第11話、とある雨の日④

 お風呂上がりの火照りとはまた別に、全身に帯びる甘い熱を感じる。


 俺達はパジャマに着替えてリビングに戻った後、熱に浮かされたような表情を浮かべながら、ソファーに並んで座っていた。


 さっきまでの雷雨と風が嘘のように止んでいる。今は雲の切れ間から月明かりが見える程で、夜空には星々が静かに瞬いていた。


 そんな綺麗な夜空を眺めながら、俺はユキの様子を窺っている。


 ユキはまだ湯冷めしていないようで、頬を赤く染めたままぼーっとしていた。


 きっと俺の顔も同じように赤いだろう。お互いに言葉を交わす事なく、ただ静かに座っている。


 先程の事が脳裏に浮かんでしまい、とてもじゃないが平常心で居られなかった。


 ユキもいつもなら髪を乾かして部屋に戻り、机に向かって勉強をしている頃だが、今日はそうしなかった。


 銀色の髪は濡れたままで、毛先が肩に触れていて艶めいていた。もじもじと膝を擦り合わせて、時折こちらを見ては俺と目が合うと顔を逸らす。


 やっぱり互いの裸を見てしまった事を強く意識しているのか、俺と同じようにユキもこの状況に気まずさを隠しきれないようだ。


 けれど同時に甘く痺れる感覚を覚えているのも一緒だと思う。


 熱っぽい眼差しを向ける青い瞳は潤んでいて、桜色の柔らかな唇からは甘い吐息が漏れている。


 ユキの色っぽい様子を見ていると、全身に帯びる熱が更に強くなっていくのを感じた。


 ただこのまま互いに黙っているわけにもいかないだろう、俺は意を決して口を開いた。


「ユキ、今日は寒いし髪が濡れたままだと風邪ひいちゃうかもしれないから。そろそろドライヤーで乾かさないか?」

「そ、そうですね……。では取ってきます」


 俺の提案にユキはこくりと頷いて、ソファーから立ち上がろうとする。


 けれど足をもつれさせて倒れそうになったので、俺は咄嵯に彼女の手を引いて抱き留めた。


 やっぱりさっきの事でかなり動揺しているな、とユキを抱きしめながらぽんぽんと優しく背中を叩いた。


「ユキ、怪我してないか? 大丈夫?」

「は、はい……なんとか」


「危なかったな。もう少しで転ぶところだった」

「う、うっかりしていて……ごめんなさい」


「謝らなくていいんだぞ。ユキが無事で何よりだから。それよりソファーに座って良い子にしてろ。俺が代わりにドライヤー取ってくる。なんならユキの髪も乾かすし」

「い、いえ、それは悪いです。自分で出来ますから……」


「遠慮しなくていいって。ユキの世話を焼くのは嫌いじゃないからさ。むしろ好きな方だし。それにユキっておっちょこちょいな所もあるから、放っておけないんだよな。小学生の頃とか一緒に歩いてると何もない所で転んだりさ」

「あ、あの時よく転んでいたのは……わたし、いつも晴くんばかり見ていて……足元、よく見てなくて……」


「ん? 俺の事ばかり見てたから転んだって、何だか面白い理由だな」

「あ……わ、忘れてください。わたし、何も言ってませんから……っ」


 ユキの慌てた反応に俺はくすりと笑みを零した。抱きしめられたまま、ユキは恥ずかしさを誤魔化すように俺の胸に顔を埋める。


 小学生の頃によく転んだ理由が、隣を歩いてた俺に見惚れていたからだなんて。凄く可愛い話だと思った。


 それをつい口にしてしまって、恥ずかしがっている姿はもっと可愛い。


 ぽんぽんとあやすようにユキの背中を撫でた。


「ユキは本当に可愛いよな。いつも俺の事ばっかり考えてくれてさ。さっき転びそうになったのも同じ理由なんだろ?」

「言っちゃだめ、です……晴くんのばか」


 ユキは小さく呟いて、ぎゅっと俺の服を掴む。


 俺に胸に埋まりながら、拗ねた口調で言うユキが愛おしくて仕方がなかった。


「ともかくユキ。ドライヤー持ってくるから座って待ってて。ちゃんと良い子で居るんだぞ」

「むぅ……。分かりました……素直になります。なので、早く戻って来ないと怒ってしまいますよ」

「大丈夫。ユキがこれ以上拗ねないよう、すぐに戻ってくるから」


 ユキの濡れた髪を優しく撫でてから、俺はリビングを出て脱衣所に向かう。


 洗面台の下の棚からドライヤーを取り出して、ユキの待っているソファーへと急いだ。


「ユキ、持ってきたぞ。髪乾かしてあげるから、そのままじっとしてて」

「あ、あの、晴くん。本当に良いのですか? わたし、髪が長いからすごく時間かかってしまいますよ……?」


「平気だって。それにしてもらった方が早く終わるだろ? ユキが風邪ひかないように、しっかり乾かしてあげるから」

「で、でも、迷惑じゃありませんか……?」


「全然。むしろ嬉しいくらいだよ。ほら動かないで」

「は、はい……。ありがとうございます、晴くん」


 ソファーに座ったユキの後ろに回り込んで、俺はドライヤーのスイッチを入れた。銀色の髪を慈しむように暖かな風を当てていく。


 手ぐしで髪をかき分けながら温風を当てていると、ユキの髪は潤いを保ちながらもさらさらと揺れ、天使の輪が光沢を纏い始めた。


「ユキの髪、きらきらしてて凄く綺麗だよ」

「は、晴くん……。そういう事言われると、余計に恥ずかしくなりますから……」


「ごめんごめん。でも本当にそう思ってるからさ」

「……ばか。晴くんのばか」


「今度は二回も言われた、俺泣いちゃうかも」

「し、仕返しです……。晴くんが悪いのですから、反省してください……っ」


 俺に背中を向けながら、ぷいっとそっぽを向くユキ。銀色の長い髪の隙間から見える耳は、ほんのりと赤く染まっていた。


 照れるとこうやって可愛く拗ねるところがいじらしくて可愛い。


 こんなユキの姿を見れるのは俺だけの特権で、天使のように可愛いユキを独り占めしている事に俺は少しだけ優越感を抱く。


 ごく当たり前のようにユキの髪を乾かしているけれど、これも相手が俺だからさせてくれる事だ。他の人には絶対にこんな事はさせないだろうし、今だって無防備な姿で俺に身を委ねてくれている。


 ユキに心の底から信頼されている事への嬉しさと、その信頼を裏切るような事は決してしないと固く誓いながら、それと同時にもっともっと甘やかしてあげたいという気持ちがこみ上げてくるのを感じた。


 全体的に髪が乾いてきたので、俺はドライヤーのスイッチを切って手ぐしで髪をとかしてあげる。手触りの良い髪は艶めいていて、ほんのりと甘い香りを漂わせていた。


「晴くんに髪を乾かしてもらうの……すごく気持ちが良いです。くすぐったいのに心地よくて、わたし眠ってしまいそう……」


 横からユキの顔を覗き込んでみると、青い瞳はとろんと蕩けていて、ふにゃふにゃに緩んだ表情を浮かべていた。


 俺が頭を優しく撫でれば、気持ち良さそうに目を細めて、幸せそうに口元を緩ませている。


「晴くんの手、優しくて温かくて……今日たくさんわがままを言ったのに、まだ足りないって……どんどん甘えたくなっちゃいます」

「足りないならもっと甘やかすよ。ユキがして欲しい事、全部してあげるから」


 俺はユキの頭を撫でながら優しく笑いかける。


 雷に怯えていた姿を見て、ユキを守りたいという想いは更に強くなっていた。


 ユキの顔を覆っていた包帯は外れたけれど、あの頃に出来た心の傷はまだ深く残っている。


 その心の傷を塞いで、楽しい思い出で埋め尽くしてあげたい。辛かった記憶を全て忘れられるくらいまで。


 そんな俺の想いに応えてくれるように、ユキはとろんとした甘えた声でおねだりを始めた。


「甘やかして、ください……。晴くん、わたしが寝ちゃうまで、なでなでしてくれませんか……?」

「髪も綺麗に乾いたし、そうだな。ユキが寝るまで傍にいるから」

「えへへ……ありがとう、晴くん」


 俺はドライヤーをテーブルに置くとユキの隣に腰を下ろした。そして膝の上に乗るようにぽんぽんと叩く。


 それを見たユキはゆっくりと俺の方へ体を寄せて、膝の上にぽふっと座り込んだ。


「晴くんのお膝の上。わたしだけの特等席、ですね」

「ほんと、ユキは甘えんぼうだな」

「晴くんがわたしを甘やかすから、いけないんです……。わたし、わがままになっちゃいました」


 ユキは膝の上に座ったまま小さな身体を預けて、俺の胸に顔をぐりぐりと押し付ける。


 甘えてくる姿が可愛くて頭を撫でると、ユキは心地良さそうな甘い吐息を漏らした。


「よしよし、わがままなユキも可愛いよ」

「晴くんのなでなで気持ちいい、です。こうして寝かしつけてもらうの……なんだか、小学生の頃のお昼寝を思い出しちゃいますね」


「そうだな。ちっちゃい時によく二人でお昼寝してた。あの時も俺がユキを寝かしつけてたっけ」

「はい……。晴くん、わたしを寝かしつけるのすごく上手で、頭を優しく撫でてもらうのがすごく好きでした……」


 今も頭を撫でる度に、ユキは気持ちよさそうにふにゃふにゃと甘えた声を漏らす。


 今にも夢の世界に旅立ちそうなユキは、俺の胸に顔をすり寄せてもう一度甘えた。


「晴くん……あったかい。晴くんの温もり、大好きです。優しくて……胸がぽかぽかします」

「寝ても良いからな。ちゃんと部屋まで運んであげるから」

「んぅ……。はるくん、ありがとうございます……」


 ユキはふにゃっと微笑んで、ゆっくりと瞼を閉じる。規則正しい深呼吸を繰り返し、安心しきった表情ですやすやと眠りについていく。


 小さな寝息を繰り返す天使のような寝顔を見つめながら、俺は優しくユキの頭を撫で続けた。


「おやすみ、ユキ」


 すやすやと寝息を立てるユキを起こさないよう静かに声を掛けて、俺はユキをそっと持ち上げる。


 俺の腕の中で眠るユキの小さな身体は羽のように軽くて、そして柔らかくて温かい。幸せそうに頬を緩ませるユキのあどけない寝顔は、愛らしくて見ているだけで癒された。


 そうしてユキをお姫様のように抱きかかえたまま、俺はリビングを後にする。


 ユキは夢の中でも甘えてくれているのか、俺の服をぎゅっと掴みながら、むにゃむにゃと可愛らしい寝言を呟いていた。

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