第46話 【天才少年視点】聖女を手に入れる決意

※アノン視点です。次話からフィーネ視点に戻ります。

――――――――――――――――――――


 聖公国のブレイズ男爵家の三男として生まれた僕には、前世の記憶があった。

 といってもその記憶はおぼろげで、曖昧だった。


 二十人くらいが働く日本の小さな町工場。そこで前世の僕は皆をまとめ上げていた。

 隠居した父親から引き継いだ小さな城だ。引き継ぐ前は女遊びに明け暮れていたけど、従業員のため我慢して働いた。


 でも借金か何かで経営が立ち行かなくなり、大企業に買い叩かれて、僕はあっさりと無職になった。


 そんな、救いもオチもない記憶だ。


 ただ、従業員を守れなかった悔しさ、せっかく女遊びを我慢したのにという後悔の念は、呪いのように引き継がれた。


 この異世界に転生した僕は、自然と力を欲した。

 最強になれば皆を守れる。女だって好き放題手に入れられる。


 幼い頃は、自分の中にある女に対する執着の意味が分からなかった。

 しかし、川で水浴びをする三歳上の姉の裸を見たときに、唐突に理解した。ああ、僕はこれが欲しいんだと。


 強くなって、全部手に入れてやる。


 そんな情動に突き動かされるように、僕は体を鍛え魔法を磨いた。そして、あっという間に強くなった。周囲は僕を「天才」だと褒めそやした。


 そして十一歳になったある日、僕は「魅了」の力を手に入れた。

どの系統にも属さない、聞いたこともない魔法だった。前世の情念が、術を開眼させたのだろうか。


 女性の心の奥――魂のようなものに直接作用し、僕のことを欲してしまう体に作り変える。そんなとんでもないチート魔法だった。


「アノン、アノンッ、はやくっ……んッ、はやくきてぇ……あぁんっ」


 僕の初体験の相手は、必然的に姉だった。


 姉とは、狩りをするために入った森でよく絡み合った。

 姉の反応を見て、魅了魔法を少しづつ改良する日々だ。


 そんなある日、いつものように入った森で僕たちは魔獣に襲われた。


 姉は、目の前で僕をかばって死んだ。


 ――また、守れなかったのか?


 その声は前世の自分か今の僕か、どちらが発したのかは分からない。

 ただ、体中が焼ききれるような怒りと悔しさであふれ、いつのまにか魔獣を切り刻んでいた。


 そうして僕は魔法の力を覚醒させた。



 それからは、これまで以上に鍛錬に明け暮れた。六系統のうち、前代未聞の五系統をマスターした。


 でも治癒魔法だけはまったく上達しなかった。


 何度か聖女見習いを魅了させて、魔法の秘訣を聞いたり練習に付き合わせたり、抱いたりもしたけど駄目だった。


 こんなんじゃ皆を守れない。苛立ちだけが募る日々。


 そんなとき、教皇様から文が届いた。


 内容は簡潔で、「南東の街にフィーネという聖女がいるから手伝いなさい」というものだった。


 教皇様は不思議な導きの力を持つという。

 このフィーネという女性が、僕に治癒魔法を教えてくれるのだろうか?



 司教貴族の屋敷で会ったフィーネさんは、黒髪が美しい聖女だった。


 街で聞いた噂とは容姿が少し違うが、「信じがたいほどの美女」というのは一致していたのですぐに分かった。

 確かに、こんなに美しい人は前世を含めても見たことがない。


 この人が、僕に治癒を教えてくれるんだ。


 条件反射的に、彼女へ魅了魔法を使った。

 一緒にいたエラと呼ばれる女騎士も美しかったから、同じように魅了を掛けた。


 聖都への旅は楽しくなりそうだ。そう思ったのだが。


「――その代わり、教えるのはこのポックルちゃん!」


 フィーネさんが奇妙なことを言い出した。


「ワ、我に任せヨ」


 全身白づくめのポックルとかいう人が、くぐもった声で胸を張る。

 カタコトの口調で、異国出身だというのがうかがえた。


 声色と自己申告から一応女であるらしいのだが、なんとこいつが僕に治癒を教えるらしい。


 勘弁してよ。


 僕は早く最強になりたいのに。

 そのために教皇様のお導きに従って、聖女直々に治癒魔法を教えてもらうためにここまで来たのに。


 面倒くさいことになったな。



 次の日、フィーネさんとエラさんと宿の中庭で訓練をしていると、かなり経ってからポックルが降りてきた。


「ま、待たせたナ!」


 待たせたな、じゃねーし。


 ああイライラしてきた。

 魅了の影響とはいえフィーネさんとエラさんは僕に合わせてちゃんと起きてきてるのに、なんでこいつはこんなにノンキなんだよ。


 あー電撃魔法でもぶっ飛ばしたい気分だ。


「では、宿場町から少し離れたところに丘があるので、そこで治癒魔法を教えてください」


 あのへんなら、街にも影響ないだろ。


 丘に向かう道すがら、ポックルは遅い足取りで、肩で息をしながらゆったり付いてきた。


 どんくさ。


 こんなのに魔法を教われだなんて、フィーネさんは何を考えてるんだろう。

 いや魅了魔法に掛かっている以上、僕のためを思っての言動なんだろうけど。


「デ、では、修練を開始スル。マズハ、得意な術を見せてくだ……クレ! 魔力の、流れを見ルのダ!」


「わかりました」


 デカいのを一発お見舞いしてやる。


 特大出力の電撃魔法を空に放つ。

 無数の稲妻が枝分かれして空に広がっていく。このレベルの攻撃魔法を打てるのは、大陸でも僕くらいのものだろう。


 ふう……少しスッキリした。

 あ、ポックルのやつ腰抜かしてら、ほんとどんくさいな。


「ポックルさん、立てますか?」


「ありが……オ、恩にキル!」


 ポックルの手をぐいと引っ張り、距離が近くなる。

 その瞬間、ふわりと甘い香りがした。


 え、これポックルの……匂い?

 花蜜を濃縮したような、鼻から脳髄までを蕩かしていくみたいな、たまらない香りだ。


 この距離だとポックルのフードの内側が見える。

 唯一隠れていない目元……吸い込まれるような青い瞳だった。

 くりっとしたアーモンド型の目、二重のまつ毛は長く、思わず見惚れてしまう。


 てかうわっ……手、すごく柔らかい。

 すべすべで肌触りが良くて……。


「ドウした? 体調でも悪いの……カ?」


「い、いや、手がやわ……いやいや、なんでもないです!」


「ソ、ソウカ……」


 慌てて手を離す。


 なんだったんだ今の。

 胸がドキドキして、体がソワソワする。

 

 でもそんな浮ついた気持ちは、ポックルの一言で一気に暗いものになった。


「アノン……には、祈りがたりナイ」


 僕の治癒魔法を見て、あろうことかそう言い放った。


 僕がどれだけ皆を守るために、最強になるために祈ってきたか、こいつは知らない。

 治癒魔法さえ使えれば僕は姉を守れた。その身を刻むような後悔を胸に、僕がどれほど祈ってきたのかを。


 でも、続いてポックルから聞かされた指摘にハッとした。

 

「アノンは、食事のときモ、風呂に入っているときモ、寝テいるきモ、ト……トイレにいるときモ、常に自分や周りガ、健やかに暮らせルようにと、祈り続けるコトができるカ?」


「……そこまででは、ないですが……」


 常に周りの幸せを願い、祈り続ける。それが治癒魔法を会得する秘訣だという。


 一方の僕はといえば、「僕に力があれば」「僕が」「僕の」と、結局は自分のことばかり考えていた気がする。


 祈りの方向性が、百八十度違っていたことに気付かされた。

 しばし呆然と考え込む僕に、ポックルはさらに驚くべきことを告げた。


「我……ほどとはイかないが、デキるようになる裏技もアルにはアル」


「裏技!? 教えてくださいポックルさん!」


「デワ、まず服を脱ぐのダ」


「……はい?」


 なぜか、服を脱いで正座をする僕。そして背後から忍び寄るポックル。なんだこれ。


「少シ、さわるゾ」


 両手でピタリと背中に触れられ、撫でられた。

 さっき握ったあのすべすべした手の温もりを感じて、また鼓動が早くなる。

 首の後ろあたりにポックルがおでこをくっつけてきて。


 ゾクン。


 全身が痺れるような心地よさに、思わず肩を震わせてしまった。


「ごめん、寒い?」


 唐突に聞こえた優しい声に、心臓が締め付けられる。

 カタコトじゃない、透き通った声。 


 脳みそをくすぐるような甘い響きがあって、しかも本当に僕のことを心配してくれているような優しさを感じさせる声色。


 そういえば、姉さんも魅了魔法を掛ける前は、僕にこんな風に話してくれていたような。


「………………いいえ」


 僕の顔は真っ赤に染まっていたと思う。


 そして、その後に起きたことを僕は一生忘れないだろう。


 あんなに苦労した治癒魔法が、いとも簡単に使えるようになっていたのだから。


「で、できた……できたよポックルさん! ああ、できた!」

「ヤッたナ……」


 僕の、ポックルへの評価は完全に覆っていた。


「あの、ポックルさん……いや師匠。いろいろと無礼な振る舞い、すみませんでした。それと、あ……ありがとうございます」


 師匠。これからこの人は僕の師匠だ。


 距離が近くて、いくら甘えてもいい……姉のような存在。

 この人も、欲しいな。


 僕は無意識に魅了魔法を使っていた。


「で、師匠、僕はどうですか?」


「ドウですか、とワ?」


 あれ?


 もう一度掛けてみよう。今度はフルパワーで。


「あれ? なんかお腹のあたりがジンジンしてきたりとかないです?」


「イヤ、特に問題ナイが?」


「え、ええぇえ! ……師匠って女性なんですよね? 不思議な人だなぁ」


 どうなってるんだ!?


 防護魔法とかで抗えるような魔法ではないはず。


 まさか、女ではない……?


 これはどこかで確かめないと。

 たしかこの先には温泉があったはず。そこで裸を見れば……。


 うっ……女かどうかも分からない相手にこの僕が勃つなんて。





 それからも師匠には治癒魔法を教わり続けた。おかげで僕はどんどん上達した。


 そして事あるごとに彼女へ魅了魔法を掛けてみるのだが、まったく効果がない。

 やはり女かどうかを直接見て確かめないと。


 ようやく温泉街に到着し、一直線に目当ての宿に向かう。


「今日はここに泊まりましょう! 混んでないですし、ここの露天は有名なんですよ!」


 特に混浴の露天風呂が。


「ポックルちゃんは先に温泉を楽しんできたら? その、人がいると入りづらいだろうし。私たちはアノン君と部屋で待ってるからさー」


 僕はフィーネさんに頼んで、師匠を先に風呂に入れさせることにした。

 

「ウム……行って参ル!」


 よし、作戦開始だ。


 フィーネさんとエラさんには、先に部屋へ向かわせる。

 僕は宿を抜けて近くの森に入り、ぐるっと回り込むんで宿の反対側――つまり露天風呂が見える場所まで行くと、気配を殺してゆっくりと近づく。


 師匠は防護魔法の使い手だ。

 よこしまな気持ちで安易に近づくと、その警戒網に引っかかる。距離感を見極めて慎重に近づかないと……。


 パシャンッ、と誰かがお湯に入った音がした。


 次第に白い湯気の向こうに人のシルエットが見えてくる。


 そこにいたのは心臓が止まるほどに美しい、女の子だった。


「うそだろ……」


 絶世の美少女なんて言葉では言い表せない。


 蜂蜜色のセミロングの髪が、濡れて艶めいている。

 後ろで髪を結んでいるので白いうなじがあらわになっており、ゾクっとするほど色っぽい。


 顔は……びっくりするほど目鼻立ちが整っていて、でもブルーの瞳には慈愛があふれている。

 ぷるんとした唇は柔らそうで、でも弾力がありそうで……本能的に口づけをしたいと思わせる。


 細くて白い首、綺麗な鎖骨の下へと視線をなぞっていくと、実った二つのふくらみが見えた。


 くそっ……お湯の光が反射してよく見えない。


 つい、近づいてしまう。


 すると防護魔法の警戒網に察知されたのが分かった。


 マズい!


 僕は全速力でその場を立ち去った。


「ハァ、ハァ……」


 師匠の裸、衝撃がすごかった。


 美しいのだろうと思ってはいたけど、そんな次元ではなかった。フィーネさんが霞んでしまうほどの、まさに女神級の美少女だ。


 いや、多分師匠こそが聖女フィーネだ。間違いない。

 何か事情があって、黒髪の聖女がフィーネの振りをしているんだろう。


 きっと僕の魅了が効かないのも彼女の聖女としての力のせいだ。

 どうにかしてフィーネを……師匠を手に入れたい。


 そんなとき、ゾワリと全身が粟立った。

 この気配は――。


『魔獣だー! 魔獣が出たぞー! 聖騎士団の応援を呼べー!』


 濃厚な魔獣の気配が近づいている。それも複数。


 僕はすぐに宿へ戻った。





 襲ってきた魔獣はけた違いの強敵だった。

 

 僕が倒しに行くというと、魅了に掛かっている黒髪の聖女やエラさんはまだしも、師匠まで付いてくると言ってきた。素直に嬉しかった。


 でも、彼女たちには後ろに下がってて欲しいとお願いした。もう姉さんの二の舞は嫌だ。僕は、絶対に皆を守ると誓った。


 しかし魔獣と激突したとき、黒髪の聖女を護り切れず危険にさらしてしまった。


 結果的には倒すことができたけど、ギリギリだった。

 しかもまだ一匹、とびきりヤバい奴が残っているというのに、大きな手傷を負ってしまった。


 なにが「絶対に守りますから」だ。


「フィーネさん、すみませんが治癒魔法を掛けてくれませんか?」


 立っていられなくなり、黒髪の聖女とエラさんに肩を貸してもらった。


 あーあ、情けない。


 宿に戻り、少し体が楽になったので目を開けると、黒髪の聖女が泣きそうな顔で僕を見ていた。


 あの深い傷がほとんど治っている。ということは師匠も治癒魔法を使ってくれたんだろう。


「さすがフィーネさん……あの傷が治ってる。……すみません、格好つかなくて」


「ううん、そんなことないよ」


 黒髪の聖女が泣き笑いのような顔で手を握ってくる。その心底からの励ましが、魅了魔法によるものだと思うと泣けてくる。


 本当に格好悪いな、僕は。





 もう一度目を覚ますと、体の傷はすっかり癒えていた。

 すぐ側では、黒髪の聖女がぐっすりと眠っている。


 体の汗を流そう。

 黒髪の聖女を起こさないように、部屋を出る。

 

 師匠の寝ている部屋を見つめていると、扉が開いてエラさんが現れた。僕の存在に引かれてきたか、外の気配を警戒して出てきたのだろう。


「アノン殿、眠れないのか?」


「ああ、風呂に行こうかなって。エラも来る? 混浴だよ」


 魅了魔法に掛かりっぱなしのエラは、顔を赤くして付いてきた。





 エラの褐色肌は地黒だった。


「てっきり日焼けかと思ってたよ」


 お湯の中で、彼女の豊満なふくらみを揉みながら言う。

 鍛えられて引き締まった体なのに、胸はすごく柔らかくて驚いた。それに僕の手のひらではとても包みきれないほどに大きい。


「んッ……よく、間違われるのだが昔から、なんだ……っ」


 エラさんの裸体は、それはもう見事なものだった。

 美人だし性格も魅力的だし、僕の股間も元気よく剛直している。いつもだったら何も考えずに抱いていただろう。


 でも、妙に魅了の掛かりが悪い。それが気になった。

 普通の女だったら、もうこの時点で僕に抱いてとせがんでいるはずだ。


「エラさん、僕に抱いてほしい?」


「あっ、アノン殿っ……んッ、わからない……君のことは、悪く思っていないのだが……」


 これは心の奥底に想い人がいる証拠だ。僕の魅了でも塗り潰せないほど、強烈な思いを抱いているのだろう。


 それに、なんだか僕も抱く気にはなれなかった。

 今の僕の脳裏には、師匠のあの裸が浮かんで離れない。


 それにエラさんは師匠にとって大切な人だ。

 むやみに傷つけたら、きっと師匠は悲しむ。それは嫌だ。


「じゃあ僕はもう出るね。エラさんも風邪引かないうちに早く出たほうがいいよ」


「あ、ああ……そうさせてもらう」


 ふう……何か調子狂うな。

 どうしちゃったんだろ、僕。





「あ、おかえりー」


 部屋に戻ると、黒髪の聖女が起きていた。


「ただいま」


「もう立ち歩いて大丈夫なの?」


「ああ、もう大丈夫だよ。心配かけたね」


 黒髪の聖女の頬を撫でる。


「ん……なぁに?」


 くすぐったそうに目を閉じるので、思わず顔を覗き込む。


 エラのときは情欲を我慢できたけど、今度は我慢できないかも。

 この娘もむちゃくちゃ綺麗だし。


「君は聖女フィーネじゃないんだよね? 本当の名前はなんていうの」


「えっと……マイっていいます」


 すごく可愛らしい声だ。

 口調には気品と無垢さがただよっていて、きっとこっちがこの娘の……マイさんの素なのだろう。


 胸元に手を伸ばして揉んでみる。


「んっ……」


 うわ、この娘もすごく大きい。下手したらエラさんと同じくらいかも。

 師匠のときも思ったけど、聖女って着やせするんだな。

 

「んんッ……ちょ、これ以上はだめだよ……」


 マイさんが手を重ねて、力なく抵抗してきた。


「え?」


 抵抗された!?


 さすがに抵抗されたのは初めてだ。

 マイさんにも想い人がいるってことか。それもとびきり恋焦がれている相手が。


 ああ、気になるな。

 エラさんもマイさんも、こんな魅力的な女の子を夢中にさせる男って、どんな奴なんだろう。


 師匠にも、想い人とかいるのだろうか。


 ふと、絶世の美少女の顔が浮かぶ。


「あーそっか」


 多分、彼女たちに魅了が掛かりづらいのは師匠のせいだ。

 もちろんそれぞれの想い人の存在が大きいのもあるだろうけど、きっと師匠の天然の魅力が、彼女たちに術の掛かりを悪くしている。


 確証はないけど、なぜかそんな気がした。


「ははっ、ごめんねマイさん。じゃーおやすみ」


 僕はマイさんの頭を一撫でするとベッドに潜った。





 翌朝、凄まじい悪寒で目が覚めた。


 なんだこれ。


 死だ。

 死がいる。


 これは……深淵の魔獣の攻撃だ。


 じいっと死んだ姉さんが僕を見ている気がして、目が開けられない。

 体がガチガチと震える。


 恐い。助けて。


 ふと、甘くて心が落ち着く匂いがした。この香りは――。


「そこにいるのは、師匠……?」


「アノン、そうだよ」


 師匠の声だ。

 師匠、助けて。


 いや師匠を守るのは僕だ。

 でも嫌だ、死にたくない。


 くそ、心がまとまらない。


「師匠、深淵だ。あいつを倒すのは、無理だ……こわい」


「アノン、待っててね。師匠がバコンとやっつけてくるから」


「師匠、だめだ……!」

 

 師匠の気配がゆっくり遠ざかっていく。


 だめだ。師匠一人行かせるわけには。


 そういえば師匠は今、治癒魔法を自身に掛け続けていた。

 なら僕も。


 師匠のことを思いながら治癒魔法を掛ける。

 すると少しだけ恐怖が薄らいだ。体もわずかだが動く。


 これなら、師匠を助けに行ける。





 森のほとりに着くと、異形の魔獣が師匠にゆっくり迫ってくるところだった。死の気配が濃すぎて直視できない。でも。


「師匠、逃げて! そいつは心を喰らうっ」


 驚くほどの速さで足が動き、師匠の肩をつかむ。


「し、師匠はさがっ……て。ぼ、僕が……!」


 こわい。

 こわい……!


 けど、僕が師匠を守らなきゃ。


 すると僕の手に、師匠の温かい手が重なった。


「大丈夫だよアノン。おかげで踏ん張れた」


「へ……?」


 そこからは目を疑うような光景だった。

 師匠が規格外に強力な防護魔法を展開すると、その中で深淵が消滅していったのだ。


「師匠が、倒した……? え、ていうか師匠、顔みせ……」


 消えゆく深淵よりも、僕は師匠の素顔に釘付けだった。

 間近で見ると、心が持っていかれそうになるくらい美しい。それに……可愛い。


 目の前の美少女が、ふんわりと微笑む。


「うっ……」


 胸が苦しい。

 その笑顔は反則だ。


 思わず息を詰まらせていると、師匠がおもむろに僕を抱き寄せた。全身がふんわりとした柔らかさに包まれる。


 へ……?


 師匠が僕を抱きしめ……え? この胸に当たる柔らかい感触は……。うわっ、師匠のいい匂いが……。


 脳内が師匠の感触で混乱する中、耳元で甘い声がささやいた。


「来てくれてありがとう。君は格好いいね」


 その瞬間、僕は恋に堕ちた。





 翌日、僕は師匠に呼び出された。

 

 直感的に、僕がエラさんとマイさんに魅了を掛けていた件だろうなと思った。


 魔獣を倒した後、あの二人の魅了魔法がすっかり解けていたし。

 そんな芸当ができるのなんて、師匠以外に考えられない。


 なのに当の師匠は、僕が魅了を使ったことには気付いていない様子だった。


 じゃあ何の用件なんだと思ったが、どうやら魅了が解けて僕への態度が冷たくなった二人を見て、喧嘩でもしたのかと不安になったらしい。


 ほんと、師匠らしいな。

 

 そんな師匠があまりに可愛かったせいか、師匠に断罪されずに済んで安心したからなのかは分からない。


 気づけば、僕は師匠にキスをしていた。


 膝枕をねだり、寝たふりをしながら柔らかい太ももを触ってみたら、師匠が体を震わせて可愛い声を発するものだから、我慢できなくなったのかもしれない。


「……ん、ちょっ、アノ……」


 師匠の唇は想像どおり、いや想像以上に柔らかくて、ふんわりと甘くて、美味しくて……。


 師匠が……この娘が欲しい。


 すると師匠が力を入れて僕から離れようとした。


 嫌だ、このまま押し倒して……。



 ――!



 身の危険を感じ、咄嗟に飛び退いた。


 見れば師匠が防護魔法を展開しようとしている。


 ああ、やってしまった……。


「はぁっ、はぁっ……アノン、なんでっ…」


 師匠が涙目で見てくる。

 僕は胸がぎゅうっと苦しくなり、思いが口から滑り落ちた。


「すみません! 好きですっ! 僕、女性として師匠が好きなんですっ!」


「……へ?」


 師匠がポカンとしている。

 こういうとき最大限の謝罪を伝えるには……。


 ふっと前世の自分の姿が浮かんだ。あれは金貸しが催促に来たときだったか。


 気づけば、僕は頭と手を地面にこすり付けていた。前世の日本で何十回としてきた土下座だ。


「師匠が好き過ぎて、唇を奪ってしまいました! ごめんなさい! もうしませんから嫌いにならないでくださいっ!」


 師匠に嫌われるなんて僕は耐えられない。考えただけで頭が狂いそうになる。


「…………まあ、帰ろうカ」


 長い沈黙のあと、師匠はなぜかカタコトでそう告げると、てくてくと街に向かって歩き出した。


 あ、あれ?

 これはどういう反応なんだ?


 くそ、師匠の気持ちが分からない。

 こんなとき魅了が効いてくれたら聞き出すのは簡単なのに。


 師匠の小さい背中を追いかける。

 思わず手を伸ばそうとして、はたと気づく。


 あれ、そういえば。

 なんでさっき、すぐに防護魔法を発動しなかったのだろう。

 強引にキスまでしたのに。


 よこしまな気持ちが無かったから? 

 いや、自分で言うのもアレだが十分にだった。


 じゃあどうして。


 ……もしかして、師匠が拒みきれなかったから?


 そうか、寝ているときは自動で展開するような防護魔法も、起きているときは感情によって大きく制限されるんだ。


 本来なら自動発動してしまうような邪な行為でも、師匠に近しい人が懇願するか何かして、師匠も拒むに拒めないようなとき……防護魔法は発動しない。


 なら、たとえ好きになってもらえなくても、拒みきれない状況を作りさえすれば。


 彼女を手に入れられるかもしれない。


「師匠……」


 僕は師匠と出逢うために、この世界へ生まれ変わったのかもしれない。

 教皇様の導きも、きっとそういうことなんだ。


 師匠を僕のものにする。

 そのためならこの世界がどうなっても構わない。


 沸々と湧き上がる熱情に、僕は拳を握りしめた。

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