第10話 法の穴

 雷雨、黒雲、ぬるい風。

 快適とは言い難い空の下、リートゥスデンス城には娯楽に飢えた人々が集まっていた。お目当ては、刺激の少ない、生暖かい日常に彩りを添える催し物――公開裁判。

 公然と罵ってもよいとされる玩具、思う様行かぬ人生に溜まる鬱憤のはけ口を手にすることができ、運が良ければ、当日の内に処刑が行われることもある。

 死刑の多くは絞首刑だが、伯に盾突き、役にも立たず死刑となった野盗や、その他の特に罪の重い者は、見せしめとして首を切り落とす。

 絞首台で空気を求めてもがく顔や仕草も人気だが、首が刎ねられる刹那の緊張、直後に訪れる興奮は、多くの領民を虜にしていた。

 道義的な罪に対して課せられる恥辱の刑も、見世物として一定の人気がある。

 己の罪を書き記した看板を首に掛けて立つ者から、吊るされた檻に入れられる者、素足で拘束され足の裏を獣に舐められる者までおり、ある種の大衆芸術と言ってもいい。

 期待を膨らませた領民達を歓迎するように大法廷の扉が開き、リートゥスデンス伯サカリアス・ファン・バルカルセが堂々とした姿を見せる。傍聴席に集まった人々は一斉に口を閉じ、上段に座していた法官と神官が起立して彼を迎える。

 議長席に向か足取りは悠然としており、支配者としての尊大さをあえて隠さない。

 領主裁判権――立法では神殿が幅を利かせているが、貴族の所領における裁判は領主の領分だ。

 王国の膨張期に数多の都市国家や部族を取り込む中、法体系の統合の難しさ、法官育成の時間と費用の問題から、領主の裁判権が黙認されてきた。 今では法律こそ統一されたが、領内の裁判権は貴族が握り続けている。

 領主裁判には神官も列席し疑義を呈することはできるが、そう強い権限があるわけでもない。

 神殿の教育を受けた法官も数が揃ってきたが、政争の末、彼らは領主に従属する役人とされてしまっている。

 貴族と高位の神官を裁く仕組みとして国王が裁判長を務める王室法廷があるが、王室法廷では貴族と神官五人ずつが法官に任じられ、法解釈はその議論次第で捻じ曲がる。

 王国の法治は、基礎が脆い。

 普通の貴族は表立って神殿に歯向かうことはない。その事実が、法の秩序を保っているに過ぎないのだ。

 石造りの法廷に、雨に濡れた人の熱気と臭気が籠もる。商人、農民、職人達の、色とりどりの衣服がモザイクを作り出す。

 絵でも眺めるように目を細め、サカリアスは湿り気を帯びた髪を撫で、開廷を宣言した。厳かなその言葉の後には領民達のお楽しみ、罪人達が陳列される。

 仲間内の見栄の張り合いから、金に困って盗みを働いた職人の弟子。

 不義を働いた役人の妻と通いの商人。

 村娘を強姦した農夫。

 店を開く金のために男を騙した女。

 紛い物の毛生え薬を売り付けた商店主。

 長い病で気が触れて、継子の内蔵を薬にしようとした女。

 女に貢ぐ宝石欲しさに、娘の歳を誤魔化して娼館に売り飛ばそうとした男。

 主役の座を奪われた嫉妬から、仲間の顔を熱湯で潰した役者。

 ある種の豊かさか、犯される罪は多種多様。食うための盗みと殺しが罪状の大半を占めた戦乱期、あるいは他の貧しい都市と比べて、リートゥスデンスの人々は良くも悪くも空腹とは異なる欲求から罪を犯す。

 豊かな罪の数々に対しては、聴衆のちょっとした歓声や非道な罪に漏らされた嘆息を伴奏に、次々と判決が読み上げられる。

 そして公開されている一覧表に載せられた裁判は、おわった。だが、閉廷の宣言がない。

 聴衆はどよめき、列席する神官二人は顔を見合わせる。法官は誰とも目を合わせず、ひたすらに前を向いている。

 サカリアスは聴衆を静めるように右手を挙げ、重く圧のある声で裁判の継続を告げた。

「予定にはないが、急ぎ裁判を行う必要のある者がおるゆえ、このまま続ける」

 どよめきは消え、石造りの壁に伯の声だけがやけに硬く響く。法廷横の軋んだ扉が不快な音を立てて開く。入廷したのはこれといった特徴のない、特別若くもない男。

 兵に付き添われ、無言で証言台に立つ。

「ホセ・メーナ。貴様には本の不当所持の疑いがかけられ、実際に本とされる物も押収されている。極めて重大かつ繊細な判断を要する案件であるため、ここにその真偽を問う」

 再び、どよめきが起きる。神官達は法官に何が起きているのか問い詰めるが、法官は目を合わせずにわかりませんとだけ繰り返す。

 神官達の頭に浮かぶ疑問。

 繊細な判断とは何か? 本であるかどうかに何の判断が要るというのか。

「貴様は薬草に関する本を無断で所持しているそうだが、事実か」

「そのような事実はございません」

 証言台の男はサカリアスに問いかけられるも、表情のない顔を上げ、淡々とした口調でそう言い切った。

「一応、押収した現物がここにあるが」

 サカリアスが手に取って見せたのは、革の装丁に金箔押しで『腹痛、下痢、便秘のための薬草と土の調合』と題された物。

「ぜひご確認ください」

「ほう?」

 サカリアスは大袈裟な身振りでページを捲り、目を細める。紙の音が不思議と法廷中に響き渡り、神官達は、明らかに不審な行為に落ち着きを失っていた。

「ふむ……なるほどこれは、本ではないな」

 その一言に、ついに神官の一人がたまりかねて声を上げる。

「閣下! それはどういった意味でしょうか」

 サカリアスはそれを鼻で笑い、目の端で睨みつける。

「どう、とは何か。これは本ではないと言ったのだ。君は王国人に見えるが違うのかな? 通訳が必要であれば手配するが」

「そうではありません!」

「だったら何だと言うのだね? 徒に進行を妨げないで頂きたい」

「それは、明らかに本でしょう! その男は本を不当に所持している! 法に則り、速やかに身柄を神殿に引き渡すべきです!」

「これはな、本ではない。画集だ」

 伯は神官、そして聴衆へページを開いてみせる。神官は唖然とし、言葉を失う。

「君」

 呆けた神官に伯が問い掛ける。

「王国の歴史を描いた絵画はいくつもあるが、建国宣言の石板を掲げる王や、神の掟を書いた法典を開いて見せる神官は定番の画題だな。本を開き、王国の歴史や偉大な知識を民衆に読んで聞かせる、慈悲深きミネルウァ神の絵も多くある。これらの絵画の所持は、神殿としてはどう扱っている?」

 神官はどうにか落ち着きを取り戻そうと、深く深く息を吸って吐く。

「罰するものではありません……特に奨励もしていませんが」

「公共施設やギルドではお決まりの装飾だな」

「それはまぁ、それが何です? 当たり前のことでしょう」

「そう、当たり前だ。絵画は法に触れてもいない。そして、そうした絵に描かれた本や石板の多くにはっきりと文字が記されているが、それは絵画の一部であるから問題はない」

「何を……」

「これを見ろ」

 サカリアスは神官に開いた本を突き付け、出来の悪い生徒に物を教えるような、はっきりとした口調でページの上端を指し示す。

「これはな、ミネルウァ神が薬の作り方を記した石板を持っている絵だ。その絵を集めて画集にしたのがこれだ。この通り、全てのページにミネルウァ神やその使いが描かれている」

 相手を小馬鹿にした態度と到底受け入れられない主張に我慢の限界を迎え、神官はついに拳を机に叩き付けて声を荒げる。

「それは本の装飾でしょう!」

「どう違う?」

「は……」

「どう違うのかと聞いているのだ。どこまでが絵で、どこからが装飾が施された本なのかな? ページに占める文字の面積の割合かね、それとも装丁の仕方かね。法典のどこを見ても、そんなことは書いていないぞ」

 答えあぐねた神官は法典に手を伸ばしかけるが、すぐに引っ込める。そこに明確な答えは、今必要な本の定義は書かれていない。

 下手に外観や構造で本を定義すれば却ってその定義から外すことが簡単になるため、そうした定義はしていない。

 そして、絵やちょっとした書き付けを片っ端から取り締まる訳にもいかず、文章が書いてあれば本だ、と言い張ることもできない。そんなことをすれば、王国民全員を犯罪者とせざるを得ない。

 それに、これは絵ですなどと主張する存在など、誰も想定していなかった。

 法廷。

 議論。

 そうした場に最も適応した人種の集まりが神殿なのだ――そう自己を認識している集団にとって、曖昧で議論の余地がある条文は自身に有利に働くものであり、あえてそうした世界で神官と正面から議論をしたがる貴族など、そういるものではなかった。

 観念的な議論において神殿を上回る者なし――その無意識の前提が崩れた神官は狼狽していた。

 己がここで有効な反論をしなければ実質的に本の所持を認める判例ができてしまうが、この状況は前例がない。

 反駁しようと焦るが、満足に声が出ない。

「発言はないようだが」

 神官が何を言うべきか、何を何を何をと心中で繰り返す内に時間は過ぎる。

 咄嗟の発言が脳内をよぎりもするが、皮肉なことに彼の知性は、それが意味のない言葉だと気付く程度には機能していた。

 ようやく捻り出したのは、それは詭弁だという意味のない言葉。

「感想をありがとう。して、反論は?」

「印章……神殿の印章が捺してあるはずでは。それがあれば、神殿が本として登録している証となります!」

「生憎いくつかのページが破損していてね、判別できん」

「そんなことが許されると!」

「まったく許し難いことだとも。どうやら、商人から受け取った時にはこの状態だったらしい。安い買い物ではないというのに困ったことだ。商人達に、顧客を思いやり品質を担保せよと説いて回る必要があるようだ」

「そうしたことでは……」

「では、何か。そもそも、仮にこれが本だとして、神殿の印章が捺されたページがあったとしよう。であれば、なぜ神殿の管理下にある本が不当に流出するのだね? 取り締まられ押収された本の多くは神殿の管理外にあるわけで、印章など捺されてはいない。神殿に目録を確認させても無駄だろう」

 言葉に窮した神官は、隣の同僚に目を向ける。先程から沈黙しているもう一人の神官は、俯き、固く結んだ唇を震わせていた。

 数秒の沈黙の後、サカリアスが口を開く。

「発言はないな。判決を言い渡す。ホセ・メーナは不法に本を所持するの罪ありとして裁判を執り行ったが、この者の所持するは画集であり、書籍の閲覧と所持に関する法が所持を禁ずる所の本ではない。よって、この者を無罪とする。本日はこれで閉廷とする」

 黒衣の領主は悠々と席を立ち、法官達が後に続く。神官二人は無言のまま座り続けていたが、警備の兵に促され、渋々席を立つ。

 後には今までに例のない判決への衝撃と、好奇心に満ちたささやきだけが残されていた。

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