第一章 護衛と乙女
Ⅰ 前篇
その話がテセウスの許に転がり込んできたのは昨日のことだ。畠を耕して家に戻ってくると、貴人が供も連れずにテセウスを待っていた。
テセウスだな。お前の腕を見込んで仕事を頼みたい。
品のいい貴人はそう云い、金子の入った袋を卓に差し出した。テセウスは貴人に背を向けて農具を片付けた。家の壁を染める夕暮れの色がいつもよりも濃い日だった。
家業とはべつに、戦となれば招集に応じて鎧兜に身を包む。それが専制国の市民兵だ。テセウスはその市民兵として先年まで徴兵に応じてきた。
正規軍に混じって定期的に練兵してきた専制国の市民兵は精強で、帝国の周辺諸国からも警戒される存在だった。それは帝国が専制国と名を変えてもかわらない。
テセウスの国は、巨大な帝国が内部分裂した後に再生した残存国家だった。かつての領土を大きく失ったとはいえ、いまだ強大で、帝国時代からそのまま残った市民兵も十分な数がいた。目覚ましい功をたてた者についてはその名を軍属の書記に憶えられて、職業軍人へと勧誘される。
しかしテセウスは首を振るのだ。
「軍人になる気はない」
仲間たちはそんなテセウスに云った。
「しかしだな、テセウス。将軍たちとても全員が尊厳侯に盲従しているわけではない。第三皇子がお戻りになるまで帝国を護ることにはかわりない。お前のはたらきぶりを高く評価して下さったからこその、お声がけだ」
だが畠を耕すテセウスは、その若い頬に流れ落ちていく汗が戦場の血ではないことを噛みしめながら、きっぱりと云った。尊厳侯には従わない。
十年前、皇帝が何者かに
「帝国を護るための戦いだった。その戦に俺の父親は参加した。それなのに裏切り者扱いされて父は尊厳侯に殺されたのだ」
テセウスの父は陸軍人だった。精悍な顔が親子で似ているとよく云われた。
「貴族階級の上官が先に死んでいたせいで、父を庇う者がいなかった。父は全ての罪を負わされて処刑されたのだ。俺は、そんな尊厳侯の許に下る気はない」
皇帝亡き後、帝国の版図を受け継ぎ、残存国家の君主となったのは皇都を護り抜いた軍団長だった。軍団長は皇帝を名乗らず、自らを専制国家の尊厳侯と称した。
人々は囁いた。
「なんだい、その尊厳侯ってのは。皇帝では駄目なのか」
「実質皇帝だが、皇帝になる一歩手前ってことさ」
「すぐに皇帝を名乗れば帝位簒奪者の謗りを免れないからな。やはり彼が皇帝暗殺の首謀者だったのだとも見做されかねない。亡命した皇女を妻に迎えたら、皇家の婿として堂々と皇帝を名乗るつもりなのだ」
「嫁に来てくれる皇女がいるかねえ」
かつては帝国、いまは専制国と名を変えた都に暮らす人々は首をかしげた。
「こういっては何だが尊厳侯は若いとはいえぬお歳ではないか。離婚すればいいとはいえ妻もいる」
「政変から十年だぞ。皇女がたも、ほとんどがご結婚されて亡命先で落ち着いておられる。誰かまだ未婚の姫が残っていたかな」
「一人いる。末娘の皇女ユーディットさまだ」
男子皇族が不在の今となっては皇女と結婚した者だけが皇帝の名や、領土権を主張できる。
「それが分かっている亡命先も、そう簡単には皇女を手放さないだろう。ご本人が皇都に戻りたいとでも云わない限りはな」
帝国から専制国家となった後も戦の狼煙は絶え間なく上がっていた。尊厳侯を新しい君主とは認めない地方が次々と兵を挙げた。反乱は片端から鎮圧されていったが、補充兵は幾らいてもそれで足りるということはなかった。
皇都の人々はもう戦にはうんざりしていた。
「やはり、尊厳侯では抑えがきかないのだ。海の向こうに亡命された第三皇子がお帰りになって下さればいいのだが」
「皇子も尊厳侯が死ぬのを待っているのだろう」
そんな話にも、テセウスはさして関心を示さなかった。市民に義務づけられた徴兵期間はもう済んだのだ。前回の戦の功労として十分な金をもらった。その金で郊外に土地を買った。このまま専制国の片隅で静かに暮らしていければそれで十分だった。
自作農にとって日々の暮らしは帝国時代と変わらない。
土に鋤を入れて耕す。錆びた鉄のような匂いが鼻先を掠める。怒号、喇叭、軍馬、交差する剣と盾。脳裏によみがえる忌まわしい記憶。
破城槌で破壊された壁から街になだれ込んでいく兵士。略奪の火の手と蹂躙される人々の悲鳴。
皇帝が殺されるという激震の後、地方から次々と上がった独立のうねり。外国からの侵略。援軍が間に合わず、捨て石にされた帝国領があの頃は幾つもあった。
「皇女さまね……」
畠の脇に掘り返した木の根を棄てながら、興味なさそうにテセウスは呟いた。
「あれから十年。少女だった皇女さまもいい歳だろう。亡命先の外国で、どうしておられるのやら」
戦争の起源とは、領土や食料ではない。女の取り合いから始まったのだ。獣を見ていたらそれは分かることだ。雄は雌を奪い合って牙を立て死ぬまで闘う。
戦場で見た幾つもの無残な光景。
女の悲鳴を聴いたような気がしてテセウスは固く眼を閉じた。
テセウスだな。お前を見込んで頼みたいことがある。病人を護衛して、腕のよい医者がいるという異国に送り届けて欲しいのだ。
家に現れた貴人の依頼を、テセウスは断った。畠に種を撒かなければいけない時期だった。
「家のことは邑の者に頼んでおけばよい」
貴人はさらに金子を積んだ。
病人を皇都から医者の許に連れていく。たったそれだけのことで、貴族がわざわざテセウスを訪れるとは想えない。裏のある話に違いないのだ。そしてこうして打ち明けられた以上、断れば口封じに殺されるのだろう。
貴人は翌日迎えに来るという。テセウスは一晩中、考えた。
結局、テセウスは依頼を引き受けた。そうする他なかった。函のような輿に押し込められて、誰の屋敷かも分からない豪邸へとテセウスは連れて行かれた。専制国と名を変えても、中心部は昔のまま皇都と呼ばれており、旧来どおりの法律が生きていた。
「海の向こうには名医がいるということだ。病人をそこへ送り届けてもらいたい」
さらに貴人は奇妙なことを求めてきた。宿には泊まらず野宿すること。
「道中、病人の世話を頼む。しかし病人に触れたり顔を見ることはならぬ」
「それはお約束できません」
テセウスが云い切ると貴人は厭な顔をしたが、ややあって、テセウスを屋敷の離れに招き、病人に逢わせてくれた。
「この屋敷はすぐに引き払い、わたしも帝国領の外に出るつもりでいる」
病人のいる離れに入ったテセウスは、すぐに外に出てきた。
不治の業病。
テセウスはもう何も云わなかった。
出発は翌日の早朝だった。粗末な馬車が用意された。荷台に幌をかけただけの、何の特徴もない素朴な荷馬車だ。病人はそこに載せられた。
「ここからは、お前が馬車を運ぶのだ」
屋敷に来た時と同じように、目隠しをした上で連れ出され、途中で目隠しを外された。そこまで馬車を進めてきた下男はテセウスに手綱を渡すと御者台から降り、馬車を残して何処かに行ってしまった。
テセウスの前に広がるのは、うす蒼い夜明けの空と、皇都の街並み、そして凱旋門を貫いて地平線まで続く街道だった。
馬車、テセウス、病人、一頭の馬車曳き馬。
昇る旭日に眼をほそめ、御者台でテセウスは先のことに想いを馳せた。荷台にいる病人のことではなく楽しいことを考えるべきだ。
この仕事が終わったら、嫁をもらい家庭をつくろう。
テセウスは手綱を揺らして馬に合図を送った。馬車は動き出した。街道には夜明けの風が吹いていた。
旅は順調だった。云いつけられたとおりに、宿には泊まらず道端に馬車を停めて夜を過ごした。食料は宿場町で好きなものが買えた。テセウスは無口な性質だったが、それに輪をかけて、荷台にいる病人は静かだった。
その日、街道沿いの飲み屋でテセウスは訊いた。噂だが、海の向こうの異国には業病を治せる名医がいるらしいな。
そこに居合わせた男たちはたちまちのうちに否定した。
「なにを莫迦な。あの病に罹ったものは絶対に助からない。すぐに移るような病気じゃないが、昔から人里離れた廃坑や洞窟に閉じ込めて死ぬのを待っているより他にない業病だ」
名医の話は誰も知らないようだった。
壺に入った煮込み料理を店から買うと、テセウスは水と食料を入れた籠を下げて、病人の待つ馬車に戻った。
初夏にしては暑い日だった。昼寝を誘うような心地よい風が吹いている。
「食事です」
町はずれの並木沿いに馬車は停めてあった。いつものように荷台の後方から食料の籠を幌の中に差し入れようとしたテセウスの動きが止まった。踏み台に音もなく足をかけ、テセウスは腰に佩いた剣に手をかけた。
幌の帳を開け放つ。
いない。
周囲の木立ちを見廻した。道に沿った右手の小川から音がする。病人の姿を求めてテセウスが斜面を駈け下りると、水辺から十六、七歳の少女がずぶ濡れの姿で上がって来るところだった。
「さっぱりした」
肌着一枚の身体から水気を払いながら、川から上がってきた少女は云った。
「少し冷たいけれどいい気持ち。あなたも水浴びをしてきたら」
「……業病は、嘘か」
テセウスは少女を見詰めた。
》中篇(上)
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