着飾っているのだが、息子の服装は今ひとつらしい。

 白ワインと一緒に差し出された白カビのチーズは、臭過ぎず淡過ぎず、ワインの風味と調和している。

「ギルド長の御息女は三人でしたっけ?」

「そう。全員立て続けに結婚してさ」

 大袈裟な溜息。

「それはそれは、まぁ純朴な方が良いという人もいますから」

「あんたはどう思うね?」

 上目遣いのおどけた表情でシモーヌを見る。

 シモーヌは細長い指で髪柔らかな金髪を弄りながら、にっこりと微笑む。

「純朴な方はいけません……からかうとあまりに面白そうで」

 申し訳なさそうに答える様子にグンターは大笑いし、顔の赤みが増した。

「それは危険だ! ま、そんなに焦る話じゃないけどね。それで、取引の内容は?」

「まず、ここからは通訳を介しますね。失礼な言い間違いがあると大変ですから……」

 シモーヌは通訳を紹介し、必要な木材の一覧表を差し出す。グンターはそれを手に取り、思案顔で目を走らせる。暫く黙考した後、顔を上げる。

「先にいくつか教えてくれ」

 咳払いをしてからワインを一口飲んだ。グラスを下ろした彼の顔は、先程と違って少しばかり曇り、疑うようなものだった。

「これは、誰がどこで使う? 随分と量が多いよね。売らないなんてことはない。俺と直接取引するのはあんたで、得意先だからね。ただ、災害があったか、戦争でもやるような買い方だ。もちろん、どこで何があっても関係ないけど……」

 身を乗り出し、両手を机に付く。上目にシモーヌの表情を窺い、眼尻に浮かぶ皺は深い。

「ホラントの連中じゃないよね?」

 口にしたのは、王国北部の高地を指す言葉を。それは地名であり、民族的な名称でもある。

 元々北東の森林同盟と似たような民族集団として集合離散を繰り返していたが、その一部が王国に取り込まれる際、貴族間の領土問題が解決されていないまま国境線が定められてしまった。

 以来王国としての大々的な介入はないが、時折思い出したかのように紛争が起きる。

「さすがに、あいつらに渡る木は売れない」

 シモーヌは態度の急変を見てやや表情を強張らせたが、理由が明らかになり肩の力を抜いた。彼女の客は、少なくとも目の前の男に危害を加えることはない。

「ご安心くださいデューラー様。我らの客は、 もっと南です」

「南?」

「はい、ロブリア王国のリートゥスデンス伯が今回のお客様です。領内の人口増加が著しく、建築、農業、製鉄といよいよ盛んになっている中で、同盟産の良質な木材を急ぎ手に入れたいとのことで」

 にこやかに、穏やかに、しかし付け入る隙はなし。

 商談相手の手から、足から、目から、鼻から、口元から。体のあらゆる部位からその気持ちを推察しつつ、彼女は物語、無難な商談を演出する言葉を紡ぐ。

「ワイン生産も好調でブドウ畑を拡張しているのですが、植林の方は中々難しいご様子で……とにかくできるだけ急いで欲しいのです」

 軍用の一言を避けた説明を通訳が伝え。グンターの表情は和らいでいく。

 彼からすれば仮に需要の背景が戦争だったとしても、それが遠くで行われている限りは、数ある商機の一つでしかない。それでも、戦地への輸送は危険が伴うから、平和な商売の方が良い。

「そういうことなら文句はないよ。仮に軍事的な何かがあったとして、こっちまで影響がないならそれで良い。できるだけ少ない回数で早めに納めるとすると、値段はこれぐらいかな? あんたはお得意様だからね、最初から金額交渉の手間を省いた、良い値段だよ」

 数字を見たシモーヌはいじけた顔でこめかみに人差し指を当て、横目でグンターを見る。

「デューラー様、これでは私の交渉の手間は省けません、まるで何人も仲買を通したような値段です」

 グンターはさも申し訳なさそうな表情を浮かべ、首を傾げながら哀れっぽい声で言い訳を並べ立てる。

「や、ね、この量を一気に持ってこうとすると在庫が一気に捌けるでしょ。だから、後口の分は人手を増やして、かなり急いで加工しないといけないんだよねぇ……どのお客さんもうちは植林から仕上げまでやってるからって来てくれるのに、まさかありませんとは言えないし。この場合、急いだ分を乗せる相手はあんたしかいないでしょ」

「デューラー様」

 身を乗り出したシモーヌの肩が上がり、それに押し出されるように金髪が首から左右に流れて落ちる。その表情は話の流れからは不自然な程にこやかで、何か策があるような雰囲気がグンターの心に焦りを生む。

「工賃の負担については仰る通りと思います……思いますが、もう少しどうにかなりませんか? 実は私共も伯爵閣下とのお話の中で、これぐらいで買えるだろうという話になっておりまして」

 シモーヌが取り出したのは木材の相場を書き付けた紙。グンターは嫌々といった様子でそれを手に取り、嘆息する。

「木材自体はこれでもいいんだけどね、やっぱりうちも他のお客に迷惑かけられないし」

「でしたらその、急ぎの工賃分はどれぐらい乗っているのですか? 他の費用を削れれば嬉しいのですけど……」

「悪いけどそれはないね。この金額は全部急ぐために必要なんだ。早く欲しいなら、それぐらい諦めてもらわないと」

「でしたら……仕方がないですね」

 シモーヌは残念そうに肩を落とす。

「急がなくて結構です」

「なに?」

「できるだけ急げと言われていたのですが、やはりいくらでも良いというわけには参りませんので。あぁ、伯爵閣下に怒られてしまうかも知れません。しかし、仕方ないことです。普段通りの納期で、この表の値段でお売りください」

 グンターは、ただ腰を浮かして固まっている。

「木材自体は相場通り、差額は急ぎ分と仰るなら仕方ありません。できるだけ早く欲しかったのですが、それは諦めます」

 ようやく腰を下ろしたグンターは、何を迷っているのか、何度か唇を動かしかけては止める。シモーヌが嘘をついたと責められる話でもなく、足元を見て、できるだけ高く売り付けようと口にした理屈を利用された上に逆上、というのはあまりにも格好が付かない。

 しかし、相場とはいくつもの規模の違う業者の様々な商品を包括した、平均的な価格に過ぎない。全てを相場通りに供給してしまえば、利益を上げるのは難しい。

 少しばかりの間をおいて、シモーヌの質問、彼女によって恵まれた、頭を下げて金額を改める最後の機会が与えられる。

「念のためですが、何か間違いやお忘れになっていることは?」

「あー、実はね……最近どうしても人を雇うのが高くついちゃって、今まではこの値段でも大丈夫だったからうっかりしてたんだけど……」

 グンターは困り顔で改めて値段を書き付け、シモーヌに差し出す。それは相場平均よりは少し高いが、最初に示した金額よりは随分と安い。

「これぐらい貰わないと、ちょっと厳しいかな」

 彼女はそれに目を走らせ、いかにも不満げな表情を見せる。

「分かりました。まさか損をさせるわけには参りませんので、こちらの価格でお願いします。出荷は週に一回でよろしいですね? ところで」

 無言で頷くグンターに、シモーヌから出される追加の提案。

「これは小口ですけど、別のお客様が。リウサレナ男爵が後妻のために館を建てるとのことで、仕上げの良い木材を手に入れよと仰せつかっております。あまり馴染みはないと思いますが、男爵は芸術に秀でた方として貴族の間では有名です。王国南部に名を広める好機かと」

 グンターの気持ちを離さぬための餌。薄利を嫌って手を引かぬよう、彼女は利益拡大のきっかけを提供し、純粋な善意の表情で彼を見つめる。

 シモーヌを見返す顔は片目を細めて大袈裟に訝しがっているが、やや前のめりの姿勢では、興味があることを誤魔化せない。

「リウサレナは……あんまり聞いたことないね。普段はどこから買ってるのかな」

「南部ではこれといって支配的な業者はいませんね。リートゥスデンスにも木材の供給地はありますが、まあこうして買い付けに来るぐらいですので。燃料や粗野な建物に使う分は飽和してますが、品質が求められる分野で参入して、規模を拡大する余地はあるように見えます」

 グンターは数秒の間黙考し、柔和な笑顔を彼女に向けた。

「近い内にまた来るよね? もちろん代理でいいんだけど。価格表はすぐに準備するから、いくつか見本を男爵に渡せないかな」

「喜んで承ります」

 リートゥスデンス伯向けの仕事で儲けそびれた分を穴埋めする目処が立ったからか、グンターの表情は明るさを取り戻している。

 そこから先は和やかな談笑と情報交換が続き、木材買い付けの交渉は成功裏に終わった。

「上手く行ったな、シモーヌ。伯に言われた値段より安く買えた。大したもんだ」

 館を後にして宿屋に向かう道すがら、ゆっくりと歩く馬の背に揺られながら、レグルスは己の雇い主の手腕を称賛する。

 太陽は西に傾きつつあるが空はまだ青く、夕闇の訪れは遠い。長閑な午後、人で溢れた市壁の中とは異なる清浄な空気の中で、現実にはありもしない血の臭いがレグルスの鼻腔の奥をくすぐる。

「戦争のための買い物か」

 木漏れ日に照らされ、虫と鳥の歌に囲まれた平穏な世界の中で、くぐもった呟きの異質な響き。

 それを聞いたシモーヌは目を閉じて俯き、ゆっくりと息を吐き出す。

「しなくていいなら、それがいい。でも、できないと困る。そして世界にはやるべきかを考えず、できるからやってしまう愚か者もいる。だから終わらない。終わらないから、備えなきゃいけない。嫌になるわ」

 美しい鳥の歌を遮るように不愉快な羽音が耳元を掠め、彼女は思わず顔をしかめて振り払う。気を悪くしたのを取り返すように、馬の鬣を優しく撫でてやる。

「でも、嫌だと言っても不愉快な世界は変わらないし、私を世界から切り離すこともできない」

 伯軍を支える兵站、それを支援する仕事を引き受けたまさにその本人は、諦めたように小さく笑い、力なく肩を落とした。

「せめて私にできるのは、マシな結果を出しそうな人を支えるだけ。だから、やるの」

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