第4話 十数年後の少女

 むかしむかし、人が石と火の力を借りて暮らしていた頃。人は文字を持たず、見たことや聞いたこと、思いついたことをすぐに忘れてしまいました。知識を司るミネルウァ神はそれをかわいそうに思い、文字の書き方を教えてあげました。

 人はそれをとても喜び、知っていることや新しく考えたことを次々と文字に残し、お互いに教え合いました。

 そのおかげで、人はたくさんの子供を育てられるようになり、大きな街がいくつもできました。

 でも、人はお互いに争うことが増え、本を使って、武器の作り方や戦い方を教えるようになりました。そして、食べたり売ったりするために、他の生き物を楽にたくさん殺せる方法を考えて、それを本にまとめました。

 これを見て悲しんだミネルウァ神は、何人かの賢い人を選び、本を管理し、必要なことを必要な人にだけ教えるようにしました。

 すると、人はむやみに新しい武器を作ることをやめて、平和な時間を過ごせるようになりました。そして、人は平和に感謝して神殿を造り、賢い人達が集まって本を書いたり、皆に勉強を教えたりできるようになりました。

 これを見て安心したミネルウァ神は、毎年一番賢い人達を神官にするようにと言って、神様の国へ帰っていきました。


『ロブリア王国民のための神話集』より「ミネルウァ神殿の始まり」から抜粋




 窓から差し込む春の日差しが上品な意匠の椅子を照らし、ニスで仕上げられた背もたれの縁と肘置きが艶やかな光沢を放つ。陽光を背にした椅子には若い女が座り、権威の象徴――真紅に染めた絹のローブの肌触りを楽しみながら、ほどほどに冷ました紅茶を飲んでいる。

 癖のある茶髪を弄ぶ指はペンの当たる所が硬くなっているが、それでも柔らかく、細長い。座り方、茶を飲む仕草、端正な顔のどれも楚々とした美しいものだが、鳶色の瞳には傲慢な毒が見え隠れする。

 女は深く息を吐くとカップを置き、卓上の地図を眺める。地名の下に記されているのは、そこを治める領主の名。女の視線はその内の一つに注がれている。

 伯領リートゥスデンス、サカリアス・ファン・バルカルセ。

 古より経済と文化の豊かさを誇る、港町リートゥスデンス。そして、無数の小貴族に分割されたロブリア王国において、南部の名家として権勢を振るう大貴族、バルカルセ家。

「面倒な国」

 これから相対すべき敵のことを思い、薄い唇から独り言が漏れる。もう一口と茶杯に手を伸ばした所に、扉を叩く音。

「入って」

 扉が開き、黒いローブの男が現れた。

「先日リートゥスデンスに派遣した傭兵の戦闘詳報です、猊下」

「そう、ありがとう」

 女は鳥を追うような速さで報告書に目を走らせ、ページを繰る。

「やっぱり銃の扱いは凄い。我々の兵でも、同じ数で正面からは辛い戦いになりそう。しかしどうも、いつも騎兵が少ないように。小競り合いには参加させないのか、それとも本当に数が少ない?」

「あれ程の勢力で騎兵が貧弱というのは、少々……」

「不自然」

 柔らかな唇から言葉が漏れ出し、鋭い視線は忙しなく左右に動く。女は南部の詳細な地図を広げ、農地、材木林、牧草地と、土地の分類に目を走らせる。

「リートゥスデンスの周りの農学者に、干し草の生産量を何年分か問い合わせて。大体でいいから。あー、あと、値段も」

「可能ですが……何をお考えで?」

「馬のことなんだけど、餌が足りないか、買えるけど割高とか、そういうことは考えられない? あそこは牧草地帯じゃないし、農地だって広いけど人口もかなり多い……六万近い領民とその家畜を食べさせて、その上に騎兵? ちょっと、それは無理でしょ。絶対周りから、それなりの量の飼料を買ってる」

「わかりました、確認させます」

「輓馬だらけで、人が乗る馬がいないのかも知れないけど」

 女の目は報告書に戻る。

「この、傭兵というのは?」

「詳細は不明です。突如制服を着ていない中隊規模の騎兵が出現、馬上射撃と突撃で、我が方にかなりの損害を」

「そう」

 報告書を机に置き、男に顔を向ける。

「ありがとう。威力偵察は嫌がらせを兼ねて続けるから、その準備を」

「かしこまりました」

 男が退室し、冷めた紅茶に口をつけた。完全に冷めて香りを失ったそれは、彼女にとって許し難い代物になっていた。

「冷めた。バルカルセのせいね……まったく」

 女は一人で毒づき、再び報告書を手に取った。そこに、男と入れ替わりに入室した、黒いローブの女が控えめに声をかける。

「あの、本山からいらした自然科学院の方が外にお控えに」

「モニカ、なぜすぐお通しせずに? 失礼でしょう」

 大きな声を出したわけではないが、声音の鋭さにモニカの肩がぴくりと跳ねる。

「申し訳ありません。その、お約束がないので外で待つと……」

「すぐにお通しして」

 モニカが黒衣に映える赤茶色の髪を揺らしながら慌ただしく扉を開け、客人を招き入れる。女はあなたウサギに似てるのね――と言いかけたのを引っ込め、立ち上がって笑顔を作る。

 客人の中年の男もまた黒いローブを着ているが、院に属する証、女神ミネルウァを象った金のブローチが胸に輝く。男はマテウスと名乗り、慇懃に頭を垂れた。

「ご就任おめでとうございます、猊下」

「アウスティア教区の大神官ソフィア・エスコフィエです。院の方とはぜひ、良い関係を」

 ソフィアもまた、最大限の注意を払って手本通りの辞儀をする。

 立法院、人文学院、そして自然科学院の三院は、法律の作成や見直し、神官の研究の評価やとりまとめを行い、自らの専門領域において各教区の大神官に助言を与える。

 大神官は管轄教区のあらゆる事に対して権限を持ってはいるが、実際の運営には専門家の知見が必要である以上、院の人間を軽んじるわけにはいかないのだ。

「本日はご挨拶と合わせてこちらを猊下に」

 マテウスの声に続いて、重そうな布袋を抱えた男達が部屋に入る。執務室の床に整然と袋が並べられ、順番にその口が開かれた。

「これは、あぁ、論文集ですか。さすが仕事がお早い」

 袋に入っていたのは無数の本。厚さは様々だが、一様に皮張りの表紙に金箔で題名が押されている。どれも去年の秋口までに神官が執筆した論文で、神殿の権威の源となるもの。

「今年はどれも質が高く、瑕疵もなかったので。特に、こちらの教区のマリッツ室長は実に素晴らしい。アウスティアは長年優れた研究者に指導されてきましたから、積み重ねたものがあるのでしょうか。あぁ失礼致しました、猊下、軍のご出身でしたな。誤解をなさらないで頂きたい、私としたことが」

 わかりやすい当てつけだろうと理解しながらも、ソフィアはとりあえずの誠意として、柔和な笑顔を張り付ける。

「お気になさらず。軍は王国の顕学たる皆様をお守りする盾ですので。バルカルセ家への対応はいささか手に余るようでしたが、そうした問題は我々が今後も抑制していきますから、安心して研究に没頭なさってください」

 ソフィアは純粋に軍出身の大神官として誠意を見せたつもりだったが、何故かマテウスの顔が少しだけ不機嫌そうなものに変わった。

「あ、どうぞお茶でも。本当は新しくお出ししたいのですが、あまりお待たせするわけにも参りませんので、ご容赦を」

「いえ、突然お伺いしておりますから」

 マテウスは人夫を下がらせると、茶器の準備にパタパタと動き回るモニカを横目に、ゆっくりと椅子に座った。茶が注がれたカップを手に持つと、目の高さまで持ち上げて柄を眺め、溜息をつく。

「こんな見事な赤絵は本山でも中々……やはり南部は違いますね、良いもので溢れている」

「リートゥスデンスから流れた物ですが」

「かの伯爵ですが、そこまで厄介なのですか? 禁書法撤廃に向けた討議を求めていると聞いていますが、そんなものねじ伏せてしまえば良いのでは」

「残念ながら」

 ソフィアは声を落とし、肩を竦めてみせた。

「相当厄介です。例えばですね、ご存知かも知れませんが……二百年前の王国による半島南部の平定、これは、バルカルセ家によって完成されました」

「と言いますと? 歴史は専門外で」

「我らがロブリア王国は、二百年前の時点で大陸の大部分と、半島の北側は抑えていました。が、南側、そして海は、アルビア王国の支配下でした。しかし、アルバ人の旧家であるバルカルセ家が、大軍を引き連れてロブリアに寝返った。王国はバルカルセ家の軍事力を助けに半島支配を完成させ、褒美として伯爵の地位を与えた」

 マテウスが黙って話を聞こうとしているのを見て、ソフィアは話を続ける。

「今ではかつてのアルビアのように、東洋、南洋との貿易を牛耳り、金と兵隊を揃えています。圧倒的な経済規模と、五千は超えるよく訓練された常備軍。一貴族としての力は、王国随一です」

「それは厄介だ。歴史は繰り返しますね」

「しかし、我々は前進せねばなりません」

 ソフィアは冷めた紅茶に手を伸ばす。肩に垂らした髪が前に落ち、緩やかな曲線を描く。

 苛立たしげに持ち上げられた紅茶の水面は大きく揺れて、余韻も何もないかのように喉の奥へと落ちていく。

 彼女は持ち上げたのと同じ速度でカップを戻しかけたが、途中で思いとどまったように手を止めて、優しい手つきでソーサーに戻した。

「王家の力が弱く、バルカルセ家のような辺境貴族が力を振るう。これでは二百年前に逆戻り。そうさせないために、我々で押さえつけねば」

「大教堂で何度も教わったのを思い出しますね。ミネルウァ神殿は王国支配の要、神官たるもの選良としての自覚を持ち、民衆に道を示して王家を支えよ、と」

 マテウスは懐かしむように目を細め、大教堂で繰り返し教えられた、神官の心構えを示した聖句を語る。

「えぇ、立法、研究、教育は我々の聖域です。しかし、バルカルセ家はこれに踏み込もうとしています。もちろんそう上手くはいきませんが……しかし字を読み、計算に長けた者は多い。時々領内で測量する部隊がいるとの報告もありますが、恐らくは砲兵隊が地図を作っているのでしょう。砲兵は、教育の充実なしでは数が揃いません」

「それは、嫌な話を聞きました。商路を絶って孤立させるのも難しいでしょうね」

「えぇ、リートゥスデンスの代わりというのは、そう簡単には。それでも金と物の流れを抑える必要がありますから、あれの相手は金がかかります」

 マテウスは苦しみを分かち合うような顔を作りながらも、金、という言葉にぐっと身を乗り出す。

「お辛い状況にありますな、本当に。ところで猊下、忘れてしまうところでしたが……出費と言えば、研究予算について猊下のお考えをお聞きしたいのです」

 節度を保ったにこやかな顔で、作りの良い鞄から一巻きの羊皮紙を取り出し、卓上で広げてみせる。そこには研究室の名前と割り当てる予算が記されており、一番下にはソフィアの署名が見える。

「えー、先日頂いた予算案ですが……農学の割当てをかなり増やされています。何か、具体的なお考えが? いえ、こちらには優秀な方が多くいらっしゃいますのでつまらないことを申し上げるつもりはないのですが、審議のこともございますので、一応」

 ソフィアは背筋を伸ばし、斜めに見上げるようなマテウスの視線をまっすぐに受ける。

「それはいくつかの商業作物、特に茶の栽培の研究用です」

「茶ですか、中々先進的な」

「前任の話ですが、伯が茶の栽培のために我々の助力を求め、それを危険視してリートゥスデンスから農学者を引き上げました。一旦は動きを止めたようですが、それで諦める連中ではないでしょう」

 彼女の視線は地図に落ち、広大な王国――平地、荒れ地、山、湿地と、土地の良し悪しを問わずに領土を広げ、人の割には畑が少なくなりつつある国を視界に収める。

「その程度と思われるかもしれませんが、王国はすでに穀物の輸入が増え、一方で貴族達は油や酒、食用の家畜と金になるものを作らせ、穀物の生産を減らしています。あるいは、作ってこそいるものの、向かう先は家畜の胃袋であって人の口ではないこともある。この状況が進んだ先は、悪夢しかありません」

 悪夢という言葉に気を引かれたのか、マテウスはソフィアに尋ねるような目を向ける。ソフィアは鈍い音とともに右手を地図の上の海に置き、問題がそちらにあることを示す。

「王国が食料を満足に作れなくなった状態で、港や国境沿いの道路を抑えた貴族はどうするか? 当然増長し、あらゆる利権を求めるでしょう。そして秩序を乱していく。今の王家には、それを止める力はありません」

 彼女の声が少しだけ熱を帯び、置かれた右手が握りこぶしに変わる。

「商業作物偏重を正すには、保護と統制が必要です。いよいよ歯止めが効かなくなる前に栽培技術を我々で抑え込み、儲けの良いものの栽培を認定制とします。それで吸い上げた金で、穀物生産を支援する仕組みを作る」

 勢いよくカップを持ち上げ、冷め切った紅茶を飲み干す。一瞬だけ渋い顔になるが、すぐ元の冷めた表情に戻り、柔らかな椅子に背中を預けた。

「それで大体のところを統制すれば……貴族の顔色を窺わなくても、王国は飢えません」

 ソフィアが置かれたカップから目を上げると、マテウスは姿勢を正して笑顔、先程よりも自然な表情を見せていた。

「正直に申し上げて……驚きました。てっきり軍事的な観点からのお話に終始すると思っていたのですが。さすが、最も若くして大神官の座に就かれたのも納得です」

「軍は」

 ソフィアは明るい表情で軽く手を挙げ、言葉を遮る。

「傭兵連中と違って、善き政治を行き渡らせるための道具ですから。戦ったその先のことも、それなりには考えるものです」

 院の人間に評価されたことで、ソフィアの胸中に研究者にも劣らないという満足感と、大神官としての未来に対する安心感が広がった。

 満足感から機嫌を良くし、そして悪気なく言葉を重ねる。

「それに、士官でも上位になると色々と動き回りますから、研究室の中にいるより知見も広まります」

「さすが……軍出身の方は違いますね」

 ソフィアはマテウスの顔と声が微妙に強張ったのを感じたが、何が気分を害したのかまったくわからず、少しだけ首を傾げた。

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