第12話 ハル

(1)


 時は、八時間前に遡る──



 開店前のカウンターやテーブルには空、もしくは酒がわずかに残るグラス類、煙草の吸殻で溢れ返った灰皿などが放置されたままだった。昨夜、ラカンターを閉店時と何一つ状況が変わっていない。

 少々荒れた室内、店中の椅子を集めて並べたその上で、ハルは薄い毛布を被って眠りこけていた。

 彼は一応、店から少し離れた場所に安アパートを借りてはいる。が、寝るだけにわざわざ帰るのも面倒臭いので、大抵は店で寝泊まりすることがほとんどだ。


 閉店後の深夜三、四時頃眠りにつき、昼近くになって起床。

 厨房で湯を沸かし、店の奥で風呂桶に湯を張り、身体の汚れを落とす。アパートから持ってきた服に着替え、髭を剃る。身支度を整えると開店準備を少しずつ始める。

 たまに行きずりの女性と夜を過ごすこともあれど、ラカンターを開店して以来六年、ハルはそんな生活をずっと続けている。


 ドン、ドン!ドンドン!!


 扉を叩く音が静かな店内に鳴り響く。


 時間より早めにランスロットが来たか。

 シャツの胸ポケットから懐中時計を取り出す。時間はまだ午前十一時。

 彼が来る時間にしては早過ぎる。


 ハルは半分寝ぼけ眼で、懐中時計の蓋の裏側をじっと眺めた。

 そこには一人の女性の写真が貼り付けてある。


 女性は振り向きざまにいきなり写真を撮られたのだろうか。

 大きな瞳をこれでもかとまんまるく拡げ、頬に散ったそばかすが目立つこの女性。髪や目の色、体格、年齢など細かい部分は違えど、面差しがメリッサと瓜二つだった。


「ちょっと!ハル!!いるんだろ?!開けておくれ!!」

「……この声は……、マージョリー婆さん、か」


 歓楽街の生き字引ことマージョリーが何の前触れもなく店に訪れるなんて。

 十中八九、ろくでもない事件が起きたに違いない。

 ハルは毛布を跳ね飛ばし、身を起こすとすぐさま扉を開けた。


「よぉ、マージョリー婆さん。こんな昼日中からうちの店に来るなんて珍しいじゃねえか。人の安眠妨害する程の用件は何だ??」


 ハルは、努めて軽妙な口振りでマージョリーを問い質す。

 白髪頭を玉葱のようなポンパドゥール風に纏め、齢六十は越しているだろうマージョリーは、かつて歓楽街一の人気娼婦として名を馳せていた女だった。

 ゆえに裏社会にも精通し、様々な情報を入手しては、ハルのように歓楽街で商売を営む者たちに逐一報せてくれる。


「ハル、大変だよ!!リバティーンの店主と女給が開店準備中、押し込み強盗に遭って殺されたんだ……!」

「……は??何だって!?女給って……、まさか……」


 体中の血が一瞬で頭から爪先へ下がっていく。誰の目からも顔面蒼白だろう。

 今度は問い質すなんて生温い。ハルはマージョリーの肩を激しく揺さぶり、激しく詰問した。


「殺された女給はどっちだ!?」


 マージョリーはハルの荒々しい剣幕にも動じることなく、彼の言葉の続きを待つ。


「リバティーンには女給が二人いる筈だ!!一人は栗毛でそばかす顔の女、もう一人はストロベリーブロンドの大きな青い目の女だ!!なぁ、どっちだったんだ!!」

「あぁ、そういや、この店で時々歌っている娘はリバティーンの女給でもあったね。安心しな、あの娘じゃない。今日は運良く休みだったらしい」


 ハルは安堵の余りに、長身を九の字に折り曲げ、膝に両手を付きながら息を吐きだす。


「殺された女給には悪いんだが……、……あいつじゃなくて、良かった……」


 気が抜けたハルは、先程までベッド代わりに使っていた椅子の列から二脚引きずり出し、「婆さん、さっきは取り乱して悪かった。まぁ座ってくれよ」とマージョリーを椅子に座らせ、自分ももう一つの椅子に腰掛ける。


「マージョリー婆さん、話の続きを詳しく聞かせてくれ」






(2)


 以下がマージョリーの話だ。


 リバティーン開店時間の朝八時頃。

 ほぼ毎日朝一番に来店する常連客がいつものように店に訪れた。だが、扉は閉まったまま。立て看板すらも出ていない。

 珍しいこともあるもんだと、しばらく店の前で開店を待っていたが、扉は一向に開かない。


 もしかしたら、臨時休業かも知れない。

 そう思った客は一旦店から離れ、自宅に戻ってみた。

 しかし、生真面目で有名な店主のこと。もし今日休業するとしたら、前もって常連である自分にそれらしきことを伝える筈。


 何となく嫌な胸騒ぎを覚えた客は、再びリバティーンへ訪れた。時刻はすでに九時を過ぎていたが、やはり店は閉まったまま。

 男は店の裏口に回り、『おーい!マスター!!今日は休みなのかい??いるなら、返事くらいしてくれよー!!』と、扉をドンドン叩いた。男の声と扉を叩く音に対して返事はなく、ただ虚しく空に響くのみ。


 不意に手に掛けたドアノブが回り、微かに扉が開いた。

 どうやら最初から裏口の鍵は開いていたらしい。


『マスター!やっぱり店にいるじゃない……か……』


 客は勢い良く扉を開けたまではよかった。けれど、即座に叩きつけるように扉を閉める羽目に陥った。

 裏口にあたる厨房の中、すでに事切れた店主と女給が見るも無残な姿で血の海で倒れていたからだった。




「店主と女給は、朝六時半には店に来て開店準備を始める。早朝は歓楽街に関わる大多数の人間にとっちゃ就寝時間。盗みに入るにゃ打ってつけの時間だ。けどね、不可解な点がいくつかあるんだよ」

「不可解な点??」

「店には複数の人間が押し入った形跡が残されていた割に、金目の物はまったく盗まれていなかった。まるで二人を殺すこと自体が目的だったかもしれない」

「その二人のどちらか、もしくは両方に対する怨恨の可能性は??」

「いや、二人共人から恨まれるような人間ではなかったみたいだ」

「金目当てでも恨みでもなく殺されるなんて、何なんだよ」


 マージョリーが少し躊躇うように口を噤むが、すぐに目を伏せたまま話を続けた。


「これは、あくまで噂を元にした推測だけどね……」

「噂??」

「リバティーンに出入りしていた客の中で、メリルボーン製糸工場の焼き討ち計画を練っていた連中がいたらしい。もしかして、クロムウェル党に目をつけられてやられちまったのかも。最近この辺りで通り魔殺人が頻発していただろ??裏社会の者からの情報じゃ、殺された人間はいずれも製糸工場をクビになってクレメンス・メリルボーンに恨みを持っていたそうだ」


 クロムウェル党は元々、親を亡くしたり、捨てられた孤児を集めてはスリや売春をさせている小さな犯罪組織だった。しかし、数年前に上流階級出身のハーロウ・アルバーンという謎の男が頭目におさまると、幼い子供以外にもチンピラや元犯罪者なども束ねだし、違法薬物の密売、押し込み強盗、依頼殺人などに手を染めるまでに凶悪化が進んでいった。

 街を揺るがす一大犯罪組織に成長してしまったにも拘らず、警察は未だに彼らを逮捕するに至っていない。ハーロウと警察上層部の間に黒い繋がりがあるという噂すら流れている。彼らの存在はこの街の人々をはじめ、街の統治者、ファインズ男爵にとっても頭を悩ませているというのに。


 更に厄介なことに、クロムウェル党の背後にはクレメンス・メリルボーンの陰があるという噂まで囁かれている。

 噂によるとメリルボーン家に盗みで押し入った際に失敗。見逃す代わりにメリルボーン家の人々の警護及び、メリルボーン氏に害をなす者達の徹底排除に協力するようになったとか。


「ってことはだ、工場の焼き討ち計画を練った連中だけでなく、はからずもその場を提供していたリバティーンの店主達も狙われたってことかよ……」

「おそらくね。きっと店主も女給も計画なんて何も知らなかっただろうに……」


 ハルとマージョリーの間を重たい沈黙が満たしていく。

 しかし、すぐにハルはあることに思い至るなり、ハッと我に返った。


「ちょっと待てよ……??クロムウェル党の奴ら、リバティーンには女給が二人いることを知ってるのか…??知ってたとしたら……、メリッサが危ない……」

「それだけじゃないよ、ハル。メリッサがこの店で時々働いていたことまで調べられていたら、あんたらやラカンターも危ないかもしれない」

「……だろうな。だから、俺にいち早く知らせてくれたんだな、婆さん」

「あぁ、そうさね」

「ありがとな。恩に着る」


 ハルはよれたズボンのポケットをまさぐり、マージョリーに金貨を渡そうとした。


「金なんかいらないよ」

「いや、そういう訳にはいかんだろう??」

「そう思うんだったら」


 マージョリーは物欲しげな目で、ハルにニィィーーッと、歯をむき出して笑いかける。


「エールを一本奢っておくれよ」

「わかった。その代わり、冷えてないし温いぞ」

「かまわないさ」


 ビールの小瓶を持ってくるため、ハルは一旦厨房奥へ引っ込んだ。






(3)


「しかし、あんたもとことん女運悪いねぇ。関わった女が厄介な事件に巻き込まれやすくて」

「あぁ??逆だろ??むしろ、俺と関わった女が巻き込まれるんだ」


 マージョリーの無神経な発言に苛立ちを覚えたが、所詮は酔っ払いの戯言だと聞き流す。


「アダが巻き込まれた事件なんて、背筋も凍りつく程残酷で」

「婆さん、その話は持ち出さないでくれ」


 さすがにこれ以上は堪忍袋の緒が切れかねない。

 ハルは険のある顔と口調でマージョリーを咎める。


「あぁ、悪かったね……。嫌な話をしちまって」


 まったくだ。ハルは、心の中でマージョリーに毒づく。


 今から七年前、娼婦ばかりを狙った残酷な通り魔事件が連続発生、歓楽街の人々を恐怖のどん底に陥れた。被害者の一人は、ハルの最愛の恋人アダことアドリアナであった。


 アダは、ハルが生まれ育った娼館で働いていて、世間から見ればポン引きのハルとの関係は情人同士でしかなかった。だがハルは、娼館を引き継いだ暁には結婚すると彼女と誓い合っていた。しかし、アダが惨殺され、叶わぬ夢となった。


 被害者は誰もかれもが目を背けたくなる残忍な殺され方をしていた。特にアダは最も酷く、現場慣れした古参の刑事ですら遺体を見て嘔吐する程。

 そんな彼女の身元確認をハルは自ら行った。

 もはや人としての原型をとどめておらず、醜い肉塊と化していたが、髪の色や辛うじて残された身体の特徴は紛れもなく彼女だった。

  

 結局、犯人の自死で事件は終息したが、ハルの心には未だに消えない喪失感が残されている。


 だから、アダとよく似たメリッサをハルはずっと気に掛けていたし、彼女には絶対に幸せになって欲しいと願っていた。マリオンとの仲をからかいながらも取り持とうとしたのも、彼ならメリッサを大切にしてくれると信じての事だった。

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