君よ知るや

朝吹

◆ 序 ◆


  森に強い北風が走り抜け、粉雪がむしられた羽根のように舞っていた。

 鬨の声が上がった。雪を蹴散らして幾つもの巨大な車輪が転がり落される。崖の上から落とされた車輪は敵兵を跳ね上げ、その重みの下に踏み潰した。さらにその車輪に向けて放たれたのは火矢だ。油を塗られてあった車輪はたちまちのうちに焔を噴き出し、火の手を広げてゆく。

 大混乱となった谷間の敵陣に、別動隊が襲い掛かった。

 太陽が地上に堕ちて燃え上がっている。後方の若年兵部隊にいるアイネイアスの眼には、そのように戦場の様子が映った。

「父上。大勝利おめでとうございます」

 アイネイアスが父の許に駈け寄ると、戻って来た父は、軍馬の前鞍に少女を乗せていた。少女はアイネイアスと同じくらいの歳に見えた。

「皇家の姫だ」

 父は丁寧な仕草で少女を馬から降ろした。附いてきた侍女が少女の頭や肩に積もっている雪を払いのける。アイネイアスの前に、蒼褪めた少女の顔が現れた。

 父は云った。


 皇女ユーディットさまだ。これより外国に送り届ける。


 父の言葉にアイネイアスは眉をひそめた。しいされた皇帝の後継に名乗りを上げたのは、皇都防衛に立ち上がった軍団長だ。他の将軍を差し置いて帝国軍をまとめ上げた軍団長は自らを尊厳侯と称し、あらゆる国にばらばらに逃げた皇族を見つけ次第、皇都に連れて戻るようにと御触れを出している。皇帝のいない現在、実質的な君主は軍団長だ。父が勝手なことをすれば、後々よくない結果を招くのではないだろうか。

「父上」

 アイネイアスは声を潜めた。

「尊厳侯は、皇族を保護すると云っていますが」

「建前ではな」

 男子皇族はことごとく不自然な形で各地で討たれていた。尊厳侯の仕業と云われていた。

 アイネイアスの肩を掴んだ父は厳しい顔をしていた。

「亡命に成功したのは第三皇子だけだそうだ。忘れるなアイネイアス。皇帝を殺したのは尊厳侯だ。わが家は代々、皇家に忠誠を誓ってきた。第三皇子が帝国に戻られるまでの辛抱だ。それまでこちらの皇女さまにも身を隠して頂く」

 そういうことか。

 大貴族の家に生まれたアイネイアスは傲岸に顎をそらした。あんな弱々しい女子であっても、皇女である限りは、色々と厄介な存在なのだな。

 皇女はアイネイアスの方を見ることはなかった。侍女に庇われながら雪の中にかき消えそうな風情で立っていた。

 父が部下を呼んだ。精悍な顔つきをした熟練兵が機敏な足取りですぐにやって来た。兵士と父としばらく何かを話し合っていた。雪がそれを隠した。

 アイネイアスはそれきり少女のことを忘れた。十年後、不意に皇女の名が持ち上がってきた時もそうだった。

 誰だそれは。

 そのくらい、忘れ果てていた。



》Ⅰ


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