第9話 取引

(1) 


 高級住宅地の一角。 新ゴシック様式という名称の、赤煉瓦造りの屋敷にて。

 床から天井までの高さを誇る大窓の前に立つ男に、部屋の扉越しに執事が呼びかける。


「クレメンス様。ハーロウ・アルバーン様が到着されました」

「分かった。そのまま儂の部屋へ通せ」


 クレメンスと呼ばれた男は振り向きもせず、窓越しにはるか遠くの景色を見降ろしている。

 彼の目に映るのは、三か月前落成されたばかりの全面ガラス張りの巨大な商業建造物、クリスタル・パレス。その周辺を囲うように稼働する移動遊園地。

 そして、移動遊園地でひと時の愉しみに耽る人々の姿だった。


 ノックと共に、執事が客人を室内へ通す。

 離れ目の割に目と眉の間隔が狭く、トカゲに似た顔立ち。

 中年手前に見えるがおそらく実年齢はもっと上だろう、痩身のこの男がハーロウ・アルバーンだ。


「いくら夜でもそんな大きな窓のど真ん中に立っていては、いつ誰に狙撃されるか分かったもんじゃないですよ??メリルボーンさん」


 ハーロウはクレメンス・メリルボーンのやや曲がり気味の痩せた背に向かって、軽く窘める。 加齢で垂れ下がった瞼に埋もれた、狐のような瞳を鋭く光らせ、クレメンスははじめて振り返った。


「ふん、それを防ぐのがお前の仕事だろう??」

「そうでした。これは失敬!」


 ハーロウはおどけた素振りで肩を竦めてみせる。人を食った話し方と態度にクレメンスの目が更に険を帯びる。軽薄な人間性を隠しもしない男である。


「お前こそこんな夜分にいきなり訪ねてきおって。一体何なんだ」

「今宵はメリルボーンさんに素晴らしきご報告がありましてねぇ。いち早くお届けしようと。これがまた中々の吉報で……」

「御託はいいからさっさと話せ」

「実はですねぇ……、以前から貴方様に脅迫状を送りつけていた連中の居所を突き止めました。少々手荒な方法拷問で吐かせてみたらなんと!とんでもない計画を企てていたんですよ!」

「計画?」

「以前から『クレメンス・メリルボーンの批判を洗いざらいぶちまける』とか言う俱楽部は存在していました。活動内容は安直な俱楽部名通り、貴方様の悪口をひたすら言うだけの俱楽部だそうで。まぁ、ただ悪口を言うだけであれば、何の問題もなかったんですが……」


 愉悦と嗜虐をないまぜにした笑みを深め、ハーロウは続ける。


「その俱楽部会員の連中、製糸工場の焼き討ちを計画していたんですよ!!念のため、連中の溜まり場のコーヒーハウスに仲間を潜入させて張り込ませたので間違いない。さて、ここからが貴方様へのご相談になります」


 ハーロウの顔からへらへらと腑抜けた表情が消え、舌なめずりするように口元を歪める。瞳の奥は笑っていない。


「お望みであれば、奴らを一人残らず極秘裏に捕えて亡き者にしてやりましょう。貴方様及び、貴方様のご家族や工場を守るために。如何いたします??」


 ハーロウは、上目遣いでクレメンスを見据える。顔立ちだが、感情の読み取れない目も爬虫類によく似ている。クレメンスはそんな彼を一瞥した後、フンッと鼻を鳴らす。


「……いくら払えば、始末してくれる??」


 ハーロウが希望する報酬額を掲示すると、クレメンスは忌々しげに小さく唸るも「……分かった。望み通の金額を支払おう」と渋々承諾した。


「いやはや、ありがとうございます。金さえ払っていただけるのであれば、こちらもきっちり仕事させてもらいます。それから、もう一つ」

「何だ」

「その俱楽部が溜まり場にしていたコーヒーハウスの店主と従業員はどのようにいたしましょうか??」

「その者達も計画に加担しているのか??」

「さぁ、そこまでは判り兼ねますが……。もしも不安でしたら、ついでにそいつらも始末します」

「……お前の判断に任せる。そのコーヒーハウスの名前は??」


 ハーロウは首を傾げ、少し考えるとこう答える。


「リバティーンとかいう店です」


 ハーロウがそう告げた直後、三度、クレメンスの部屋の扉を叩く音がした。


「……お父様、イングリッドです」

「入れ」


 クレメンスの許可が下りると、イングリッドは大きなトランクを抱えながら入室する。


「その様子からすると金の受け渡しに失敗したな」

「申し訳ありません」

「まぁいい。ただし、その酒場の男が余計なことを吹聴しているようなら……」


 クレメンスは、ちらり、ハーロウに意味ありげな視線を送り、ハーロウもまた無言で頷く。


「我がクロムウェル党の出番ですかねぇ」

「そういうことだ」


 イングリッドはほんの一瞬のみ眉をピクリと擡げたが、すぐに人形じみた無表情に戻った。


「では、もしもの時の依頼料と言うことで。このお金はアルバーン様に差し上げます」


 イングリッドは抱えていたトランクをハーロウに渡そうとした。しかし、ハーロウはトランクではなく彼女の細い腕を強い力でグッと掴み取った。


「金など必要ありません。レディ・イングリッド」


 獲物を虎視眈々と狙う蛇の目つきでハーロウはクレメンスに問いかける。


「その代わり、彼女を今夜一晩私の好きなようにさせてもらいます」


 クレメンスは少し間を空けた後、「イングリッド。ハーロウをお前の私室へと案内しろ」とイングリッドに命じた。


「……承知いたしました。アルバーン様、今から私の部屋へご案内します」


 イングリッドは、あらゆる感情を捨て去った表情で機械的に父の命に従う。

 そして、イングリッドはハーロウを伴い、クレメンスの部屋を後にした。







(2)


「ふふふ、貴女のお父上は随分と薄情な方。仮にも実の娘に娼婦の真似事を平然とさせているのですから。まぁ、私自身はクリープ座の名女優を一晩好きなだけ抱けるので男冥利に尽きますがね」


 部屋が近付くにつれて次第に気が緩んできたらしい。

 ハーロウはイングリッドの髪や肩に触れ始め、部屋の前に着く頃には彼女の腰に手を回し、身体をより密着させてきた。

 ハーロウの気分が高揚していくのと反対に、イングリッドの心は氷のように冷たく閉ざされていく。最も、このようなの役目は今に始まったことじゃない。



『イングリッド姉様!!』


 つい一時間程前の出来事がイングリッドの脳裏を掠めていく。


 九年振りに再会した、父の愛人の私生児だったマリオン。

 何も知らず「姉様、姉様」と慕ってくれていた彼は、あの頃とちっとも変わらない。深く澄みきったコバルトブルーの双眸で真っ直ぐ自分を見つめてきただけでなく、徹底的に冷たくあしらう自分に感謝の意さえ述べてきた。


 自分は年を経るごとにどんどん汚れていく一方なのに。

 なぜ、彼はあんなに純粋さを保ち続けられるのだろうか。


「……ばかばかしい……」


 彼女の身体を弄るまさぐることに夢中なハーロウに聞こえないよう、寝台の天井を見つめながらつぶやく。誰に対してのつぶやきかすらもどうでもよかった。

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