第19話 一縷の望み

(1) 


 あれは、マリオンが五、六歳の頃だろうか。


 その日、平素はお茶会だの観劇だの、夜会だのと、外出してばかりで浪費を繰り返す母エマが、珍しく部屋で本を読んでいた。

 まだ母に甘えたい盛りだったマリオンは、今日こそはと母の部屋の扉を叩く。勇気を出して何度も。すると、中から母……、ではなく、母の世話役の使用人が現れた。


「……あ、あの、おかあ様は??」

「エマ様は只今お取込み中ですのでお引き取り下さい」


 使用人はぴしゃり、すげなく告げると、マリオンの鼻先で思い切り扉を閉めてしまった。

 マリオンはガックリと頭を項垂れ、トボトボとした足取りで自室に戻ろうとしたが、(そうだ!扉の前で、お母様が出てくるまで待ちぶせしよっと!びっくりするかなぁ!)と、思い立ち、エマの部屋の前――、丁度扉が開くと隠れる位置に座り込んだ。


 逸る気持ちを押さえ、待つこと約三十分。

 扉が開き、遂にエマが姿を現した。


「おかあ様!!」


 マリオンは扉の陰から飛び出すとエマに向かって抱きつこうとした。

 しかし、エマは途端にマリオンとよく似た美しい顔を醜く歪め、彼を打ち払ったのだ。マリオンの小さな身体は弾みで、廊下に敷かれた長いペルシャ絨毯へと転倒した。


 転んだ際の身体の痛み以上に、エマに拒絶されたことにマリオンは深く、深く傷つき、わんわん、大きな声で泣きじゃくった。そんな彼に一切目もくれず、エマはその場からそそくさと去っていく。


 マリオンは涙を流しながら、屋敷の中を一人彷徨った。

 自室で泣いていれば、お付きの使用人に「マリオン様は男の子なんですから、泣いてはいけません!!」と叱責される。だから、一人になれる場所を探して気が済むまで泣きたかった。そうして泣きながら当てもなく彷徨い続ける内に、気が付くとエマとマリオンが立ち入ってはいけない場所――、クレメンスの妻と娘達の住む屋敷の本棟へ足を踏み入れてしまっていた。


 見つかる前に戻らなきゃ、と焦ったが、自分が暮らす別棟への戻り方が分からない。誰かに見つかれば、マリオンだけでなくエマまで必ず厳しく咎められてしまう。

 そしたら……、エマに益々嫌われてしまう。


「……僕……、どうすればいいのかなぁ……」


 マリオンのコバルトブルーの瞳から再び大粒の涙が溢れ出す。

 それを抑えようと袖口でゴシゴシ目元を拭いていると、「貴方、ここで何をしているの??」という声が背後から聞こえてきたのだ。


 おそるおそる振り返り、声の主を確認する。


 艶のあるブルネットの長い髪に、狐のように鋭く吊り上がったダークブラウンの瞳、シュッとした細い鼻に薄い唇の、マリオンより少し年上の少女が無表情で顔を覗き込んでくる。

 一つ一つの造りが整ってはいるものの、全体的に小作りなせいか、地味できつい印象を与えるその顔立ちにマリオンは見覚えがあった。


「……クレメンス様……の、」

「えぇ。私はクレメンス・メリルボーンの次女、イングリッドよ」


 イングリッドと名乗った少女は、先程とは打って変わり、にこりと柔和な微笑みをマリオンに向けたのだった。












「……気がついた??」


 マリオンが眼をゆっくり開けると、イングリッドの鋭い狐目と視線がかち合った。


「安心なさい。貴方を暴行した二人組はとっくに姿を消したわ」


 イングリッドは、自身の膝にマリオンの頭を乗せて介抱していてくれたようだ。その証拠に、血で汚れていたはずの顔がきれいに拭われている。


「イングリッド……姉様……。ありがとう……」

「礼には及ばない。それよりも、しばらくじっとしていなさい」

「……いえ、そういう……訳には、いかない、んです……」


 マリオンはゆっくりと身を起こす。が、起こしている最中、脇腹に強烈な痛みを感じ、小さく呻く。蹴られた衝撃で肋骨をやられたかもしれない。


「ほら、無理しないで」

「駄目……です。一刻も早く……、家へ……、家族を、助けに行かなきゃ……!!」


 顔を顰めて全身に走る痛みに耐えながら、マリオンはふらつく足取りでどうにか立ち上がる。


「……ハーロウ・アルバーンは、貴方の家に三人手下を送り込んだ。二人と一人に手分けさせて。貴方の住む地域の人々が協力し合って手下を撃退するであろうことを見越したハーロウが、最初に二人送り込んで住民と争わせ、その間に時間差で別ルートから一人を送り込むって言ってたわ」

「それじゃあ……、尚更急がなきゃ……!!」


 イングリッドからの情報を聞き終わるか終わらないかで、マリオンは急いで走り出す。


 お願い!

 どうか、間に合って!!


 自身が負った怪我によって生じる痛み以上に、走っている最中、何度も何度も浮かんでは必死で掻き消している最悪の事態に、マリオンは身を裂かれそうになっていた。








(2)

 

 歓楽街を走り抜け、ヨーク橋を渡りきると見慣れた景色が目に飛び込んできた。

 確実に夜中に差し掛かったであろう時間なのに、どこの家の窓からもカンテラの明かりが洩れている。


 何でこんな遅い時間なのに、皆起きている??

 まさかと思うけれど……。


 マリオンは駆ける速度を更に速め、家へと疾駆する。

 流れる汗以外にも、全身を襲う痛みによる脂汗、精神的な不安からの冷や汗が入り混じり、身体が焼けるように熱い癖に寒気が一向に治まらない。

 ふと、遠くから自分に向かって駆け寄って来る人物に気付く。イアンと同じくらい長身で赤毛の男――、ランスロットだ。


「マリオン!!」

「ランス!!」


 二人は同時にお互いの名を叫び合う。


「マリオン!無事だったか!!……って、お前、その怪我はどうしたんだよ!?」

「僕の怪我はどうでもいいんだ!それより……、何で、こんな遅くに皆起きてるのさ?!」


 ランスロットに掴み掛かりそうな勢いで問い質すが、彼の顔を見た瞬間、ハッと息を飲む。


「……ランスこそ、その怪我は……」


 ランスロットは唇とこめかみを切っていて血を流していた。


「あぁ、それこそ、俺の怪我なんかどうだっていい。掠り傷だし。マリオン、よく聞け。クロムウェル党の奴らが、お前の家を襲撃しに来たんだ」

「……何だって!?」

「でも、安心しろ。俺や近所の連中総動員で奴らを取り押さえたから、イアンのおやっさんもシーヴァさんも、チビ達も無事だ」

「あぁ……、良かった……」


 マリオンはホッとして気が抜けたのか、ガクッと膝を落とし、寸でのところでランスロットが彼の身体を支える。


「おっと!危ねぇなぁ……!」

「あ……、ごめん……。ランスも怪我しているのに……」

「気にすんな。ただ奴ら、相当な手練れだったから、たった二人だって言うのに取り押さえるのに随分と苦労したぜ」

「……え??……二人??三人……じゃないの……??」

「いや??二人だけだったが……??」


 途端に、マリオンはサッとランスロットの腕から抜け出し、再び家に向かって全速力で駆けだした。


「ランス!手下は三人向かったって、イングリッド姉様が言っていた!!」

「何だって?!あ、おい、マリオン!!待てよ!!」

「みんなの命が掛かってるのに待ってなんかいられないよ!!!!!」


 マリオンはランスロットの制止を振り切り、ひたすら走り続ける。

 イアンの気弱そうな困り顔、シーヴァの憎まれ口、ノエルとアリスの無邪気な笑顔――、自分にとって当たり前のようであり、何物にも代え難い、かえがえのない大切な家族。


 絶対に、絶対にこの手で守るんだ。奪われてなるものか!!

 息を切らして、家の玄関に手を掛ける。閉まっているはずの鍵が掛かって、いない──??


 バンッ!と乱暴な動作で扉を開け放したマリオンは、目に飛び込んできた光景に愕然とする。


「何……、これ……」


 居間の椅子は全て床に薙ぎ倒され、その内の一脚は背もたれと脚の一本が折れている。他にも、戸棚の扉や引き出しも開けっ放し。割れた皿の破片や匙が床に散らばっていた。 


 マリオンは込み上げてくる不安を押さえつけながら、一歩ずつ居間の中を進み、イアン達の部屋の扉をそっと開けてみる。


 居間と同じく荒らされた部屋の中はもぬけの空。人っ子一人見当たらない。

 念の為、マリオンの自室も同じように覗いてみるが誰も見当たらない。


 残るは、離れの作業場だ。


 かすかに赤ん坊の激しい泣き声が聞こえてくる。きっとアリスの声だ。

 と、言う事は、イアン達も作業場にいるに違いない。


 頭と心臓と胃が同時にキリキリと締めつけてくる。

 鉛のように重い足取りで作業場へ向かい、思い切り扉を開け放つ。


「…………」


 黒ずくめの服装の大柄な覆面男が、マリオンに背を向けて立っていた。

 その足元には、イアンがうつ伏せで倒れている。

 よく見ると、彼の身体の下からはシーヴァのものらしき長い黒髪が垣間見え、二人の身体の間からアリスの泣き声が聞こえてくる。きっと、ノエルも同じ場所にいる。


 そして、マリオンは気づいてしまった。


 イアンの痩せた背中が刃物で切りつけられていること。

 その傷から多くの血が流れていること。黒づくめの男の手には血に濡れたナイフが握られていることを──



 間に合わなかった。


 どうして、何もしていない彼らが、こんな目に遭わなければならない??

 どうして??


 どうして!!!!




 この時、マリオンは生まれて初めて殺意という感情を他人に抱いた。

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