第5話 不審な男

(1)


 イングリッドの銃撃にランスロットが巻き込まれたものの、それ以降はマリオンの周囲で特段事件らしい事件は起きず。ランスロットの怪我もごく軽傷だったため、あの夜抱いた一抹の不安を誰もが忘れかけていた。

 しかし、不穏な気配は別の形で、別の人物にも忍び寄りつつあった──







「おかあさん、このお花のなまえはなあに??」


 ある日の昼下がり。

 シーヴァと共に近所周辺を散歩していたノエルが、草丈が高く、楕円形の葉で小枝を抱え込む黄色い花を指差し、たずねた。


「このお花はね、セント・ジョーンズ・ワートっていうの」

「セ、センッ、トォ……、ジョ、ジョーンズ……、ワ??」

「セント・ジョーンズ・ワート」


 シーヴァは幼い息子が覚えやすいよう、一言一句ゆっくりと丁寧に言葉を発する。


「セン、ト、ジョー、ズ、ワット!!」

「ノエル、ちゃんとお花の名前言えたじゃない!良い子ねぇ、よくできましたっ」


 たどたどしい口調ながらも花の名前を最後まで言い切った息子の頭を、シーヴァは 優しく微笑みながら撫でる。途端にノエルは顔いっぱいに笑みを広げた。


「かわいいお花だぁね」

「そうね。でもこのお花は可愛いだけじゃないの。お薬にもなるの。病気の人を助けてくれるすごいお花よ」

「すごーい!おかあさん、よく知ってるねぇー」

「あら、ノエルってばお母さんのこと褒めてくれるの??ありがと」


 イアン譲りの薄青の瞳をキラキラと輝かせ、ノエルは尊敬を込めた眼差しでシーヴァを見つめた。


「この花の別名をご存知ですか??」


 突然、背後からややくぐもった男の声。

 嫌な予感を覚えつつ素早く振り返り──、聞こえない振りをすればよかった、聞こえない振りで無視して帰ればよかった、と強い後悔の念が湧く。

 シーヴァの背後に突っ立っているのは、腰のない金髪、青白い肌、骸骨のように痩せた男であった。

 落ち窪んだ榛色(自分の瞳と同じ色でゾッとする!)の双眸は生気がなく、常にかすかな薄ら笑いを浮かべる陰気なこの男、エゴンはシーヴァにとって少々厄介な存在だ。


「この花の別名はオトギリソウ。名前の由来は……、昔々、東の島国でこの草を鷹の傷薬として使っていた鷹匠の兄弟がいましてね。一族秘伝の薬だったのに弟が他言してしまい、激怒した兄が弟を切り殺したんですよ。その時に飛び散った弟の血がこの草に染みついたから。よく見ると、葉には黒い班がついていますよね??これがその弟の血を思わせるとか……」


 得意げに話すエゴンとは対照的に、シーヴァの表情は見る見るうちに曇っていく。ノエルがエゴンの不気味さと血生臭い逸話に怯え、さっきまでの笑顔を失くしてしまったからだ。


「……ご高説、どういたしまして。そのお話は一応知ってはいたけど、小さな息子に聞かせる話じゃないので」


 これ以上、エゴンの面白くもない薀蓄なんかに付き合いたくない。

 シーヴァは適当なところで彼の話をわざと遮った。


「おっと、失礼。ノエル君にはまだ早かったですね。ノエル君、怖がらせてごめんね」


 エゴンが身体を屈ませてノエルの頭を撫でようとしたが、ノエルはその手をサッと避け、シーヴァの後ろに隠れてしまった。更にはスカートの裾を掴み、顔を埋めてはっきりと拒否の意を示す。


 ノエルは髪色や顔立ちのみならず、勘の鋭さや警戒心の強さまでシーヴァに似ている。幼いながらにシーヴァ同様、エゴンに対して得体のしれない気味の悪さを感じ取ったのかもしれない。


「やぁ、ノエル君は恥ずかしがり屋さんですねぇ。今はいいかもしれませんが、大人になってからも人見知りが激しいと後々苦労しますよ??そうだ、実は僕、近所の子供達を集めて字の読み書きや勉強を教えようと思っているんです。ノエル君もぜひとも参加しませんか??まだ早いかもしれませんが、今の内から勉強を通して色んな子供達と交流すれば、人見知りや物怖じしない子に育つでしょう!」


 こう見えてエゴンは中流ミドル階級出身で、女子寄宿学校の元教師だったと言われている。ゆえに教育に関して熱心な部分があるのだろう。

 だが、彼に対して一切の信用を置いていないシーヴァが端から誘いに乗る筈がない。


「……字の読み書きや計算だったら私も主人もマリオンもできるし、わざわざ教えてもらわなくても結構です。それに、息子にはちゃんと同じ年頃のお友達が何人もいます。お気遣いは無用です」

「でも、一応参加する価値はありますよ」

「いいえ、結構よ」

「まあまあ、そんな遠慮なさらず」

「だから……!」


 しつこく食い下がるエゴンにシーヴァの苛立ちは最高潮に達し、、言葉を荒げそうになった時だった。


「シーヴァ!アリスが泣き始めたから、そろそろ家に戻ってきて欲しいって、イアンさんが……」


 普段であれば『何よ。ちょっとの間くらいアリスの面倒見ることもできないわけ??』などと悪態をつくのだが、むしろ今日は心底ありがたかった。マリオンにもあとで礼を言おう。


「シーヴァ!シー……、あ…、こんにちは」


 シーヴァの元へやってきたマリオンもエゴンの存在に気づくと、整った眉目をほんのわずかに歪めた。シーヴァとは違い、誰とでも打ち解けやすいマリオンですら彼のことが苦手だった。


「ご主人がお呼びですか。じゃあ、僕は退散しますね」


 エゴンはシーヴァとマリオンを交互に見比べると、死神のような薄ら笑いを張りつかせたまま、そそくさと去って行った。







(2)


「ほんっっとー!に!助かったわ……!!」

あの人に絡まれていたの??」

「……うん……」


 マリオンの問いにうんざりと大きく頷く。

 シーヴァがエゴンに絡まれるのは今に始まったことでは──、ない。


 エゴンがこの界隈に住み始めたのは一年程前。

 彼とシーヴァが知り合ったのも同時期だった。


 あれはアリスの出産直前の頃。

 臨月の大きな腹を抱え、市場の野菜売りの屋台で品物を物色していると、シーヴァの背後、しかもかなりの至近距離で人の気配をふと感じた。振り向くと、陰気そうな痩せた男、エゴンが立っていた。


 もしかしたら彼の買い物の邪魔をしていたかもしれない。

 そう思ったシーヴァは、『すみません、もしかして、私、邪魔してました??』とエゴンに尋ねた。すると、『いえ、別に僕は何も探してないです。僕に構わず、品物を探してください』と返されたので、その言葉に甘えて野菜の品定めを続けた。

 そしたら、信じられないことに、エゴンはシーヴァの身体に密着する勢いでくっついてきたのだ。


『あの……!』

『あ、気にしないでください』


 いや、意味なくそんな風に引っつかれたら、気になってしかたないんだけど!


 結局、エゴンにさり気なくくっつかれることに耐えられなくなり、シーヴァはその日、買い物を断念せざるを得なかった。


 それからというもの、彼は事あるごとにシーヴァの前にしょっちゅう姿を現すようになった。彼女の周りを意味なくうろついたり、やたらと話しかけてくるようになったり。まるでシーヴァの行動をどこかで観察していて、見計らうかのようにして現れるのだ。

 最近では遠くからエゴンを見かけるだけで虫唾が走り、彼に気づかれる前にこちらから逃げる程、嫌悪と恐怖の対象と化している。今日に限って話しかけられてしまったのは不覚すぎる。


 (今では完全に回復しているが)アリスの出産時に体調を少し崩していたことで家事や買い物を手伝ってくれていたマリオンもエゴンの不可解な行動に気がつき、シーヴァが彼になるべく絡まれないように、絡まれていたら助けてくれたりと気遣ってくれているのが、せめてもの救いである。


「にいちゃん、僕、あのおじさん、キライ。きもちわるいもん」


 帰る道中、シーヴァに手を引かれたノエルが半泣きでマリオンにそう訴えかける。小さな子供はどこまでも正直だ。


「こーら、ノエル。そんなこと言っちゃ駄目だろ??」


 口では一応嗜めるが、マリオンも内心はノエルに同調している筈。


「ねぇ、シーヴァ。やっぱりエゴンさんのことイアンさんに言おうよ」

「ダメ。イアンに余計な心配をかけさせたくない。あの人は優しいから、あいつのことに気づけなかった自分自身を責めてしまう」


 シーヴァは唇を引き結び、頭を振る。

 マリオンも返す言葉が見つからないのか、口を噤んでしまった。


 やや気まずい雰囲気のまま家に帰り着いた三人だったが、そんな彼らを思いがけない人物が入り口の前で待っていた。


「……どちら様ですか??」


 先程のエゴンの件により、いつも以上に警戒心が強まっているシーヴァは不信感を露わにさせ、その人物に鋭く問いかけた。

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