第4話 メリルボーン家の娘

(1)


「しっかし、お前も変なところで抜けているつーかよぉ」


 メリッサが昼間働くコーヒーハウス『リヴァティーン』に寄った翌日の夜のこと。

 ラカンターの厨房でサンドイッチを作りながら、ランスロットは眉間に皺を寄せてマリオンを一瞥する。


「何なのさ、ランス」


 マリオンはコバルトブルーの瞳に涙を滲ませては玉ねぎを細かく刻んでいる。


「せっかくメリッサに会えたってのに、結局何も進展なしじゃねぇかよ」

「別にいいよ。彼女と会えるだけで僕は嬉しいんだ。ごく普通の女の子として働く姿も見れたし」

「お前は本当に欲がないっつーか、何つーか……。同じように育ってきたシーヴァさんとは大違いだな」


 あくまで娘のような存在としてしかシーヴァを見ていなかったイアンに、シーヴァは熱烈なまでに自分の想いをぶつけ続けていた。結果、遂にイアンが彼女に根負けし、二人は夫婦となったのだ。


「いいよなぁ、シーヴァさんみたいな美人に俺も言い寄られたいぜ!!」


 シーヴァは漆黒の柔らかい髪に切れ長のハシバミ色の瞳が特徴的で、実の父親が異国の人間だったことから、やや彫りの深い顔立ちの美人である。


「うーん。シーヴァは美人だけど相当性格キツイし、気難しいところがあるからなぁ。並の男の人じゃ手に負えないと僕は思うよ……」


 そもそもシーヴァは幼い頃からイアン以外の男性には一切目もくれず、彼だけをずっと一途に慕い続けていた。口を開けば憎まれ口ばかり叩くが、彼女がどれだけイアンを深く愛しているか、共に暮らすマリオンは肌でひしひしと感じ切っている。

 マリオン自身もシーヴァみたいに一生かけて愛せる女性ひとと巡り会いたいものだと常々思っていた。男の癖にえらく夢見がちだと充分自覚しているが。


「おい、ランス」


 カウンターから厨房に入ってきたハルが、声を潜めてランスロットに近づいてきたことで、マリオンは一気に現実へと引き戻された。


「カウンターから見て左端、四人掛けの席にいる三人組。あいつら、ヤバい奴らかもしれん」

「どういうことっすか??」


 さっきまでの和やかな雰囲気は一瞬で霧消し、ランスロットの目付きが険しさを帯びだす。調理する手は止めないまでも、マリオンの胸にも不安が去来する。


「多分、メリルボーン製糸工場をクビになった連中だと思う。さっきまでは散々工場やメリルボーンの爺さんへの不満を吐き散らしていただけだったんだが……」

「何なんすか??」


 ハルは更に声を落として話を続ける。


「メリルボーンの娘らしき女が今、お忍びで店に来たんだよ……」



 半年前、不況による経営危機に陥ったメリルボーン製糸工場で大幅な人員削減が敢行された。その対象となったのはいずれも家族を抱えた中年層だった。

 通常、製糸工場の従業員は女性が主となるが、この工場では不況で働き口を失くしていた男性達も数多く働いていた。しかし、安い賃金で長時間働いてくれる独身の若年層に比べ、家族を養う分賃金が高くなる中年層の方が経営側にとっては不利益な存在になる。結果、この非人道的な解雇により路頭に迷う人々が一気に増加し、この街の治安の悪化の一因に。

 貧しさ故に窃盗、暴行、殺人事件までも頻発。人々の怒りや不安、不満の矛先はメリルボーン家に向かいつつあった。


 メリルボーン氏の殺害や彼の血族の誘拐、メリルボーン邸の焼き討ちなどを計画する組織が存在しているという噂もまことしかかに囁かれている。そんな危険な下町なんかにわざわざ出向くなど、よほどの世間知らずだとしか思えない。


「別に奴の娘が誘拐なり強姦なりされようが俺個人は知ったこっちゃねぇ。ただ、俺の店に来たがためにそんな目に遭われでもしたら……、この店がどうなるか。お前なら分かるよな??」

「分かりましたよっと。メリルボーンの娘が店にいる間の身の安全はもちろん、店を出て行ってからも後をけるなりして、無事に屋敷に辿り着くまで見届けろってことっすよね??」

「そういうことだ」

「了解っす」


 ランスロットはベーコンの油で汚れた手をひらひらと振り、ハルに返事を返したのだった。





(2)


 メリルボーン氏の娘と思しき女性は、カウンターから向かって右側の二人掛けのテーブル席でひとり静かに酒を飲んでいた。


 狐のような細く吊り上がった瞳、小鼻が細くすっとした鼻筋の下には酷薄そうな薄い唇。整ってはいるが、やや冷たい印象の地味な顔立ちを縁どるのは、艶々と黒光りするブルネットの長い髪。彼女はメリルボーン氏の次女イングリッドであった。


「おうおう、見るからに高慢ちきそうな女だなぁ」


 カウンターの隅でランスロットがさりげなくイングリッドを盗み見ていると、彼女と目が合った。イングリッドは冷淡な眼差しで無表情のまま、ランスロットを数秒見つめたのち、ふっと目を逸らす。


「何だよ失礼な女」


 小声で悪態をつくランスロットを、「まぁまぁ、ランスの目が怖かったのかもよ??」と微妙な言い回しでマリオンは慰める。


「いや、あいつも結構目が据わってるぞ??」

「そうかなぁ、何かボーっとしてるだけのようにも見えるけど」

「あんな陰気そうな女が人気の舞台女優だなんて世も末だな」


 イングリッドは街の内外で有名な劇団『クリープ座』の看板女優でもある。

 華のある美人ではないものの、舞台の上ではまるで役に取り憑かれたかのような、鬼気迫る迫真の演技を見せる彼女の姿は観客の目を十二分に惹きつけるという。


 マリオンの言う通り、イングリッドはどこか心あらずな風情でラム酒のグラスを傾け、ちびちびと舐めるように飲んでいた。

 やがて、グラスの酒が一滴もなくなると、イングリッドは音を立てずに立ち上がり、何も言わずに飲み代とチップを机に置いてラカンターを後にした。

 すると、例の三人組も「おい。飲み代、ここに置いておくからな」とマリオンに声をかけ、イングリッドに続いて慌ただしくラカンターから去っていく。


「そんじゃ、一仕事行ってくるわ」


 ランスロットも三人組の後に続き、出て行く。

 取り残されたマリオンは他の客の注文を取ったり、皿洗いをしたりと、ランスロットの分まで淡々と通常の仕事をこなす。


 ランスロットのことだから一時間もすればきっと、「あぁ―!疲れた!!疲れた!!」と大声でぼやきながら無事に帰ってくるだろう。彼ならきっとだいじょうぶ。一抹の不安を消し去るように、マリオンは自分に強く言い聞かせた。


 ところが、予想に反してランスロットはものの三十分もしない内に店に戻ってきたのだ。右頬と、左腕に傷を携えて。


「ちょっと、ランス!どうしたんだよ、その怪我は!!」

「んな血相変えんなって。かすり傷だっつの」

「でも……、ともかく奥で手当てしよう!」


 ハルの許可を得て、ランスロットを物置部屋へ連れていく。

 借りた薬箱の中から出した清潔な綿に消毒液を染み込ませ、ランスロットの傷口をそっと拭き取る。


「いってぇ!あぁ、いくらマリオンが女顔でも、こういう手当は本物の女にされたいよなぁ……」

「あのねぇ」


 呆れつつ、ランスロットに減らず口が叩ける元気があることに心底安堵する。


「しかし、あいつがまさか銃を隠し持ってるなんて……。しかも、一人は確実にりやがった……」

「えっ……、どういうこと??銃を持っていたのは三人組じゃないの??」

「違う。イングリッドの方だ。あの女に襲いかかろうとした三人組へ、眉一つ動かさずに発砲した。俺は、その巻き添えを食わされそうになっただけ」

「…………」

「正当防衛と言やあ、それまで……。けど表沙汰になりゃ、メリルボーン家はこの街の中産階級ミドル以下の連中からますます嫌われっだろな」



 ランスロットの言葉を聞きながら、マリオンはメリルボーン家で育った一〇歳以前の記憶を思い返していた。


 実の子ではない自分を、メリルボーン氏や彼の家族が無視するのは当然だと、幼心にも理解していた。だが、実母のエマにまで存在しないかのように避けられるのは悲しくてしかたなかった。

 そんなマリオンに、六歳年上のイングリッドだけは実の姉のように優しく接してくれていたのだ。

 なのに──、今日店に訪れたイングリッドはあの頃と打って変わってひどく醒めた目をしていた。


 時が経てば、人は誰しも変わっていくものとはいえ、かつてのイングリッドの姿を知るマリオンは店内での彼女の様子、ランスロットの話に少なからず衝撃ショックを受けていた。


 この九年の間にイングリッドには何があったのか。


 いくら胸がざわつこうと、答えなど分かるはずなどなく。

 しかし、しばらく後に少しずつその答えが明かされていくことを、その時のマリオンは知る由もなかった。

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