小説で読む教科書古典シリーズ

加藤やま

稚児のそら寝

稚児のそら寝 序文①

 今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざ、かいもちひせん。」と言ひけるを、この児、心よせに聞きけり。さりとて、し出ださんを待ちて寝ざらんも、わろかりなんと思ひて、片方に寄りて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでにし出だしたるさまにて、ひしめきあひたり。

 この児、さだめておどろかさんずらんと、待ちゐたるに、僧の、「もの申し候はん。おどろかせたまへ。」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへんも、待ちけるかともぞ思ふとて、いま一声呼ばれていらへんと、念じて寝たるほどに、「や、な起こしたてまつりそ。をさなき人は、寝入りたまひにけり。」と言ふ声のしければ、あな、わびしと思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、ひしひしと、ただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、無期ののちに、「えい。」といらへたりければ、僧たち笑ふこと限りなし。


――むかしむかし、比叡山に稚児がおりました。僧たちが退屈な夜に「牡丹餅を作ろう」と言うのを、この稚児は耳聡く聞いていましたが声を掛けられるまで寝たふりをしておりました。

 すると、1人の僧が「起きなさい」と声を掛けてくれました。稚児は喜びましたが、もう一度呼ばれてから起きようと思い寝たふりを続けました。

 その時「あの子は寝入ってるから起こしてはならん」という声がして、僧たちが牡丹餅を食べる音ばかりがしたので稚児はどうしようもなくなってしまいました。

 しばらくした後、意を決して「はい」と返事をすると僧たちは大笑いしてしまったのです。――



 その子は従二位の父親の元に生まれた三男坊であった。そして、末の子でもあった。

 他聞に漏れず、両親はもちろん兄姉達、乳母や使用人に至るまであらゆる人々がその末の子を珠よ月よと宝石のように可愛がり続けた。これまた例に漏れず、可愛がられるばかりで育てられた末の子はその自尊心をむくむくと膨らませ続けた。六つを数える頃には誰にも手がつけられない我儘ぶりを発揮していた。乳母や使用人は生傷が絶えず、壁や障子に穴を開ける、動物をいじめる、壊した調度品で家が買えるのではないかというが使用人達の噂であった。


 幼い時分は何をしても可愛い、可愛いとしか言わなかった両親も、この頃は何かと理由をつけては家を空けるようになった。兄や姉もうんざりして近寄らなくなってしまった。それでも乳母や使用人は両親の逆鱗に触れることを恐れ、その子を叱るものはどこにもいなかった。そんな様子だから、辞めていった使用人は数知れず、月が変われば人も変わるといった具合であった。


 ある日、父親が珍しく家に残っており、末の子と遊ぶことにした。父親が相手だろうと我儘ぶりは平時と何ら変わらない。悪行の限りを尽くして、遂には父親が大切に育てていた鷹を放ってしまったのだった。鷹は二度と戻らなかった。これには父親も流石に頭にきた。もとより乳母や使用人は末の子の悪行を父親には陳情し続けていた。もはや置いてはおけぬと父親はこの子を家から出す決意を固めた。


 比叡の山には毎年参詣しているツテがあった。早速知り合いの僧に頼んでみると、丁度稚児の受け入れをしているようだった。一度入ったら数年は帰ってこれないらしく、家のものにとっては好都合だった。そこからは流れるように話は進み、翌週には延暦寺に向けて出立する運びとなった。準備は末の子には秘密裏に進められた。使用人が隠れて荷物をまとめ、その子には当日まで伏せられていた。


 気取られぬままその日を迎えた。

 寺からの迎えの僧が来ても末の子はまだ気付かなかった。あまつさえ僧の頭を叩いて遊んでいる姿すらも見られた。全く油断している末の子の目を盗んで、使用人が荷物を運び込み供回りの者も乗り込んだ。ちなみに、この付いていく者は末の子に愛想を尽かして今月で辞めることになっている力自慢であった。大いに色をつけた給金と引き換えに最後の任として送り届ける仕事を申し承ったのだ。

 後は末の子を乗せるだけという段になった。ここにきて何かを察した子が理由をつけて引っ込もうとするのを使用人達があれこれ手を尽くして引き留めていた。いつになく必死で相手する使用人達はもはや執念であった。なだめすかされながら使用人達に引き連れられ、車の前に立った時に子は全てを察した。察した瞬間に全力で逃げ出したが、例の力自慢に捕まった。子は力の限り逃走を図った。しかし、色をつけた給金の力は偉大だった。びくともしない力自慢にはがいじめにされながら車に乗り込み、僧達に囲まれて出立した。

 段々と家から遠ざかっていく末の子を、使用人達は涙ながらに見送った。実際に涙を流す者もいた。その姿を見た子の目にもうっすらと涙が浮かんでいた。しかし、子には使用人達の涙の真意を知る由はなかった。


 子を乗せた車の姿が見えなくなると皆すぐに仕事に戻っていった。その目には一雫の涙も残っていなかった。

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