第15話 本性
(1)
一通りの家事を済ませ、シーヴァはノエルとアリスをメリッサに預けると、近所に住む友人の家へ出掛けていく。友人が親戚から貰った山羊のミルクを分けてくれるというので、少し大きめの甕を腕いっぱいに抱えながら。
甕の中に乳白色の液体を注いでもらう間、少しだけ友人と世間話を交わしていたが長居はせず、すぐに家路を辿っていく。
一歩進むごとに、甕の中でタプンタプンと液体が跳ねる。アリスがまだ乳離れしていない上にシーヴァの乳の出が余り良くない分、山羊のミルクは必需品。タダで手に入るのはかなりありがたい。
友人へのお礼をどうしようなどと思案する帰路の途中、最も会いたくない最悪の人物とばったり出くわしてしまった。
「こんなところで出会うとは奇遇ですね」
「…………」
一瞬で考え事は吹き飛んでいく。
警戒心剥き出しのシーヴァにかまわず、エゴンは彼女に気味悪い笑顔で話し掛けてくる。
「そんなに大きな甕を女性が運ぶのは大変でしょう。手伝いますよ」
「けっこうよ。もう少しで家に着くし」
他の人なら素直に言葉に甘え、甕を運んでもらうけれど。
エゴンにだけは絶対に頼りたくない。そもそも関わりたくない!
シーヴァは、あえて彼の親切心(を隠れ蓑にした、見え見えの下心)をすげなく跳ねつける。
「そう遠慮なんかせずに」
「けっこうって言ってるの!」
「僕も一応、男の端くれ、このくらいの甕なら持てますって」
いかにも体力のなさそうな、しなびたキュウリ(キュウリなんて高級野菜、絵でしか見たことないけど)な成りでよく言う。シーヴァは心中で毒づく。
「強情ですね」
エゴンがシーヴァとの距離を一気に詰めると、彼女の腕から強引に甕を取り上げようとしてきた。どさくさにまぎれ、両手をぎゅっと握られ……、全身が総気立つ。
「触らないで!!!!」
危うく甕を落としそうになった怒りも加わり、エゴンを声の限りに怒鳴りつける。
しまった、と思ったが、小馬鹿にするように肩を竦めてみせる姿に怒りは益々加速していく。
「ちょっと手に触れたくらいで、そんなムキになって怒らないでください。なにも知らない生娘でもないのに。あなたは見掛けによらず随分と貞淑な女性ですねぇ」
気のせいかだろうか。
エゴンの薄ら笑いの中に、怒りと侮蔑の感情が見え隠れしている、気がする。
「ただ……、娼婦上がりの汚れた女が今更貞淑ぶってもねぇ……」
「……なっ……」
「ちなみにおいくらですか??」
一瞬、シーヴァは自分が何を言われているのか、理解できずにいた。否、あえて理解したくなかったかもしれない。
「今あなたの家には訳有りの居候が滞在している。多かれ少なかれ生活費に負担が掛かってきますよね??僕に一晩買われてくれるなら一か月は楽して暮らせるお金を払ってあげますよ??」
やはりこの男は!自分をそういう目で見ていたのか!
汚らわしいのは一体どっちだ!!
怒りと屈辱全身が大きく震えだす。
身体の震えに合わせて、甕の中のミルクもちゃぷちゃぷ揺れる。
美しい顔を醜く歪め、ギリギリと音が出そうなくらい唇をきつく噛みしめ。
あわやミルクをエゴンに向けてぶちまけそうになった時、シーヴァの前に大きく細長い影が立ちはだかった。
女性にしては長身のシーヴァでさえ、見上げなければ顔を確認できない程に大柄な人物はごく僅か。その中最も背が高く、最も近しい人と言えば。
「……イアン……、どうしてここへ……」
「教会から帰る途中、エゴンさんとお前を見掛けたから声を掛けようとしたんだ。でも、お前の態度が変だったから少し様子を伺ってたんだ」
イアンは語調こそ穏やかだったが、普段は八の字に下がった眉や目尻が吊り上がっていた。彼は今、静かで激しい怒りに駆られている。
「エゴンさん。妻は十一年前に俺が引き取った時点で堅気に戻った。下世話な目で見るのはやめてくれ。シーヴァ、帰るぞ。子供たちとメリッサが待ってる」
エゴンに向かってはっきり言い放つと、イアンは有無を言わさずシーヴァの腕から甕を奪い取る。戸惑いながらも、彼と共にシーヴァがエゴンに背を向けた時だった。
「イアンさん。あなただってシーヴァさんを下世話な目で見ていたんじゃな
いんですかねぇ??でなきゃ、娘同然の女性を自分の妻になんかしませんよ??」
再び耳を疑う発言に、素早く振り返る。
君も悪く覇気のない阿呆面で何を言い出すかと思えば!
「よせ、シーヴァ」
「だって!」
「言わせたい奴には言わせとけばいい」
「私だけなら別にいい!イアンを悪く言われるのだけはどうしても許せないよ!!」
シーヴァはイアンの制止を無視し、エゴンに再び向き直った。
「あなたはイアンを馬鹿にしたけど本当は羨ましくて堪らないんでしょ??周りのみんなにも慕われて、若く美しい妻と可愛い子供たちもいて、マリオンっていう跡継ぎにも尊敬されてて。孤独で無為に生きてるだけのあなたにしてみたら、何であいつが、って気に入らないだけなんでしょ??」
エゴンの顔から先程までの薄ら笑いがゆっくり消えていく。
代わりに更に顔色は青白く、仮面のような無表情に変わっていった。
「……僕は今まで、両親の期待に応えるべく勉学に励んできた。学校や生徒、彼等の親どもに報いるべく常に努力を重ねてきたんですよ。こんな、しがない貧乏棺桶職人なんかよりもっと人に必要とされ、慕われるべき人間だと思いませんか??なのに、なのに……、この界隈の連中ときたら、揃いも揃って僕を敬おうとしないどころか、腫れ物に触るようによそよそしい態度で接してくるだけじゃないかぁっ……!」
「当然よ。あなたは自分の思いばかり押し付けて、人の気持ちをまるで顧みない。すべてがあんまりにも一方的すぎるの。とにかく」
恨みつらみが籠った昏い目で睨まれても、シーヴァは冷たく一瞥するのみ。
「私にはあなたの行動すべてが迷惑なの。金輪際、私に近寄らないで。私だけじゃない、イアンやマリオン、子供たち、メリッサにもね」
それだけ言い残すと、再びシーヴァはイアンと共にエゴンに背を向けた。頑とした拒絶の意思を込めて。
(2)
時と場所は変わり、その日の夜半過ぎ。
イングリッドは我が身の上にのしかかり、快楽に溺れるハーロウに心底うんざりしていたが、自らも同じく快楽に身を任せる振りをし、耐え続けていた。
あれから──、父クレメンス・メリルボーンとクロムウェル党の頭目、ハーロウ・アルバーンとの仲介役をイングリッドが任され、彼の情婦となった。正確に言えば情婦にさせられたのだが。
イングリッドは情交を交わすこと自体好きではない。男と寝た経験は数あれど満たされたことなど一度足りとてない。
それもその筈。彼女が男に身を委ねるのは父の取引上のため。イングリッドにとっての情交とは愛情や子作りで行うのではなく契約を交わす手段でしかない。
『イングリッド。お前にしか頼めない』
クレメンスにそう懇願されれば、イングリッドは首を縦に振らざるを得なくなる。
この時だけはクレメンスは自分と正面から向き合ってくれる。
他の姉妹たちは溺愛するのに、自分にだけ冷たく当たり続けてきた父が頼ってくれる。それがどれだけイングリッドにとって喜ぶべきことか!
『イングリッドの顏が儂とあまりに似過ぎているせいで、どうしても可愛いと思えんのだ。自分を見ているようで気色悪い』
幼き日、イングリッドだけを邪険にすることに対し、物申した母に投げつけた父の言葉を偶然耳にしてしまった。以来、クレメンスにずっと愛憎の念を常に持ち続けていた。同時に自分自身への嫌悪感からいつしか『自分以外の人間になりたい』という変身願望を抱き始め、勉強や習い事の合間にこっそりと芝居の練習を行っていた。
お蔭で今や、イングリッドはクリープ座の看板女優にまで上り詰めた。
その反面、父が裏取引をする際の交換条件として、イングリッドとの肉体関係を求める者が後を絶たない。自身を唯一解放してくれる芝居によって得た名声が、彼女に更なる枷を与えるという皮肉。神に向かって冷笑を捧げるしかない。
ようやくハーロウが身体から離れ、ホッとしたのも束の間、扉を叩く音がした。
衣服を身に着けながら、淡々と、それでいて、よく通る声でハーロウが冷たく返す。
「この時間は部屋に来るなと散々言ったはずですが??」
「すみません、ハーロウさん。客人がどうしてもあんたに会いたいと言って聞かなくて……」
ハーロウは眉根に皺を寄せて、しばらく逡巡したのち、「……分かりました。その客人を部屋に通しなさい」と、扉の向こうに控えている手下に告げた。直後、天蓋かカーテンを閉め切り、ベッドの中のイングリッドのあられもない姿を隠す。
クリープ座の名女優に『犯罪組織頭目の情婦』などという醜聞が流れては気の毒と思ったのか。否、彼にそんな甘ったるい考えなどあろう訳ない。大方、メリルボーン家と繋がりの証拠を隠すために違いない。
それでも、ハーロウの気遣いと取れなくもない行動に、イングリッドはほんの少しだけ感謝の気持ちを覚えた。
「やはり、貴方でしたか、兄さん。とりあえず掛けてください」
ハーロウは溜め息交じりに、どこか侮蔑的な言い回しで客人に話しかけた。
テーブル席は部屋の中央にある。音の気配から、ハーロウと客人は向かい合って座ったようだ。
「こんな時間に何の用でしょう。生活費ならこの間手下に持たせたじゃないですか??まさかもう使い果たしたとか??それとも、とうとう婦女暴行の罪でも犯して示談金を催促しに来たとか??」
「そんなんじゃない……」
「じゃあ、何なんです??私は暇を持て余している兄さんと違って、忙しいんですよ」
『兄さん』
その言葉にイングリッドの乏しい筈の好奇心が擡げた。
ハーロウの『兄さん』とやらがどんな顔をしているのか、つい見て見たくなってしまい、気づかれないよう天蓋カーテンの僅かな隙間から彼らの様子を探ってみる。
薄気味悪い印象の貧相な男だった。
茫洋とした表情のないハシバミ色の瞳は、かすかにだが苛立ちが見え隠れしている。
そんな客人の様子を「あぁ、機嫌損ねないでくださいよ」と、ハーロウは鼻先で一蹴する。
「今日は、お前にとって有益な情報を教えに来たんだよ」
「へぇ、どういう??」
「教えて欲しければ、その、僕を馬鹿にした態度を取るんじゃない!仮にも、僕はお前の兄だぞ!!」
「これは失敬」
ハーロウが兄と呼ぶ人物――、腰のない金髪に病人のごとく顔色が悪く、痩せた細った男は、なんとエゴンだった。
エゴンとハーロウは貧しい日雇い労働者の子供として生まれ、後に両親を流行病で亡くし、救貧院に送られた。劣悪な環境下で二人は励まし合って生きていたが、兄のエゴンが厳格な中流家庭へ、弟のハーロウが田舎の子爵家へそれぞれ引き取られ、二十年近く手紙のやり取りのみの関係であった。
しかし、数年前、『田舎暮らしはもうたくさん。堅苦しい貴族の生活にも飽きたんですよ』と地位も家族も捨て去り、財産の権利書だけを手にハーロウはこの街に舞い戻ってきた。同じ頃、勤務する女子寄宿学校の生徒を暴行、強制退職させられた上に生徒の家族から裁判を起こされていたエゴンがハーロウに助けを乞い、再び二人は交流を始めたのだった。
「で、有益な情報とは??」
「以前からお前が探している、例のコーヒーハウスの女給の居場所だよ」
ハーロウの顔から笑みが消え失せ、代わりにエゴンがニタリといやらしく嗤う。
「その女は、僕が暮らす地域の棺桶職人の家に匿われている。一家の家族構成は主がイアンという冴えない中年男、娼婦上がりの妻シーヴァ、その二人にはノエルという幼い息子とアリスという赤ん坊がいる。そして、跡取りとして、見た目は良家の子息みたいだが浮浪孤児出身のマリオンという青年。ちなみに女給はマリオンの女らしい」
「ご報告どういたしまして。にしても……、その一家について随分と詳しいのですね、兄さん」
「近所の人達だからね」
「本当にそれだけなんですかね??」
「どういう意味だ??」
「さぁ??兄さんの思った通りなんじゃないですか??あぁ、私の方からも兄さんに一つ言いたいことが」
「な。何だ??」
今度は、ハーロウがエゴンに笑い掛ける。しかし、その笑顔は獲物を丸飲みする直前の蛇のごとく、何の感情も読み取れない、冷たい眼差しで口元だけを大きく開けているという、全身に怖気が走りそうな笑い方だった。
エゴンはさながら蛇に睨まれた蛙のように、ただただ硬直してしまっている。
「なぜすぐに報告しなかったんです??なぜ二週間も過ぎてから、思い出したように言ってきたんです??兄さんに金を届けさせた手下が報告してくれましたが……。兄さん、あなた、人妻に一方的に懸想して横恋慕していたそうじゃないですか??もしかして、その家の妻なんじゃないですか??」
ハーロウは益々顔を険しくさせ、テーブル越しにエゴンへ詰め寄っていく。
「大方、その妻に手酷く振られたか、嫌われたかしたんでしょう??そんな個人的な感情で動いたりしないでください。昔から私は兄さんの、そういうところが大嫌いなんですよ。ただでさえ私や組織に迷惑掛けていると言うのに……」
エゴンは反論一つできず、ただただハーロウの言葉を苦渋に満ちた顔で聞くより他がなかった。
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