稚児のそら寝 序文②

 家が見えなくなると観念したのか、末の子の抵抗する力は弱まった。と見せかけて何度か逃走を図ったが、全て力自慢に取り押さえられてしまった。

 そうこうしながら車に揺られること2日、夕刻にやっと比叡山延暦寺の仏門に至った。門をくぐる際、力自慢は契約通り暇を申して車から降りていった。そして、一瞥すらせず立ち去っていった。寺領内に入ってからは、迎えの僧達に従って髪を整え服を着替えて稚児としての日課や振る舞いを教わった。寺での過ごし方の説明の後は、翌日から世話役となる僧と顔合わせがあった。よりにもよって、世話役は家に迎えに来た時に頭を叩いて遊んだ僧であった。

 質素すぎる夕食を食べながら、稚児は早くも帰りたくなった。甘味が恋しくなった、嫌々ながら遊んでくれる使用人達が恋しくなった、甘やかしてくれる家族が恋しくなった。

 稚児は僧達と雑魚寝しながら早くも逃げ出す算段を立て始めた。門は僧兵が交代しながら番をしているので常に人の目があった。それなら門塀のない裏山からはどうだろうか。いや、道なき山を下りるのは危険すぎる。比叡の山には熊が出るという話もある。ならば、門の脇の塀を乗り越えるしかない。塀を越えたら塀伝いに道まで出て、来た道を戻ればいいのだ。

 稚児は自尊心だけでなく体力と行動力も人並外れていた。早速その晩実行に移したのだ。僧侶の朝は早い。そのため、夜も早く寝る。僧達が寝静まったのを見計らって稚児は宿坊を抜け出した。連れて来られる時、門塀の一部が崩れかかっているのは確認済みであった。稚児が塀に近づいた時には門番以外に人影はなかった。門番の動きに気をつけながら崩れかかった塀に飛びつき、一息に飛び越えていった。しめた、誰にも気づかれずに首尾よく逃げられた。と塀を飛び越えながら得意になった。

 塀の外に着地する刹那、目端に一つの灯りが飛び込んだ。道に向かって駆け出そうと顔を上げた稚児の目の前には、例の世話役の僧が薄く笑みを浮かべながら立っていた。

「貴族の子が連れて来られた日はいつもこうだ。この時間まで待ってから門塀を越えたのは頭を使ったつもりか。だが、この程度の知恵を働かせるものならごまんとおった」

 自分の行動がよくある子どもの浅知恵であったかのような言葉に、稚児の顔は真っ赤に紅潮した。首根っこを掴まれて宿坊まで引き戻される間も抵抗する気が起きなかった。宿坊に戻ってからも、あの僧の言葉が頭の中で何度も木霊して寝つけなかった。これが彼の初めての挫折体験であった。

 知恵の浅い子どもだと思っているならその裏をかいてやろう。そう思い立った稚児は、時間を置いてから再び門塀へと足を向けた。同じ場所では相変わらず見張られているかもしれない。先程とは違う、飛び越えられるかどうかというくらいの高さが残っている部分に飛びついた。帰宅への執念か、僧への意地か、普段なら届かない高さまで手が伸びた。今度は塀の上から外の様子をうかがった。塀の外には灯り一つなく、暗闇の中には何者か分からない動物の鳴き声が響いているだけであった。ほれ見たことか、と内心でほくそ笑みながら塀を飛び降りた。

「これもまたよくあることだ。もそっとよく頭を働かせんか」

 着地と同時に背後の塀の方から声がして、心の臓が口から飛び出るところであった。例の僧が暗がりの中で灯りをつけた。

「裏をかこうとして場所を変え、念のため塀の上から外の様子を見てから降りてきた、というところか。その程度の工夫で満足するとは、まだまだ青いの。だが、一度で諦めないのは性根が据わっておって悪くない」

 僧から脱走を試みたことを責められることはなかった。それどころか、どこか褒めているような口ぶりであった。その僧の余裕に満ちている口ぶりが、かえって気に食わなかった。まるでこの程度の些事は取るに足りないと言われているようであった。結局、その日は夜が明けるまでにもう三度捕まった。まるで行き先を予見しているかのような動きと口ぶりであった。五度目の失敗の折には稚児も流石に観念した。ここまで他人に手玉にとられたことはなかった。最後の方には、どうやって褒められるか楽しみになっている自分がいた。

 夜通し脱走を図ったおかげで、その日のお勤めは睡魔との戦いの連続であった。そんな稚児を嗜めながら僧はいつもと変わらない様子で精進していた。これも稚児が昨夜観念した理由の一つであった。いくら脱走を試みても僧の様子は変わることなく、こちらが消耗するばかりで目的は達成されそうにないと判断したのだった。

 それでも簡単には諦めきれなかった。稚児は機会を見つける度に昼夜を問わず脱走を試みた。しかし、全て僧に先回りされて失敗した。完全に見透かされていた。何度も繰り返すうちに、脱走から捕まり批評されるまでが一連の流れとして恒例行事のようになっていった。

「お前さんの動きは全部お見通しよ。さっさと諦めた方が楽になるぞ」

 同宿の僧達が忠告とも慰めとも取れることを口にした。稚児はそんなことを聞く度に脱走の決意をより一層固くするのだったが。

 いつまでもあの僧に手玉に取られているのが我慢ならなかった。しかも、毎回のように脱走の手法について批評されるのも悔しさに拍車をかけた。一度でいいからその鼻を明かしてやりたい、その一心で脱走を繰り返していたのだった。もはや、脱走した後は家に帰るのだということなど頭から抜け落ちていたのだった。

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