第2話 就職

 大学三年生の春、就活は上手くいかなかった。何度も面接を受けて落ちるたびに、愛文はだんだんと焦燥していった。

「お兄ちゃんは声がちっさいのよ。もっと大きい声で返答しなきゃ」

 そう由紀はアイラインを引きながら言った。

「そうかなぁ。俺、そんなに声小さい?」

「うん。か細い。正直大学生でよくそんなんで生きてこれたなと思うレベル」

「会社員になったらバカでかい声で威嚇でもしなくちゃいけないのか?」

「威嚇っていうか、エネルギー量を表わしてると思うからねぇ声の大きさは。やっぱり、企業は元気いい人に来てもらいたいから」

「無理だよ由紀、今更すぎる」

「腺病質なのがお兄ちゃんって感じだからねぇ。まぁ腐らず頑張って」


 やっと内定が出た会社に通うことになった。そこは、朝から社訓を唱和させるブラック企業だった。

「おい、正門、しゃきっとしろ、しゃきっと」

 直属の上司、天宮がそうハッパをかけてくる。

「は、はい……」

「正門は文学ばかり読んで軟弱だからな、俺が叩き直してやるよ」

 まっぴらごめんです、と心のうちで思った。

「はい、よろしくお願いします」

 口では全然違うことを言う。そのことで、愛文の気持ちは擦り切れそうだった。

「この書類!やりなおし」

 ばさばさと書類を机に叩きつけられる。

「分かりました……すみません」

 辞めたい。でも、その後のあてがない。

 愛文は頭を手で押さえながら、書類に目を通した。

 向かいに座っている須藤美緒という女性が、愛文にこそっと話しかけてきた。

「正門くん、大丈夫?ちょっと手伝おうか?」

「須藤さん、ありがとうございます。大丈夫です」

「ほんと?なんかあったらすぐ言ってね」

 須藤さんは優しい人だ。なんでこんなブラック企業で働いているのだろうと首を傾げたくなる、と愛文は思っている。

「正門くんは頑張り屋さんだからね」

 そう美緒は笑いながら言った。

「背負い込みすぎるのもよくないけど」

「……はい」

「でも私、正門くんのそういうところ、好きよ」

 どきり、と心臓が跳ねた。好き。……違うちがう、その好きはそういう好きじゃない。

 愛文は美緒のことが好きだった。こんな状況で、優しくされたら好きになるに決まってる。愛文は今まで付き合った人がおらず、そのため、簡単に心が揺れ動いた。やめてください。もっと好きになってしまう。そう愛文は心の中で呟き、心の中の床にごろごろ転げ回った。茶髪でボブの美緒の顔貌を見ながら、愛文ははぁっとため息をついた。須藤さんが向かいにいてくれてよかった。そうでなかったら、俺はとっくの昔に潰れてる。彼女がいてくれたから……僕は、

「正門ぉ。このデータ、計上しといてくれ」

「出張費ですか。領収書はありますか?」

「馬鹿か。ねぇよそんなもん行ってないんだから。上手くやれよそこは」

 不正だ。愛文の顔から血が引いた。

「……できません」

「はああ!?やれよ、お前に拒否権なんてないからな」

「いやいやいや。不正ですよこれは。無理です」

 頭を叩かれる。

「いてっ」

「今日中な」

 問答無用だ。美緒が気の毒そうに愛文に言った。

「うちの会社、経理計算の不正をして、繋がりのある暴力団に資金を流してるらしいの。ひどいよね」

「えええ、そんなの犯罪じゃないですか」

「辞めたかったら辞めてもいいよ。私達のことは気にしなくていいから」

「そんな……」

 須藤さんはどうしてこんな不正が横行する場所で働いているのだろう。愛文は不思議だった。

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