第5話 商会長の計算と理想
リートゥスデンス市街地にある商館。倉庫と住居の機能を持つレンガ造りのそれは、出荷作業の熱気に包まれていた。
貴族や商店から受注した品物を、荷馬車に積み込み送り出す。決められた寸法の箱の中にできる限り商品を詰め込み、箱に入らない物は麻袋に入れ、積まれた箱の上に乗せる。
貴族向けの香辛料や宝飾品は、特急便として多頭立ての馬車に乗せる。四頭にすれば速度も四倍とはいかないが、特別なお客様としての自尊心を満たし、機嫌良く次の注文を貰えることもある。
荷馬車は道端にうずくまる飢えた浮浪者を横目に、また小汚い野良犬を追い払いながら、金に換わる前のモノを乗せて石畳を駆けてゆく。
出荷場の喧騒が嘘のように、会議室の空気は重く、冷たかった。沈鬱、というわけではない。ただ、これから行う物事の大きさが、商人達の気を重くさせていた。
レグルスやダーラー、それに連なる担当者達、その誰もが落ち着きなくそわそわとし、シモーヌだけが何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいた。
朝方、城で伯爵が口にした言葉、それに続いた具体的な商談。
「伯軍の兵站支援。良いじゃない、一気に内側に入り込める。馬車も増やしたとこだし」
細い指を伸ばして手を組み、片眉を上げる。
「好機ね」
一瞬の間が空き、ダーラーが口を開く。
「いやね、しかし、相手神殿ですよ? どうでしょうねぇ」
「どうと言ってもね、もう請けたわ」
「や、そうですが……」
伯の商談。物を買って、運んで、たまに戦う普段の仕事だが、客は伯の軍隊で、敵の背後にはミネルウァ神殿。対立が激化すれば、神殿の軍も動くことは目に見えている。
「敵が神殿ってのは、まあ……なんだな」
しばらく黙り込んでいたレグルスも、たまりかねた様子で口を開く。目の間に置かれたコーヒーは、まだ一口も飲まれていない。
領民の自由な本の閲覧と所有に向け、禁書法とも称される「書籍の閲覧と保持に関する法」の廃止を再三訴えた伯は、武力に訴える構えまで見せた。
神殿の特権的な地位は知識の独占が支えており、それができるのは、愚直な類の民衆への刷り込みと、そうでない者の反抗を抑止する軍事力を保持してこそ。
その軍を破り、威信を傷付ける。
戦えば勝てるものと皆が認識してしまえば、神殿は聖賢なる導き手ではなく、単なる集金装置、手口の上品な盗賊となる。
知は皆等しく積み重ねるものであり、独占されるものではない。開かれた知こそ豊かさへの道である。伯の語るその言葉は、レグルスにもまっとうなものに感じられた。
だが、敵が神殿であるという一点が、ひたすらに気分を重くさせた。
「伯の軍隊も相当のもんだが、やっぱり神殿は怖いぞ」
「旦那は神殿の軍は見たことあるんで?」
「昔な。神殿寄りの貴族に雇われた時に、援軍に来た。射撃も速いし、規律がいい。それに、どんなに長い横隊を組んでも、まっすぐな列ですたすた歩く」
「まっすぐすたすた? なんですかそりゃ」
「相当訓練してるってことだ」
うへぇ、と声を漏らしたダーラーは、わかったような顔をして顎鬚を撫でた。再び言葉が途切れた所に、シモーヌの明るい声が響く。
「ま、想像してたけど後ろ向きね。でもいい商売でしょ?」
「商機といえば商機ですがね。前からのお客はどうすんです? 割り振りは?」
ダーラーは喋っている内に気が和らいだのか、手付かずだったコーヒーに手を伸ばす。レグルスは茶色い肌と黒い顎髭に濃い香りが妙に似合うな、と関係ないことに気を散らし、慌てて意識を引き戻す。
「馬車や御者だけじゃないですよ。普通の輸送経路作るのも大変なのに、今度はあっちこっちの拠点まで、他の客先との混載もダメ」
「馬も御者も数は揃ってるから混載はしなくていいし、伯爵閣下の物同士は混ぜてもいいのよ? 砂漠はまた傭兵使うしかないけど」
「運べるだけじゃなくて、儲かる経路を作らないといけないんですよ!」
ダーラーは大袈裟に手を振りながら己に降りかかる苦労を主張するが、真面目に取り合う者は誰もいない。
彼がそうした経路の設計をできることも、他人に押し付けずに自分でやることも知っているからだ。
そして、厄介な仕事の時にわあわあと騒ぐのは、単に気分を乗せて欲しいだけであることも知っている。
「いいからやるの」
シモーヌが言い放ち、期待が外れたダーラーの表情は渋い。
「あなたしかできないんだから」
横目でダーラーを見ながらシモーヌが言う。言われた方はにやけでもしているのか、無言で口の前で手を組んでいる。
「皆が不安に思うのも当然だけど、勢力の維持拡大には必要なの」
シモーヌは席を立ち、壁に掛けた地図の横に立つ。空色の瞳が向けられた先は、大陸の東西を繋ぐ砂漠ではなく、世界を包み込む巨大な海。
海ーー長距離かつ大量の輸送を可能にする、彼女にとっては忌々しいもう一つの世界。
「東方、ダーミンの国が政策を変えた。今までは皇帝の貿易統制のおかげで、向こうの船商人の活動は限定的だった。前から東洋の物は海を越えてやってきてたけど、輸出を牛耳ってるのは砂漠に面した都市だったから、砂漠経由の方が強かった。でも去年の終わりから、東洋商人が船で、直接、商売に来てる。品質が担保された本物の商品と、豊かな銀貨を持ってね」
彼女は悩まし気に髪をかき上げ、後ろに払う。薄黄の服に金髪が落ち、払われた髪の奥から覗いた頬は、いつもより少しだけ赤い。
「リートゥスデンスは王国で一番船が集まる港だから、商人も、貴族の使いもやってくる。だから、東の物も砂漠の物もここまで持ち帰って、ここで荷揚げされた南洋の物もできるだけ買い占めて、まとめて売りさばく。今まではそれでよかった。でも東方人の海上貿易が本格化すると、このやり方が通じなくなる。私達が築き上げた、砂漠の商路の価値が下がるからね。だから……リートゥスデンスに入る物、リートゥスデンスから出る物、この両方を取り扱う、南部最大の商館になるしかないの。それができなきゃ」
言葉を詰まらせ、張り替えたばかりの奇麗な床に視線が落ちる。レグルスは金回りのいいシモーヌしか知らないが、倒産寸前の状態で商会を受け継いだことは知っている。
「潰れてなくなるか、言われた物を運ぶだけの、安い仕事をするしかなくなる」
ダーラーは無表情で腕を組み、他の古参の者達も嫌な思い出に頭を抱え込む。大勢が変わり、何もせずにいればじりじりと窮地に追い込まれる。
緩慢な死を避けるために見つけた薬は、明らかな劇薬。飲まずに死ぬか、死ぬかもしれないが飲むか。
それとも、あるかどうかもわからない、甘い薬を探しにゆくか。
飲むのが一番確実だと頭では理解していても、目を閉じて、一気に飲むにも相応の勢いがいるものだ。
「それにね?」
沈黙を前に少し考え込んだシモーヌは、たおやかな仕草で椅子に座り、少しだけ体を右に傾けて頬杖を突く。
伏された目は少しだけ潤み、細く長い睫毛が美しい。空色の奇麗な瞳に映されるのは、あと一押しを求める列席者達。彼らは皆、彼女の表情を窺っている。
「私も……知識は開放されるべきだと信じる。というより、飢えた貧しい人間は見飽きたし、自分が飢えるのも、もう嫌。神官と貴族が利権を握りしめて、他の人間はとにかくおこぼれにあずかろうと、ひれ伏して足元に纏わりつくだけ。一度その輪から蹴り出されたら、余程の幸運がなければもう戻れない。まぁ、ちょっとね、嫌になるじゃない」
彼女はわずかに残ったコーヒーを取り、気を落ち着けるように少しだけ飲む。
「伯は、多分自分の利権しか考えてない。けど、伯爵の考える発展の仕組みには、必ず学問と商売の自由がついてくる。それなら、少しはマシな未来が期待できると思うの。私にも、あなた達にも、横道に座り込む彼らにも。私達も儲かるし、子供達のお腹も減らない。ここで何もしなければ、私達は、少しずつ貧しくなっていく」
興奮からなのか、彼女の声が少しだけ震えを帯びる。彼女の様子に黙っていられなくなったのか、ダーラーが口元をにやつかせてレグルスに顔を寄せる。
「ねぇ旦那、しばらくは近場の仕事ばかりになりますから、いつもより美味いもんが食えるんじゃないですか? あんな不味い酒じゃね、やってられんでしょう」
列席者からは笑いが漏れ、和やかな空気が生まれる。シモーヌの表情も明るくなり、心なしか声も柔らかさを取り戻した。
「まぁ……身の危険はいつものことだし、特に気負うこともないけど、皆で気分のいい仕事をしましょう。護衛はレグルスの指揮で完璧、面倒な仕事は全部ダーラーが片づけてくれるわ。ねっ!」
部屋を包む笑い声の中、ダーラーがにたにたと笑いながら髭をいじり、頑張りましょうっ、と気炎を上げている。
レグルスはシモーヌに乗せられたかと勘繰ったが、彼女の笑顔を見ればそんなことはどうでもよくなり、手付かずだったコーヒーに手を伸ばした。
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