Ⅰ 中篇(上)
貴人の屋敷で逢った時には、見えるところの全てが鱗状の穢れに覆われていた少女の膚。その病相が全て洗い流されている。顔に広がっていた醜い灰色のかさぶたもきれいにない。
「ルツという名も嘘なのか」
「なかなか上手に死にかけてたでしょ」
水浴びを終えた少女は殻を剥きたての卵のようにつるりとした顔をして、肌着に包まれたその四肢は健康そのものだった。
「本名はルッツリア。ルツと呼んでいいわ」
明るい陽光の下で少女が頭をふると、髪の先から雫が飛んだ。水の雫はテセウスの足許まで飛んできた。
テセウスは呻いた。
「俺を騙したのか」
「テセウス、あなたって、財布を無くしたと嘆いている人がいたらすぐに騙されてお金をあげちゃって、その間に荷物を盗まれてしまうような人?」
樹々を透かして翡翠色の光が川べりを染めている。大樹の幹に引っかけてあった衣を頭からかぶり、腰ひもを結びながらルツは少年のように、にたりと笑った。
「軍隊に居たわりには甘っちょろいわね」
「損したぜ」
テセウスは少女の襟首を掴むと土手から引き揚げ、脱いで揃えてあった
「今日までお姫さまでも運ぶようにして静々と馬を歩ませていたが、まったく無駄な気遣いだったわけだ」
幌の前方からルツは顔を出した。
「依頼された仕事は継続して。わたしは故郷に帰りたいだけなの。海の向こうの南の国がわたしの国なの」
「皇都に引き返すと誰が云った。今から馬を飛ばせば丸三日は港町で遊んで暮らせる。飛ばすぞ」
ルツは抗議の声を上げた。
「身体を乾かす間くらい待ってよ。それに馬が可哀そう」
「黙って乗ってろ」
テセウスはルツの頭を幌の中に押し込んだ。
「この馬だってそろそろ脚の速いところを見せたいと想ってるさ」
石を蹴散らして猛烈な速度で走り出した馬車を、小川で遊んでいる子どもたちが愕いた顔をして見送っていた。
街道とは、帝国の遺物そのものだった。すみやかに地方にまで軍勢を送り届けるための軍用道路として発達し、幅を揃え、恒久的な使用とそこを通る軍勢の重みに耐えうるように土中から掘り起こして石を敷き詰めてある。鳥の眼からは、皇都を中心にはるか遠くまで蜘蛛の巣が広がっているように見えただろう。
テセウスとルツの馬車はその道を辿っていた。敷設された帝国の街道を通る限りは道に迷わず、排水溝のお陰で悪天候でも悪路に悩まされることもない。
途中から「荷台だと酔いそう」と云ってルツが幌の中から御者台のテセウスの隣りに移ってきた。
病人のふりをする必要のなくなったルツは鼻唄まで歌ってご機嫌だった。
テセウスは訊いた。
「俺を雇ったあの貴人は誰だ」
「わたしの養父。わたしは養女なの」
時折テセウスに代って馬車を走らせながらルツは無念そうだった。
「最初は一人で馬に乗って皇都を出て行くつもりだったのに、大反対されちゃった」
それは反対されるに決まっている。身分のある若い娘が独りきりで街道を旅することはまずない。通常ならば輿か婦人用の馬車に乗り、大勢の供がついている。
「ルッツリア」
「ルツでいいわよ」
「お前の故国は、海の向こうだと云ったな」
「そうよ」
「なぜ帝国にいる」
「子どもの頃に連れて来られたの。そのうち皇帝が殺されて内乱が始まって、帰るに帰れなくなってしまったの。それで、貴族の養女になって今まで実子同様にとても良くしてもらっていたのだけど、事情があって、帝国領を出ることにしたの」
いかなるのっぴきならない急な理由があれば、そんなことになるのだろう。テセウスは幾つか理由を考えてみたが、どれも外れている気がした。
がたがた揺れる馬車の上で、ルツはにっこりと笑った。
「あの仮病のお蔭で、誰にも何も疑われることなく皇都から易々と外に出ることが出来たでしょ?」
肌に石膏や泥をこすり付け、暗がりに臥せっていると、ルツは実に病人らしく見えた。本物の業病だとすっかりテセウスも騙された。
それはとりもなおさず、普通に顔を上げてルツが都の門外に出て行くのには、何らかの障害が立ち塞がっていたということだ。しかしテセウスはそれ以上のことは深く訊ねなかった。面倒には深入りしないに限る。頼まれたとおり、ルツを海の向こうに連れて行くだけでいい。
「わたしの養父は以前からテセウスのことを知っていたの」
仕事を依頼されるまで貴人と逢った憶えはない。テセウスが選ばれたのには、意外な理由があった。
先年、市民兵として戦に参加したテセウスは帰還すると、同じ隊にいた戦死者の遺族を一軒一軒訪ね歩き、遺言や遺品を伝えて回った。その話が都中の評判になったのだ。別段珍しい話ではないのだが、世の中が乱れている時には金目のものを黙って持ち逃げする者が多いものだ。それだけにいっそう、テセウスの振舞いが美談となって人々の胸を打った。
「勇敢で義侠心があって口が堅くて約束を護る。養父はあなたのことをすっかり気に入って、この仕事を任せることにしたの」
買いかぶりだ。
テセウスは胸中でぼやいた。
感謝されようと想ってやったわけでもない。若くして死んでいく仲間がただ不憫だっただけだ。
「それにね、養父はテセウスのお父さんのことも知っていたの。とてもいい軍人だったと惜しんでいたわ」
想いがけず父の名を聴いたテセウスは、手綱を持つ手が少しふるえた。或る日尊厳侯の兵が家にやってきて連れて行ってしまった父。外で遊んでいたテセウスは連行されていく父を追いかけ、兵士に蹴り転がされた。
「家に帰っていなさい、テセウス」
それきり父は帰って来なかった。父が処刑されたことを知った母は、嘆きの中で衰弱して死んだ。
「海の向こうがわたしの故郷。海岸には青い花が咲くの」
夜明けの空の色をした眸をきらめかせて、御者台にいるルツは木漏れ日に顔を向けた。
「わたしの名はその花の名が由来なの。ルッツリア。死んだお母さまがつけたのよ」
海を隔てた南の異国は帝国の同盟国である。同盟国ではあるが帝国の内乱からここ十年は断交状態だった。異国は帝国の後継である専制国を国家として認めていない。第三皇子の引き渡しを拒み通しているのも、専制国の君主である尊厳侯を皇帝の代理とは数えていないからだ。
断交状態ゆえ、もしルツの故国の異国へ渡るには、密航するしかない。
テセウスが貴人から頼まれた仕事の中身には当然それも含まれていた。
》中篇(下)
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