第9話 鮭と紅茶と甘い汁

 脂の乗った鮭の皮の臭みは、不思議と癖になる。脂とわずかばかりの香草で香りを付ければ、挽き方の粗い茶色いパンも世に誇れる美食。

 刺激臭を発する皮付きのチーズに重口の赤ワインまで付いて、よもや最後の晩餐かと疑う程。

 その上、火に掛けた鍋では上等な肉まで煮られている。

 魚には決まって白、などというのは素人の戯れ言。真に問われるのは魚か肉かではなく、その一皿の風味なのだ。

 朝食を摂らぬ十時過ぎ、正餐の座に着くレグルスは黙々と手と口を動かす。

 久々の暇を得たレグルスは、自室に引き篭もり、一人で食事をしていた。

 ダーラーを誘って酒場に行こうかとも考えたが、久し振りに好きな物を好きなように口に入れられるのに、会話に気を取られるのが嫌でやめてしまった。

 肉を煮込む沸騰音を楽しみながら赤い酒を口に含めば、ねっとりとした味わいに、飽きさせない適度な渋み。

 窓から差す日光を眺めれば、部屋を漂う細かな埃を照らし出す。机の角をなぞれば、細かい埃がうっすらと指を覆う。まめな掃除など望み得ない暮らし、人生の大半は馬の上に座っているのだから、多少は仕方ないだろう。

 手袋越しとはいえ手綱とサーベルを握り続けた手は、所々が石のように硬い。

 レグルスは、よく人の手を見る。

 別に硬い方が偉いとかいった話ではないが、武器を振るう者、工具を持つ者、ペンを握る者、荷物を運ぶ者、料理を作る者。

 それぞれにそれなりの手の形があるし、その度合いが強ければ、それは経験の長さを物語る。

 再び鮭をパンに乗せて口に入れると、新たな芳香の充満と共に、少しだけ考えることも変わる。

 手。亡くした妻の手。白いまま病で痩せ細った手。治し方が分からず途方に暮れる、田舎医者の震える手。言うことを聞かず、自分の膝から引き剥がすのに苦労した己の手。

 本が自由に読めるようになれば、執筆もより盛んになるのか? そうすれば知識が遍く行き渡り、治せる病も増えるのか?

 本の問題だけ解決すれば良いのか、あるいは、それはごく一部の些細な問題で、本質は他の所にあるのではないか。

 彼の中に確証はない。

 確証など、どこにもないが――それでも伯の下で働くことで、何か変わるかと黙考する。

 飽きる程繰り返した引き金を引きサーベルを振るう仕事が、何か素晴らしく意義深いものになりはしないかと期待する。

 レグルスは隊商の護衛に鞍替えした後、商人と傭兵の違いに衝撃を受けた。

 傭兵は、世の役に立たない。

 傭兵は、本来大軍を擁する程の基盤を持たない貴族を、大軍の主に化けさせる。

 真に大軍を擁せる者が世を平らげるのは、まだ良い。持続可能で大規模な軍は、豊かな産業基盤の構築と円滑な物流、それを可能にする諸々の法整備と人材育成ができない支配者には持ちようのないものだからだ。

 それは最善ではないだろうが、境界線を巡る小競り合いで延々人殺しが続くよりはマシだろう。

 しかし、傭兵は借金を重ねただけの、国を豊かにできない者にも軍事力を与えてしまう。

 そして、小領主の諍いは絶えず、嫌がらせにしかならない小規模な攻囲戦と、略奪、強姦、腹いせの殺人が少しずつ積み重なっていく。

 商人はどうか。

 無論人を騙し暴利を貪る者もいるが、基本的には多くの他人の役に立つ。職人達から物を買い取り、遠方の顧客に運ぶ。遠来の品々を求め、異国の知識や文化を伝える。

 シモーヌに雇われた当初は無自覚だったが、レグルスの心中はただひたすらに殺す商売に飽いていたのだ。

 そんな中、隊商の護衛であれば己の仕事も意味を持つかと思っていたが、期待していた感覚は訪れなかった。守る立場にはなったかも知れないが、結局誰かを殺して生きているだけだ。

 金を求めて物を運び、同じように金を求めて迫り来る者を斬り伏せる。それで何かが良くなることはない。

 それに、レグルスとヴァレリー商会が道半ばで朽ち果てたとしても、誰かが同じような品物を同じ客に届けに行く。そしてその客はいつだって食うに困らぬ金持ちで、いくら物を売っても人の世が良くなるわけではない。

 本は、そして伯は、多少なりとも人の暮らしを良くする存在だろうか――

 レグルスは埃のせいでくしゃみをし、思考の底から引き揚げられる。気が付けば肉が煮え、鍋から発せられる香りはいよいよ強くなっていた。


 同じ頃、リートゥスデンス城では黒衣の伯とその長女、幾人かの役人と共に軍の制服を着た者が居並び、一様に顔をしかめていた。

 制服組は、兵站を司る面々。

「糧食の備蓄は予定通りですが……」

 兵站総監を務めるサカリアスの伯父、エンリケ・ルイ・バルカルセが目の下を抑えながら、疲れの滲む声で呻く。

「木、鉛、鉄が事前計画に対して不足しております。薪の不足は致命的ですし、そもそもの鉱物が不足してしまっては……」

「何故足りないと?」

「需要の急増に追従できません。木材については既にご存知でしょうが……鉛と鉄は産出量の減り方が想定外に激しいのです。鉱山ギルドも予想外だと。新たな鉱脈も探していますが、神殿の協力無しでどこまでやれるか。鉱物は買い入れを増やさねばなりません」

 伯は腕を組み何度か頷いた後、卓上に広げられた周辺諸国図に目を落とす。

 地図には何本もの線で、バルカルセ家が利用可能な商路が書き込まれている。

「南か」

 古より支配を強めてきた南方航路、そこから戦略物資を求めるべきかと伯は口にする。それに対し、一人の役人が立ち上がる。

「お言葉ですが、それですと木材が中々に高い買い物となります。南方の材木生産は少なく、材木取引の大部分は北東諸国の物を仕入れて他の地域に売っているだけです」

「なるほど。では、どう買う? 残念だが物集めについて言えば、我々の良き知り合いは海の向こうに偏っている」

「心得ております。こちらをご覧ください」

 小振りで簡素な地図が広げられる。王国を中心に周辺諸国を描いた略図。

 何かの名前らしき文字が並び、リートゥスデンスに至る線が何本も引かれている。

「ヴァレリー商会の商路図です。普段取引のある生産者と、移動経路が書いてあります。何かあればと思い、提出させておりました」

 机に身を乗り出し、地図上の点を指し示す。

「彼女らの商路はリートゥスデンスから北東諸国を挟んで砂漠に至るまで、長大な距離を結んでおります。材木や追加で必要な穀物類の輸入には資するかと」

 豊かな水源に支えられた北東の小国家群。東に行くにつれ乾燥地帯が目立ち始めるが、水に恵まれた西側は整備された森林と農地が広がっている。

「東洋人の船団を使うことも考えてみましたが、あの船腹はまた別の使い道もありましょう。ヴァレリー商会に輸送隊の手配と、買付けの交渉をさせてみては」

「ほう……良いだろう。検討する、などと言っては事が進まん、交渉させよう」

「ありがとうございます」

 発言を終えた役人はそれなりに緊張していたのか、席に着くなり水を飲む。

「兵站総監、その他の物資の具合は」

「あのダーラーとやらの案もあり、運搬、備蓄自体は順調です。ただ、大量消費が続く場合の生産にはやはり問題が。正直に申し上げれば、大規模な会戦を何度も繰り返すことには、非常な不安があります」

「我らが友人達の軍がいても厳しいか」

「お言葉ですが、ご友人の傷付きやすい兵は医療品の消耗を激しくします。もちろん兵数は必要ですから疎むものではございませんが。それに彼らの鋳造技術は今一つな上に、生産元は小規模の工房の集まりですから……ああ弾の大きさがバラバラでは、心強いとは言えますまい」

「長期戦は、無理か」

 問いかけられた全員が、目線を下に向け押し黙る。空気が重くなるのを感じたのか、伯は軽い調子で片手を上げる。

「まあよい、であれば敵を釣り出すまでだ。少し休もう」

 その一言をきっかけに、列席者は凝り固まった体をほぐし始める――


 白を基調にしたの神殿の一室には黒衣の集団が集い、長机の端に紅が差す。

 紅衣のソフィアは白く細長い指で羽ペンを持ち、議論の要点を手許の茶色がかった紙に書き付けていく。

 細く柔らかい指だが、ペンの当たる箇所はまめが出来て固くなっていて、勉学に充てた時間の長さを物語っている。

 次々と紙に綴られる内容は、リートゥスデンス伯に対する持久戦派と決戦派の議論。

 直接は戦わずにできるだけ政治的に殺し切るのが最上という点では、全員の意見が一致していた。だが、戦闘が避けられない場合の方針は意見が割れていた。

 ソフィア個人としては持久戦を支持しているし、それを命じることもできる。それでも、つい先日衝撃的な不服従に直面したばかりの彼女としては、形式として関係者と議論を尽くす必要があった。

 正面切って反抗する人間がいなくとも、要となる人間が積極的でないだけで、組織の力は大きく減衰する。

 会議を開くことで、良いこともあった。決戦派の論者は持久戦思想に凝り固まったソフィアでは思い至らない事を次々と指摘してくれた。

 曰く、打って出ぬ姿勢自体が敵の良い宣伝材料になる。

 曰く、もたつけば敵も十分な兵站網を構築してしまう。

 曰く、本格的な長期戦には他教区の支援も必要であり、今後政治的に不利な立場に立たされる。

 曰く、海を支配する相手に攻囲戦を挑むには、途方もない量の物資と人間が必要になる。

 ソフィアはアウスティア教区の政治的な立場にも関心を持ったが、伯にとっての宣伝材料になり得るという指摘には特に敏感に反応した。

 神殿としては五万を超える兵力を誇っているが、伯一人相手に全軍投入は無理な話だ。

 アウスティア教区の軍監が管轄する数百人を別にして、ソフィアが本山から指揮権を得られるのは精々一万強。

 それ以外は禁書派貴族の軍と傭兵が頼みだが、リートゥスデンス伯とて当然盟友を募る。

 また友人探しは現場の兵隊に留まらず、輸送、生産、資金から寝床の提供まで、ありとあらゆる面に及ぶ。

 そうなれば、関連するあらゆる地域における宣伝戦――己の富と強さと正当性の見せびらかし合いでの敗北は、兵力の劣勢と軍隊組織の麻痺に結び付く。

 正当性が必要な以上、略奪めいた徴発には頼れない。であれば、強い神殿を演出して、支援を引き出さないと敵には勝てない。

 歴戦の指揮官であれば持久戦の優位を理解するだろうが、傭兵の他にソフィアの手駒となり得る者は、大軍指揮の経験に乏しい中小貴族と、戦争に関して素人の商人や職人達。

 こちらが一万を超す大軍となれば、彼らは舞い上がって一大決戦を期待する。

 その期待をあからさまに裏切り、聖賢にして精強なる神殿の幻想を失えばどうなるか?

 本来構築できたはずの兵站網は霞となり、補給の欠如という魔物に追い立てられた末の、玉砕覚悟の惨めな決戦もどきを挑む羽目になる。

 そんなことになれば、せっかく手にした大神官の座を失ってしまう。

 しかし、とソフィアは思う。彼女の考える限り、伯軍は素直に戦うにはあまりに強大だった。

 二十秒に一度の斉射を弾切れなどしないかのように潤沢に撃ち込み、敵を恐れずに適切に突撃を行う歩兵。

 無駄撃ちせず、的確に発砲する砲兵。

 どこの傭兵か知らないが、好機と引き際をわきまえた騎兵。

 他の貴族と比べて、明らかに発達している信号通信。

 恐怖と興奮と混乱に満ちた戦場で、兵を統率するに足る数の士官を生み出す教育。

 そして、指揮官に気にせず撃てと言わせる程の金と物流網。

 軍出身の彼女からすれば、こんな恐ろしげなモノは十分に弱らせてから叩かねばならない。

 勝ち切れない、負けかねない状況での決戦はあまりにも危険で、仮に負けでもすれば伯爵支持の勢力が増え、いよいよその基盤が強固になる危険がある。

 こちらはじっくりと準備を進めつつ、敵の準備を妨害する。口で言うよりもはるかに難しいが、負けにくいのはこの道だ。

 ソフィアが頭と手を酷使している内に、発言は少なくなっていく。意見が出尽くした頃合いを見計らい発言する。

「大体の意見は出たかしら? 活発な議論をありがとう。話を聞いた上での私の判断として、基本に据えるべきは長期戦。目的は敵に消耗を強いた上での有利な条件での交戦。そして急ぐべきことは、通商の妨害と同盟関係の強化。指摘の通り、俗世間での印象は黄金」

 そうと決まれば、まずはできるだけ多くの人間を囲い込むことだ。

 鳶色の瞳が愉快げに歪む。

「友人達に甘い汁を用意しましょう」

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