Ⅰ 中篇(下)

 

 密航を願う者は城郭都市に行き、その筋のものに手配を頼む。違法であるが城郭都市は知らぬ顔を決め込んで積極的に隠ぺい工作までしていた。

 海に向かってひらかれた城郭都市は、もとはといえば岩崖の上に築かれた砦にしかすぎなかった。その砦を土木建築に優れた帝国が次第に広げ、人を移住させた。今では首を左右に振っても端が見えないほどの市壁を街の周囲に築いている。本来ならば内陸にあるはずの城郭都市が海にせり出すようにして建造されているのは異国との戦争に備えた要塞を兼ねているからだ。

 かつてあった砦址は街の一部として市街地図の中に吸収されてしまい、分厚い壁に囲まれた街を外から眺める限り、その遺構は完全に見当たらない。

 海に霧が出る日には城郭都市は空中に浮いているように見えた。市壁と海に護られて、城郭都市は陸地の島のように独立した繁栄を築いていた。



 自治領であることを示す旗がなびく城郭都市の市門に、珍しく、都市総督の姿があった。

「湖水地方から直行されて来られたとは。長旅ご苦労さまです」

 隊を率いて到着したアイネイアスを、城郭都市の総督はにこやかな態度で出迎えた。名門貴族の家に生まれたアイネイアスは尊厳侯の覚えもめでたい若手将校としてその名が知られていた。

 日に焼けて引き締まった体格をしたアイネイアスは馬から降りると、豚のように太った総督を上から見下ろした。そこからでは市壁に遮られて海は見えない。

「こちらで勝手にやる。兵舎の用意だけ頼みたい」

「専制国軍には幾らでも便宜をとりはからいましょう」

 帝国が分裂した折の内乱のどさくさに紛れて自治を宣言したものの、城郭都市はいまだ専制国の一部だ。独立するまでには至っていない。

 アイネイアスは饗宴の誘いを断った。太った総督を追い払っただけでなく、アイネイアスは街の内部に入ることもしなかった。総督の下ではたらく上級官吏のラズロは、重ねてアイネイアスに申し出た。

「街中に滞在先をご用意してあります。アイネイアス隊長」

 太った総督とは対照的に、上級官吏ラズロの方は糸杉のように痩せていた。防壁の上を大股で歩くアイネイアスの後ろに附き従いながら、ラズロはなるべく胸壁から距離をあけた。ここを歩くのは苦手だ。城郭都市は崖の上にある。そこにさらに壁を立てている為、市壁の上から海を見ると、高所が苦手なラズロなどは髪の毛が逆立ちそうになる。

「なにも、詰所に泊まってご自身で検問に当たらなくとも」

「好きにさせてもらおう」

 手短な返事がきっぱりと返ってきた。有事には弓兵が並ぶ壁の上を一巡しながら、アイネイアスは周囲の地形に眼を走らせていた。

「遊びに来たのではない」

「アイネイアス隊長。お探しの方はご婚約者ですか」

「わたしに婚約者などいない」硝子のような眼をしてアイネイアスは応えた。

「いい加減なことを云うな」

「これは失礼を」

 上級官吏ラズロは俯いた。内心では肩をすくめていた。アイネイアスは若いのに堅物なやつだ。

 そういうラズロもまだ若いといってもよい歳なのだが、鍛え上げた肉体をもつ軍人と並ぶと、急に文官のわが身が老人めいて見えてくる。アイネイアスの隣りに並んで立つと鋼鉄と枯木のようだ。

 アイネイアスの軍套をラズロは避けた。下から吹き上がる海風に緋色の軍套が火の鳥の翼のように何度もはためき、その度にラズロの鼻先を掠めるのだ。閉口しながらラズロはぼやいた。


 名門貴族出身のお坊ちゃん将校め。長年、皇家から恩顧をこうむりながら帝位簒奪者の尊厳侯に下った変節漢。お前なんかこのまま風に吹き飛ばされちまえ。


 もちろんそんな悪態は億尾にも外には出さず、ラズロは云い直した。

「お探しの方は皇女ユーディットさま。それに間違いありませんか」

「そうだ」

「皇女さまが尊厳侯に嫁ぐという噂はまことのことだったのですね。内乱の傷がまだ癒えぬうちにそんなことになったら尊厳侯が皇帝暗殺の黒幕だと云われかねません。ですので、皇女さまのご結婚相手は帝国貴族、つまり、あなた様になるような話を小耳に挟んでいたのですが」

 ラズロを無視して、アイネイアスは石積みの胸壁に片手をかけて半身を乗り出し、今度は高さを測る眼つきをして切立った崖下を覗き込んでいた。海を見詰める若き将校はそのまま石膏で模りしてしまいたいほどの横顔をしている。

 アイネイアスは無愛想にラズロに応えた。

「逃げた」

「ええ、まあ、そういうことだそうで」

 ラズロはアイネイアスの腕を眺めていた。敵の首を刎ねる腕というのは、ラズロの眼にはそれ自体が武器に見える。

「まったく遣る瀬無いお話で。皇女さまを亡命先から帝国にご招待したまでは良かったものの、滞在中の湖水地方の離宮から、お姿が消えたとか」

「夜のうちに失踪した」

「誘拐では」

「違う。置手紙があった」

「それでは、誘拐のほうがまだましですね。皇女さまは皇都に行くのがそれほどお厭だったのだ」

 ラズロはお喋りだった。

「皇女さまから見れば、尊厳侯などただの臣下にしか過ぎませんからね。帝国を離れた時には十代であられた皇女さまも、今では未婚なのが不自然なほどのお歳になっておられます。若い女人はえてして結婚に対して理想が高い。それで想い余って、お姿を隠してしまわれたのでしょう」

 アイネイアスは返事をしなかった。ラズロは構わなかった。

「尊厳侯の妻となり、新皇帝の若妻となるのも、末の皇女さまとしては悪くはない身の振り方だと想いますがねえ。女は感情で動きますから。それにしても身の上が案じられます。御付の随員も同時に消えたとか。無事に保護して連れ戻せるとよいですね。そして首尾よく拾えたら、誰かがユーディットさまに云いきかせて差し上げることです。『何がお望みですか。貴女さまは千年続いた帝国の皇女さまなのです。多少の我儘もきき届けないような男は専制国には一人もおりません』とね。

 ところでアイネイアス隊長は何故こちらへ。この先は海です。城郭都市は帝国の端っこです。皇女探しに何かの目星でもおありなのでしょうか」

「ラズロ」

 アイネイアスは官吏の名を呼んで振り返った。ラズロは緊張して硬直した。

「はい」

「さすがは上級官吏だ。内密の話のはずなのに、貴殿はいろいろと詳しいようだ」

「ええそれはまあ。耳に入ることは全て入れておく主義です」

「では訊こう。自治が認められるまで、尊厳侯に対して反旗を翻した歴史を持つこちらの城郭都市には、叛逆心をもっている者が今も潜伏しているのではないか」

「まさか」

 半笑いを浮かべてラズロは否定した。

「専制国から城郭都市の自治権が認められるのと引き換えに、反乱に加担した者たちは全て処刑されました。此処から見えるあの辺りが処刑場となった泥地です。骨となって朽ち果てるまで反逆者たちの遺骸は放置されたままでした。子ども時分にわたしもそれを眼にしております。二度とあのようなことはないかと」

「休憩用の屋敷が街中にあると云ったか」

「はい。高台の一等地に。総督の命令でご用意しております」

「ではそこを、今のうちにご婦人用に整えておいてもらいたい」

「早急に」

「この街でもし皇女がいなくなれば、誰が疑われるのか考えることだ」

「というと」

「ラズロ。貴殿の身内には、あの折の反乱に加担した者がいるそうだな」

「屋敷の警護兵を増員します。皇女さまのために屋敷中を花綱で飾り立てておきます」

 これ以上あらぬ疑念を抱かれる前に、ラズロは脱兎のごとくアイネイアスの前から逃げ出した。帝国から引き継いだ専制国の情報管理能力が優れていることは疑いもないことだが、地方のいち官吏にしか過ぎぬラズロの履歴にまで眼を通しているとは、有能なのか猜疑心が強いのかしらないが、アイネイアスは厭な男だった。


 ラズロが行ってしまうと、城壁の上にはアイネイアスだけが残された。アイネイアスは下界に眼を向けた。波頭が青銀色の帯のように彼方に続き、途中で空と繋がっている。その先が異国だ。

 彼は反対側にも眼を遣った。風が吹いていた。世界の反対側には見慣れた山脈と森が広がり、起伏のある大地に皇都に繋がる街道が何処までも延びている。

「逃げた」

 誰に聴かせるともなく、アイネイアスはもう一度、呟いた。




》後篇

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