第8話 再会

(1)

 

 イングリッドは他の客達から向けられる、不躾なまでの畏怖と好奇の視線を一切物ともせず、カウンター席へと向かう。踵の高い靴を履いているのか、彼女が一歩進むたび、カッカッと硬質かつ耳障りな音が鳴り響く。

 イングリッドはランスロットの眼前までやって来ると、あからさまに警戒する彼に「今日は、貴方に謝りに来たの」と、淡々とした口調で話しかけてきた。


「悪漢から私を守ろうとしてくれていたのに、貴方にまで発砲したあげく怪我をさせてしまって……、申し訳なかったわ」

「別に。あんなのただの掠り傷だし。あの状況じゃ撃たれても仕方なかったと思うし。謝られる程のことじゃないっすね」


 ランスロットはさも面倒くさそうに、素っ気なく言葉を返す。

 横着とも取れる彼の態度に腹を立てるでもなく、イングリッドは持っていたトランクをカウンターの上に静かに置いた。


「これは、私からのほんの気持ちよ」


 おそらくトランクの中身は慰謝料だろう。ランスロットも察しがついたのか、凶暴な猛獣を思わせる形相へと変貌した。金さえ出せば何でも解決出来るという、富裕層特有の傲慢さをイングリッドから感じ取ったからだ。

 ランスロットの豹変振りを目の当たりにしたメリッサは身を震わせて怯えるが、イングリッドは相変わらず冷たい無表情のまま。怖気づくどころか、「遠慮することなんてないでしょ」と、トランクを強引に彼に押し付けようとした。


「……いらねぇよ」

「そんなこと言わないで」

「そんなもん、いらねぇつってんだろうが!!」


 ランスロットの怒鳴り声が店中に響き渡る。

 彼は上流階級の人間を毛嫌いしている節があり(最もこの国の労働者階級の大半はそうだが)、他人から無理矢理何かを強要させられるのを最も嫌う質だ。


「ランス、落ち着けよ」


 見兼ねたハルがランスを宥めすかせていると、イングリッドが蔑みを込め、薄く笑う。


「馬鹿ねぇ。卑しい貧民の癖に、無駄に強がって。どうせ大した稼ぎじゃないのだし、さっさと素直に受け取ればいいのに」

「あんたも余計なこと言ってこいつを焚きつけないでくれ」

「ランス、一体どうしたの!?」


 ランスロットの怒鳴り声は店の奥まで届いていたらしく、ようやく奥からマリオンが姿を現した。

 マリオンの姿を目にした途端、イングリッドの狐のような細い瞳にわずかばかりの動揺の色が浮かぶ。


「馬鹿な下層民とまともな会話しようとしたのが間違いだったわね」


 なんだとてめぇ!と再び激高するランスロットを尻目に、イングリッドはトランクを抱え、慌てて店から去って行った。

 足早に去るイングリッドの背中を見送ったのち、マリオンはなぜだか彼女と話をしなければいけない、という強い使命感に駆られ──、気づくと、ハルの制止を振り切り、イングリッドの後を追いかけていた。


「待ってよ!!!」


 カッカッと硬質な音を立てて歩いていたイングリッドが、マリオンの声でぴたり、動きを止める。そして、微妙に強張った顔で、ゆっくりと振り返る。

 そこには、息を弾ませ、苦しげに呼吸を整えているマリオンが立っていた。


「もしかして……、マリオン、なの……??」

「覚えてくれていたんですね……」

「忘れる訳ないでしょう……」


 イングリッドが自分を覚えてくれていた。


 マリオンは嬉しさを隠せず、つい顔いっぱいに笑みを広げた。そんなマリオンに、イングリッドは口元を嗜虐的に歪めながら、言い放つ。


「だって、貴方は私にとって自尊心を満たしてくれる、都合の良い玩具だったもの」










(2)


 イングリッドの侮辱的な言葉に、マリオンの顔からサーッと音を立てて血の気が引いていく。その様子をイングリッドはさも愉快気に眺めている。


「人買いに売り払われたと聞いていたし、てっきり今頃は名うての男娼にでも身を窶しているかと思っていたのに。まさか大衆酒場で働いているとはね」

「イングリッド姉様……」

「下層に成り下がった者に姉様なんて気安く呼ばれたくないわ」


 マリオンは、かつてのイングリッドからは想像できない、冷たい態度と差別的な発言に言葉を失った。

 道端に打ち捨てられた子犬のような、あまりにいたいけなマリオンの姿にイングリッドの加虐心は益々募っていく。そして、更なる言葉の暴力を彼に浴びせていく。


「言っておくけど、貴方に優しくしていたのはね……、屋敷の中で誰よりも惨めな境遇の貴方を哀れむことで自尊心を保ちたかっただけよ」

「…………!!」

「そうじゃなきゃ、誰が貴方みたいな『不義の子』を相手にするもんですか」


 エマがメリルボーン氏と愛人関係になる前だったとはいえ、別の男性との間に出来た子供であるマリオンは、メリルボーン家の人々や使用人達から陰で『不義の子』と蔑まれていた。

 メリルボーン家の血筋を一切引いていないのだから、そう呼ばれても仕方ないと言えば仕方ない。だが、まだ幼いマリオンにそんな複雑な事情など分かるはずもなく。彼は常に周りからの愛情を求め続けていた。

 現在でもマリオンが笑顔を絶やさないのも、『いつも笑ってさえいれば、いつか誰かから愛してもらえるのでは』と言う期待を抱えて育った幼少期の名残だ。


『マリオンはね、せっかく可愛らしい顔立ちなんだから、もっと笑った方がいいわ。私はマリオンの笑顔を見るのが大好きなの』


 マリオンが笑顔を忘れなかったもう一つの理由は、イングリッドの励ましが大きい。人知れずマリオンが泣きべそをかいていると、どこからかイングリッドがひょっこり姿を現し、彼が泣き止むまでずっと傍で慰めてくれていた。なのに。

 今目の前にいるイングリッドは、マリオンに向けていた優しさはただの偽善だったと告げてくる。信じられなかったし、信じたくもなかった。


 だが、混乱する頭で必死に考え出した言葉をマリオンは正直に伝えようと、強く決めた。


「あの時の……、貴女の優しさが例え偽物であったとしても……!それでも!僕が、貴女に救われていたことは確かな事実だから……、一生感謝し続けるつもりです」


 そう述べた直後、マリオンはイングリッドに深々と頭を下げたのだった。

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