第16話 忠告

 翌夕刻、ギターを抱えてラカンターへ行く途中のことだった。


 マリオンたちが暮らすイースト地区とセントラル地区の歓楽街との間には、ヨーク河という大きな運河が流れ、その上に架かるヨーク橋を渡って歓楽街へ向かう。

 そのヨーク橋を渡り始めてすぐ、マリオンは異変に気づく。欄干の前に大勢の人々が集まっていたからだ。


 溺死体でも上がったのかもしれない。

 生活苦などが原因の入水自殺、殺人による死体遺棄、酔った弾みでの溺死……、ヨーク河から死体が上がるのは日常茶飯事。

 とりたてて珍しくはないが、イアン以上に温厚で物騒なことを嫌悪するマリオンは、欄干の前に群がる野次馬を尻目に、いくらか速度を速めて先を急ぐ。


「あの死体の身元は、エゴンっていう元教師らしいよ」


 誰かが発した言葉を耳にしたマリオンの足は、ピタリと歩みを止める。

 イアンとシーヴァから、『エゴンがシーヴァを侮辱し、その発言にイアンが怒りを示した。そのことに腹を立てたエゴンが逆にイアンを侮辱し返し、激怒したシーヴァがエゴンに厳しい言葉を突きつけた』と聴かされたのは、つい昨日のこと。


 まさか、シーヴァに振られた腹いせに自殺を図ったのか。

 混ざったところで彼の死の真相が分かるはずがない。そう思いつつ、野次馬の群れに入ろうとした時だった。

 突然、マリオンの腕を誰かが強く掴み、この場から連れ去ろうと引っ張って来たのだ。


「えっ……、ちょっ……!」

「いいから、私についてきなさい」


 腕を掴んでいるのは、顔を隠すようにアフガンストールを頭から被った女だ。

 ほっそりとした長身、威厳を感じるその声はもしや……。


「イングリッド……姉様?!」

「しっ……!」


 ストールの隙間から鋭い狐目を覗かせ、マリオンを制すと、イングリッドは橋から少し離れた場所――、柊の並木に囲まれた、人気の少ない小道まで彼を連れ立っていく。


「……悪かったわね。いきなり、こんなところに連れ出したりして……」

「いえ……、それより、イングリッド姉様こそ、どうしてここに……」


 前回は、徹底的にマリオンを冷たくあしらったのに。

 どういう風の吹き回しか。


「……貴方にどうしても伝えたいことがあるの。ヨーク河で上がった溺死体、エゴンとかいう男を知っているでしょう??」

「……は、はい」

「あの男は、犯罪組織クロムウェル党の頭目、ハーロウ・アルバーンの実兄よ」


 予想外すぎる内容に絶句するマリオンかまわず、イングリッドは更に言葉をたたみかけていく。


「昨夜、エゴンがハーロウ・アルバーンの屋敷を訪れた。クロムウェル党が探し続けている、コーヒーハウスの女給の居場所をハーロウに教えるために。まさか、その女給が貴方の恋人で、貴方が家族ぐるみで彼女を匿っているとはね……、顔色が悪いわ。気を確かに持ちなさい」

「……はい……」


 突如立たされた窮地。

 エゴンによって、メリッサの居場所をクロムウェル党に知られてしまった。

 恐らく、近いうちに彼らがメリッサを、自分や家族も始末しに来るかもしれない。


「落ち着きなさい。まずは私の話を聴くこと」

「……すみません」

「平静でいられなくなる気持ちも分からなくはないけど」

「……二つ程、訊いてもいいですか??」

「何??」


 マリオンは、周囲を憚って小声でひそひそ、イングリッドへ問う。


「エゴンさんは何故殺されたんですか……」

「私も詳しくは知らない。ただ、エゴンという男は以前からハーロウにとって厄介者だったみたい。その女給が貴方に匿われたことを知りつつ、二週間も経ってから知らせに来たことに腹を立てたハーロウが、手下を使って殺したのよ」

「そんな理由で……。仮にも同じ兄弟なのに……、酷い……」

「血が繋がっているからと言って、必ずしも情があるかと言えば、それは間違いね」


 憤るマリオンに対し、イングリッドはそっけなく言い放つ。

 イングリッド自身も憎しみこそないものの、他の姉妹達にそこまで情を持ち合わせていない。自分以外の姉妹は目に入れても痛くない程にクレメンスから溺愛されていて、邪険に扱われる自分と他の姉妹達との間に見えない隔たりをお互いに感じていたからだった。


「悪いけど、私は貴方の感傷に付き合える程暇じゃない。もう一つの質問は??」

「どうして……、姉様が知っているのですか……」


 イングリッドは、ただでさえ細い目を更に細めてマリオンを睨みつける。が、やがて観念し、フッと息を吐いた後、再び口を開く。


「……下層でも噂になっていると思うけど……、お父様とクロムウェル党の間には密接な繋がりがある。工場やメリルボーン家に害をなす、害をなすかもしれない危険分子を、クロムウェル党の連中を使って徹底排除を行うためにね。貴方も知っているだろうけど、貴方の恋人が働いていたコーヒーハウスで工場の焼き討ちを計画していた人々がいたのよ。だから、焼き討ちを計画していた者達全員を通り魔の犯行に見せかけて殺害、でも、貴方も知っての通り、お父様は用心深い質ゆえにそれだけじゃ不安だったみたいで……」

「……それで、リバティーンの店主と女給を押し込み強盗に見せかけて殺し、メリッサも殺そうとしているんですか……」

「えぇ。そして、私がこのことを知っているのは……、私が……、お父様とハーロウ・アルバーンとの仲介役を任されているから」


 イングリッドは、自分を穴が開きそうな程凝視するマリオンの視線を避けるように、目線を外しながら、話を続ける。


「お父様は他にも私に、不定期的に街へ出て危険分子をおびき出して始末する役目や、ハーロウの情婦となって彼に上手く取り入る役目を私に下しているの」

「何で……」

「さぁ??それは私を娘ではなく、都合の良い道具としか思っていないからじゃない??」

「そんな……、姉様……、嫌じゃないんですか??」

「別に??こんなことは、思春期を過ぎた辺りからさせられてるし、もう慣れてしまった」


 マリオンが悲しげに整った顔を歪め、イングリッドを見つめる。

 優しさと憐れみに満ちた視線に苛立ちと怒りで、一瞬で目の前が真っ赤に染まった。

『そんな目で見るな。お前程度に哀れまれる筋合いなどない。身の程を弁えろ』

 以前、彼にぶつけたよりももっと酷い暴言を吐いてやりたい。

 どうして、彼はどこまでも真っ直ぐな瞳をしているのか。この、深く澄み切ったコバルトブルーの瞳に見つめられると、自分に染み付き、落ちることのない汚れが一層目立ってしまう気がしてくる。


「ただ……」


 内なる感情は表に出さない。イングリッドは相変わらず、マリオンの視線から顔を背けていたが、盛大な溜め息をつきながら言った。


「もういい加減、こんな役回りには疲れてしまったのよ。それに。何も悪いことをしていない、善良を絵に描いたような人達の穏やかな生活を奪うことに、何の意味があるのか、と、思い始めたの。ねぇ、マリオン」

「何でしょうか……??」

「メリルボーン家にいた頃と違って、今の貴方は周りの人達から愛されているみたいで……、安心したわ」

「……えっ……」

「以前貴方に言ったように、私が貴方に優しくしていたのは、屋敷の中で誰よりも惨めな境遇の貴方を哀れむことで、自尊心を保ちたかっただけ、ということは紛れもない私の本音よ。でもね……幼い貴方が私に見せてくれる無邪気な笑顔は好きだった。こんな私でも、心の底から慕ってくれる者がいる、ということが、ほんの少しだけ嬉しかった……。だから、ようやく貴方が掴んだ幸せを踏みにじってはいけない、と思ってね。……それだけよ。さ、伝えることは伝えたから、あとは貴方自身で何とかしなさい。いいわね??」


 そう言うと、イングリッドはマリオンに背を向け、彼の前から足早に立ち去っていった。

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