第43話 深淵の魔獣

 ぎしっとベッドが沈みこんだ感覚で目が覚めた。


 まぶたを開けると、ベッド脇からエラがこちらを覗き込んでいる。


「……エラ、夜遅くにどうしたの?」


 窓から差す月明かりの角度から、夜も深まった時間だと分かる。マイさんの姿はない。まだつきっきりでアノン君を看病しているのだろう


「フィーネ様、助けてください……」


 エラが泣きそうな顔を近づけてきた。

 いつも気丈で私には弱みを見せない彼女が、助けを求めてくるなんて尋常ではない。


 私は体を起こし、エラの頬に手を当てて優しく聞いた。


「エラ、体のどこかがおかしいの? 心に浮かんでいることを全部話してみて?」

「はい、あの……このところ体がおかしくて……、さっき温泉に行きまして……あの、フィーネ様のそばを離れて一人で温泉にいくなんて……自分でもなぜなのかと思うのですが」

「うんいいよ、続けて?」


 彼女にしては珍しく、混乱しているようだ。


 首元に手を添えると心拍数が異常なほど速い。湯あたり……ってわけでもなさそうだけど、呼吸が荒く黒い瞳は潤んでいる。

 エラは右手で胸を、左手でへそのあたりを押さえていた。かなり思い詰めた感じだ。


 湯あたり…ってわけでもなさそうだ。先ほどからエラの心拍数は異常なほど早い。目も潤み、息も荒い。右手で胸を、左手でへそのあたりを押さえている。


「あの、彼……アノン殿に温泉に誘われて、そこで……。い、いえ、なぜか……胸が苦しくなって、お腹の下……あたりがじんじんして……辛いのです」


 アノン君? ……がどうしたのだろう。

 エラの言葉が支離滅裂で、何があったのかがよく分からない。でもどうやら下腹部あたりに異常があるらしい。


 私は素早く彼女の胸とみぞおちに触れた。

 彼女の体内に意識を集中させる。


 魔力の流れに異常はない。内臓の炎症、疾患もない。毒の反応もない。もしかしたらと媚薬の成分を探ってみたけど……反応はなし。


 ……ん? でもこれは。


 エラの体内に媚薬はない。

 でも媚薬を体内に取り込んだときと、同じ作用が体内で起きている。今はだいぶ薄まっているようだけど。


 魔法を掛けられた?


 でもこんな術は聞いたことがない。仮に魔法だとしても、こんなに自然な形で媚薬と同じ効果を体内で発生させるなんて芸当は不可能だ。……できたとしたら、それは人知を超える。


 原因は分からない。

 でもとにかく今は、エラを治す。


 私はエラの額におでこをくっつけた。

 治すだけなら多分簡単だ。普段のエラの体に戻せばいいだけ。


「はい、治したよ。調子はどう?」


 おでこを離すと、エラは目をぱちくりさせていた。


「…………フィーネ様。流行り病から一瞬で治ったような気分です」


 私はほっと胸を撫で下ろす。どうやら普段のエラに戻ったようだ。


 いったい何だったんだろう。本当にそういう異常を引き起こす流行り病かもしれない。

 後でマイさんも診ておかないと。


 でもその夜、マイさんは部屋に戻ってこなかった。





 翌朝。


 防護魔法がけたたましい警報を鳴らして、私の意識は急速に目覚めた。


 明るい朝陽が差し込む、部屋の中。


 エラは隣のベッドで寝ている。


 そんな穏やかな光景なのに、部屋中に濃密な死の気配が漂っていた。


 異常なことが起きている。エラのそばに寄ると、顔が青ざめていて呼吸も浅い。


「エラ……起きて」


 彼女の反応がない。


 魔力が、吸われている。

 魔力だけじゃない、生きる源――生命力のようなものも消えかかっているのが分かる。多分、治癒魔法を掛けても意味がないだろう。


 私は隣の部屋に急いだ。


 部屋に入ると、ベッドに眠るアノン君とその傍らでぐったりしているマイさんの姿があった。

 二人も、エラと同じ症状だ。


 やっぱり、さっきから森の方角から気配を放っているのせいだろう。


「そこにいるのは、師匠……?」

「そうだよ、アノン」


 アノン君が目を閉じたままつぶやいた。目を、開けられないんだろう。開けたら死にたくなってしまう。そんな気配が漂っているのだから。


「師匠、だ。あいつを倒すのは、無理だ……こわい」


 その声は恐怖で震えていた。


 そっか。

 アノン君でもダメなんだ。じゃあ私なんかに敵いっこないだろうな。


 でも。


「アノン、待っててね。師匠がバコンとやっつけてくるから」

「師匠、だめだ……!」


 私はアノン君の頭を軽く撫でると、一度自分たちの部屋に戻った。


 厚手のローブを軽く羽織る。

 視界の端に何かがいるような気がして、フードを目深に被った。


 可能な限り身軽になりたいので鎖帷子は着けない。あの魔獣の脅威は、そんなものでは防げない。

 本来はローブだって意味を成さないんだろうけど、何か羽織っていないと恐怖でどうにかなりそうだ。


 ゆっくり宿の廊下を歩きながら、お腹に力を溜める。


 廊下の先から死そのものに見つめられているような気がして、足が震える。

 気を抜けば、さっきから自分に掛け続けている治癒魔法が霧散する。治癒魔法が切れた瞬間、私はその場に倒れ込んでしまうだろう。


 宿の外に出ると、通りに人影はない。

 もし人々が避難していなかったら、今ごろそこら中に転がっていただろう。


 朝陽がまぶしい。暖かい陽光がさんさんと降り注いでいる。

 それなのに顎が震えて、歯がカチカチと音を立てていた。 


 無人の広場を横切り、街の外へ出る。昨日魔獣たち対峙した森のほとりで立ち止まった。


 冷や汗が止まらない。

 自分を奮い立たせる言葉すら発するのが恐い。

 森の奥からゆっくり、死が迫ってくるのを感じる。



 森からそれが姿を現したとき。

 大きくて細い人間かと思った。


 体長は森の木々と同じくらい。

 全身が真っ黒で、手足は異常なほど細い。

 そして人間であれば頭がある部分には、何もなかった。


 これが……深淵。


 森から出てきた深淵が、音も立てずにゆっくりと近づいてくる。


「ひっ……」


 死ぬ。

 死ぬ、死ぬ、死ぬ。


 ダメだ、生きて……生き抜くんだ。


 ――でも、もう十分じゃない? これ以上は贅沢だよ。


 違う。

 そんなの私の心の声じゃない。


 みんなと、ずっと一緒に。


 みんなを、健康で幸せに、しないと……。



「――師匠、逃げて! そいつは心を喰らうっ」


 ハッと声のほうを振り返れば、アノン君が自身に治癒魔法を掛けながら、ふらつく足取りでこちらへ向かってきていた。


 ……アノン君はすごいな。この状況で、ここまで来られるなんて。


 やがてアノン君の手が私の肩をつかむ。彼の目はうっすら開いていた。


 深淵の魔獣は、もう間近まで迫っている。

 あと三歩、二歩。


「し、師匠はさがっ……て。ぼ、僕が……!」


 濃厚な死の気配にさらされながら、アノン君はそう言った。

 私の肩をつかむ手はガタガタと震えている。


 私はその手を、優しく握った。


 アノン君のほうに振り向き、笑いかける。


「大丈夫だよアノン。おかげで踏ん張れた」

「へ……?」


 アノン君は目を見開いて私の顔を、そして私の背後で消えていく魔獣の姿を見ていた。


「うそ、だろ……」


 私の体を中心に青く輝く半円状のドームが広がり、その中で深淵の魔獣は溶けていた。


 聖域と、同じ空間。

 許されざる者を排除する空間を、私は作り出していた。


 深淵があと一歩の距離に近づいた瞬間、昨日からずっと溜め続けていた防護魔法をお見舞いしたのだ。


 深淵は物理的な存在ではなかったから防護魔法はすり抜けてしまったけど、その空間内での存在は許されなかった。

 聖域で修練を続けて身に着けた防護魔法の応用技。聖域と同じ空間を作り出す魔法だ。


 それでも深淵はしぶとく私に触れようとしてきたから、一か八かで治癒魔法を展開した。

 いつか炭坑の街で、重傷者をまとめて癒したときと同じように。

 死を司る魔獣なら、治癒の力には弱いのではないかと仮定して。


 でも私一人だけだったら、最後の最後で心が折れて失敗していただろう。

 アノン君が、来てくれたから。


「師匠が、倒した……? え、ていうか師匠、顔みせ……」


 アノン君は呆気に取られた表情で虚空を見たり、私の顔を見つめたりしている。

それがなんだか可笑しかった。


 ついクスリと笑ってしまう。


「うっ……」


 息を詰まらせるアノン君を、私は抱き寄せた。

 よくやったねという思いを込めて背中をポンポンと叩く。


 私はアノン君を抱き寄せると、よくやったという思いを込めて、ポンポンと背中を叩いた。


「来てくれてありがとう。君は格好いいね」


 私なんかより何倍も。


 師匠から弟子へ、感謝を込めて抱き締める。


 アノン君の体は、まるで時が止まったかのように硬直していた。

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