第23話 決心
ハーロウ・アルバーンの死から約一か月後の早朝。
黒い闇が徐々に群青に変化し、次第に赤みがかった橙、濃い桃色に濃い水色が空一面に混ざり合っていく。さながら熱帯に生息する魚のよう。
朝焼けの空の下、地味な色のストールを被り、庶民と変わらない質素な出で立ちでイングリッドはヨーク橋を一人渡る。
初冬とはいえ、北国この国ではすでに初霜が降りている。早朝のこの時間帯、まだ空気が凍てつくため、防寒に適した格好をしていても寒気が全身を襲う。
上流階級の令嬢がこんな朝早く、たった一人で外出する。普通はありえない。
最も今回に限らず、今までのイングリッドの所業の数々は身分云々関係なく、人としてありえないようなことばかり。今度もまた、彼女は「ありえない」と言われても仕方のないことを、クレメンスの命令で実行しようとしていた。
ヨーク橋を渡り切り、目的地に到着する頃には完全に空は明けていた。
イングリッドは目的地のとある家の入口扉を叩こうとした──、が、躊躇う気持ちが強すぎて叩く手前でどうしても動けない。
少しだけ中の様子を伺ってみようか。
出歯亀みたいで少々気が引けたが、入り口から外壁へ回り込み、小さな格子窓から中を覗いてみる。
窓からは見えた場所は居間らしい。簡素なテーブル席で、大柄な割にひどく痩せた中年男がテーブルの真ん中に座っていた。
男は自分の食事がまだ途中だというのに、赤ん坊に近い幼児を膝に座らせて食事を食べさせている。きっと彼の子だろう。けれど、父親が子の世話をする姿がイングリッドには衝撃的だった。
妻はこの場にいないのか。
身を隠しつつわずかな目線の動きで部屋を見渡す。いた。
妻らしき女性は二十歳前後といったところだろうか。どう見ても夫とは親子と言っていい程年が離れている。庶民らしく質素な身なりをしていてもとても美しい。
若く美しい妻は何やら駄々を捏ねる幼い息子を厳しく叱りつけている。
その隣の席では、銀髪の青年が彼女と彼女の息子をおろおろと宥めていた。
青年は困った顔をしつつも、どことなく幸せそうだ。
彼にとって、この家で家族と共に穏やかに暮らすことが一番の幸せだから。
イングリッドは中を覗くのをやめ、窓の下の地面にしゃがみ込んだ。
今から自分が行おうとしていることは、マリオンの幸せを奪うことになる。
ハーロウがメリッサを匿ったイアン一家を調査したがために、現在のマリオンの消息がクレメンスに知られてしまった。そのせいで、クレメンスはファインズ男爵家を潰す計画にマリオンを利用すると決めた。
今日イングリッドがマリオンの元へ訪れたのは、メリルボーン家へ再び戻るよう、説得するためだった。
クロムウェル党関係者を全員始末し、街の治安を守り、人々の信頼を取り戻す。街で起きた一連の事件に対し、対処できなかったファインズ家を『この街の統治者失格』と糾弾し、失脚させる。そしたら、ファインズ家の血を引くマリオンを新しい統治者にまつり上げる──、と、見せかけ、彼はあくまでお飾り、実際はクレメンスが統治者としての実権を握る。これがクレメンスの計画だ。
新たな一歩として、マリオンにこれまでの生活や共に暮らしてきた家族、友人すべて捨てさせる。
イングリッドは幼い頃の彼を思い出してみる。
いつだったか、マリオンに『貴方が一番欲しいものは何??』と訊ねた時があった。
『僕を愛してくれる家族と友達が欲しいです』
彼はぽつりとそう答えた。
あの時のマリオンの淋しそうに微笑む顏は、今でもはっきり瞼の裏に残っている。
一方で、父クレメンスの言葉も脳裏を掠める。
『イングリッド、これはお前にしか頼めないことなんだ。お前でなければ、出来ない事だ。私を愛しているなら、言うことに従ってくれるだろう??』
行動に移す直前まで迷うことは何度もあった。
その度に、胸に焼き付けたクレメンスのこの言葉で自身を奮い立たせていた。
なのに、今回ばかりは、イングリッドも頭を悩ませ、迷いで心を千々に乱されていく。
しゃがみ込んで膝に顔を埋めていると、すぐ隣に人の気配を感じた。
ハッと我に返り、素早く顔を上げる。
「イングリッド姉様??」
こんな早朝に、何の前触れもなくイングリッドが家に訪れたとなると、さすがのマリオンでも不審に思うだろう。ましてや、あの襲撃事件からまだ一か月しか経っていない。警戒されたとしても当然だ。
現にマリオンは、戸惑いを隠しきれない様子でイングリッドを見下ろしてくる。
「もしかして……、僕と、僕の家族のことを心配して様子を見に来てくれたんですか??」
立ち上がることすらままならず、ただただ呆けたようにマリオンの顔を見つめるイングリッドに、思いも寄らない言葉がかけられる。
『何でこの私が、下層の卑しい人間なんかを気遣わなきゃいけないのよ』
そう反論しようとしたが、大人のものとは到底思えない、無邪気すぎる笑顔を目の当たりにした瞬間、喉まで出掛った言葉は飲み込まれていく。
「……悪かったわね。舞台の稽古があるから、こんな朝早くにしか来ることができなくて……」
実際、今から二か月後に迫ったクリープ座の舞台公演でイングリッドは重要な役が決まり、ここしばらくは昼夜問わず稽古に明け暮れていた。マリオンの元へ訪れるには早朝くらいしか時間が作れなかったのは本当だ。
「いいえ、とんでもない!それよりも、外は寒いから早く中へ入ってください」
「えっ……、貴方のご家族は」
「だいじょうぶ!メリルボーン家にはイアンさんの怪我の件で、随分助けていただいてるので!!」
ハーロウの死後、メリルボーン家はクロムウェル党の『残党狩り』に協力している他、各事件の被害者やその家族への賠償金を警察に代わって支払っている。
マリオン達は賠償金のみならず、イアンの怪我の治療費を全額負担すると、メリルボーン家から示談を受けたのだ。
事件の発端がメリルボーン家であることを知るマリオン達は当初ひどく憤ったが、『イアンの怪我が一日でも早く良くなるなら、使えるものは何だって利用させてもらう』とシーヴァが結論を出し、最終的に多額の示談金を受け取った。
そのお蔭で、背中を十数針も縫う大怪我だったにも関わらず、腕のある医者に治療してもらい、イアンの怪我は快方に向かっている。
「イングリッド姉様??」
マリオンのくもり無きコバルトブルーの双眸を鋭い狐目でじっと見つめる。
大人になったマリオンがこんな風に笑えるのは、彼がずっと欲しがっていたもの──、彼を愛し大切にしてくれる人々の存在あってこそだ。
マリオンのこの笑顔は、誰であろうと決して曇らせてはいけない。
イングリッドはようやく思い出した。
誰にも愛されず、孤独の中にいたマリオンに優しくすることで、自身の孤独も無意識の内に癒されていたことを。彼の笑顔を見る度に救われていたことを。彼の笑顔が大好きだったことを。
イングリッドにとって、自分が思っていた以上にマリオンが大切な存在だったということを。
「……わかった。少しだけ、お邪魔させていただくわ」
イングリッドはようやく重い腰を上げて立ち上がる。
マリオンにどうしても伝えたいことを告げる決心と共に。
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